第2話 きなこと友人


「――ねねっ、聞きましたか? きなこさんっ」


 日曜日の休憩開け。アルバイトの緒方ちゃんが、武田さんが作業場を出たのを見計らって話しかけてきた。

 緒方ちゃんは大学二年生。セミロングの髪を二つ結びでまとめた、小柄で話し好きな女の子だ。土日の二時までフルーツで主に詰め仕事をやっている。入ってもう半年ほど立つか。

 手先は器用で飲み込みも早く、仕事に慣れてきたところで、要領よく手の抜きどころを覚えてきたと武田さんがボヤいていた。

 まあ、学生ならばそれも多少は仕方ない。


「なに、緒方ちゃん?」


 手を動かしつつ、ちらりとフルーツの机へ目をやり、わたしは応える。

 ポイントデーやら朝市やら、何のイベントもない日曜日はそれほど混まず、市場も休みで加工する野菜の量も少ない。シフトに入っている人数も少なくて、この時間作業場にいるのはわたしと彼女だけだ。


「フルーツ、新しい人入るらしいですよ。さっき事務所で三井さんと武田さんが話してました」


 ステンレス台の上に一〇個目のミカンのピラミッドを作ると、緒方ちゃんは一度手を止めて振り向いた。二つのおさげが耳の横で軽く揺れる。


「やっと? よかったじゃん。武田さん、イライラやばかったからね」


 ただでさえ気が短いのに人員不足でストレスが溜まり、店長とぶつかることが最近多かった。ケンカするのには見慣れていても、気にはなる。


「どうなんですかねぇ。前の人、一ヵ月で辞めちゃったじゃないですか。その前の人も」

「……うん」


 野菜のメンバーがわたしを除き一〇年を越えるプレイヤーしかいないのに対して、フルーツは入れ替わ立ち替わり、人の出入りが激しい。

 この間六年間勤めていたパートさんが辞めて、それから今いる中で一番長い人は三年目。ここ数ヵ月の間に入った新人三人は、それぞれが一ヶ月足らずでやめている。

 折り合いが悪いのか、はたまたここの環境が悪いのか……。


「続けてくれる人だといいけどね。緒方ちゃんの負担も減るといいし」

「や、まああたしは土日しか入らないし、定時になったら上がれますし。それより武田さんのピリピリモードが辛いですよねぇ」


 言ってから、緒方ちゃんは入り口の方を見て誰もいないのを確認した。


「三船さんなんか、シフト結構変わったりしてるから大変ですよ。包丁うまいのあの人だけだし。でも……何だっけ、働く時間の制限みたいな」

「配偶者控除?」

「そそ。それがあるから調整しなくちゃいけないらしくて。さすがにそこは武田さんと今井さんも気を使ってるみたいだけど。それはそれでまた面倒だし」


 今井さんというのはフルーツのもう一人の社員だ。武田さんよりも年配だがもともと違う部署で、三ヵ月前にフルーツに異動してきた。


「苦労が新たな苦労を生むっていうか……報われないねぇ」

「ホントですよねぇ。武田さん、今井さんにも来たばかりだから色々教えなくちゃいけないし。悪い時には悪いことが重なるって、ホントですよねぇ」


 他人事のように言って、緒方ちゃんはうんうんと頷いた。

 入ってきた当初と比べてよく喋るようになった。最初はこの娘も続けてくれるか不安だったが、持ち前の愛嬌とトーク力でパートの人たちともうまくやっている。

 人間関係の構築はわたしよりもうまいだろう。ややフマジメなトコロがたまにキズだが。


「それじゃあさ、早いトコ作業終わらして、緒方ちゃんが苦労減らしてあげなよ。なんなら包丁の使い方覚えて、カットフルーツもやってあげてさ」

「えー、嫌ですよぅ。わたし、手作業だけでいっぱいいっぱいなのでぇ」


 甘えるような声で言って、緒方ちゃんはミカンを袋に詰め始めた。武田さんが苦々しく思うのはこういうトコロか。苦笑して、わたしも仕事に戻る。


 ……新しい人、か。まあ何にしても続けてくれる人ならばいい。


 いかに不器用で下手くそでも、続ける根気があれば少しずつでも成長していける。わたしがそうであったように。


                  ※


 一二時少し過ぎ。

 休憩室でパンを齧りながら、前のテレビで流れるぶらり散歩番組を見ていると、携帯に振動があった。

 

 ――おいっす。きなこ、土曜の夜暇?


 LINEのメッセージ。送信相手は大学時代の漫画サークルの友人、凛子だ。


 ――うん、休みだよ。呑み? 


 ――そう。あゆ実来れるみたいだから。横浜か川崎あたりで、どう?


 ――新横がいいかなぁ、できれば。


 ――おけ、訊いてみる。


 メッセージのあとにデフォルメされた猫が親指を立てたスタンプが表示され、会話は途切れた。大学時代、凛子とあゆ美は学部も同じで、サークルの中でもよくつるんでいた友人だ。

 気は合ったが、今思い返してみると二人は漫画を描くことにそこまで熱心な人間ではなかった。

〝漫画を読む〟のと〝絵を描く〟のが好きな女子大生。サークルには軽いノリで入ったと言っていた。わたしのように〝絶対漫画家になる〟というこだわりや、目標があったワケではない。だからこそ、わたしの話を興味深く聞いてくれていたのかもしれないが。

 大学卒業後は二人とも真っ当な社会人として働いている。凛子は就活で大手車メーカーから内定をもらい事務職に就き、あゆ美はアルバイトしていたカフェにそのまま就職した。

 二人とも、もう漫画は描いていないらしい。最後に会ったのは半年くらい前だったか……。

 社会人になって五年経つが、会うたびに少しずつ二人は変わっていく。恋人ができたり、業務が変わったり、わたしの知らない面が増えていく。

 恋でも仕事でも、目の前の課題をクリアし日々こなし、着実に進んでいっている。そんなつもりはなくとも、二人の語る言葉にその気配や実感を感じた時、わたしは彼女達との間に途方もない距離が開いた気分になる。

 わたしは進めているのだろうか。進んでは振出しに戻るの、繰り返しをしているだけではないのか――。

 ネガティブな思考を絶ち切るように、わたしはパンの残りをほうじ茶で飲み下した。

 色々思うことはあっても二人と会うのは楽しみだ。仕事の愚痴やその職業でしか体験できないような話、そんなところから思わぬネタが浮かぶこともある。

 もちろん単純に、親しい友人と久しぶりに会う、という喜びもあるし。

 テレビの画面はあとから入ってきた魚屋の社員、大倉さんがチャンネルを代えてニュースが流れている。レジ要員の顧客パートの人たちが若干非難するような視線を向けたが、大倉さんは気づいてもいない。

 明後日、再び寒波が襲い東京でも雪が降るかもしれないという予想を聞きながら、わたしは机に着けた左腕に頭を預け、まどろみの中に沈んでいった。


                  ※


 夜。夢を見た。

 苦痛、不安、恐怖――いつか来るその時、必ずやってくるその時。

〝わたし〟という存在が、終わりを迎える夢。

 両親が亡くなり、友人とは疎遠になり、一人で過ごす毎日。その日の朝、わたしは激痛に襲われる。身体は動かず、かろうじて呻き声を出せるほどの。

 スマホは近くにない。声を出しても来てくれる人はいない。抗い難い苦しみの中で、成す術もなくその痛みを味わいながら、わたしはゆっくりと死んでいく。

 最後に思ったことは何だろうか。怒り、憎しみ、絶望。それすらも激痛の波に呑み込まれ、記憶には残らない。

 終わりたくない、とわたしは思う。結局わたしには何もできなかった。こうなる前に、できることがあったのではないか。

 でも……わたしにできた〝何か〟なんて、ホントはありはしないのだ。

 わかっていながら、わかっているのに、わかりたくなくて――わたしは死にながらもがき続ける。


 左下腹部の痛みで目を覚ました。蒲団の上、夢と同じ場所。

 ――でも、わたしはまだ動ける。

 枕元のスマホを取る。午前二時五三分。


 ……またか。


 最近、これくらいの時間に目が覚める。お腹から背中にかけて貫かれたような痛みに襲われて。

 念のため、去年内視鏡を受けた。異常はないが、ちょっと腸が弱っているので乳酸菌を摂るようにと言われた。朝にヨーグルトを食べるようにしたが、痛みは不意に表れる。

 ひどく喉が渇いていた。ゆっくりと身体を起こし、わたしは台所に向かう。

 ステンレス台の上に置いたペットボトルのミネラルウォーターを、コップに注ぎ、一息で飲む。

 

 ……少し、落ち着いた。お腹の痛みはまだ消えない。

 

 大きく三回深呼吸してから、蒲団に戻り毛布にくるまった。まだ残っている自分の体温の暖かさ。それを感じながら、繰り返し深くゆっくり呼吸する。

 目覚める前からわたしを支配した、絶望感と無力感。痛みの釘に繋ぎ留められたように、それは胸の内に巣食い続ける。

 

 ……大丈夫。

 

 自分に言い聞かせる。もう少しすれば朝が来る。五時半に身体を起こしてニ十分のヨガをやって、紅茶を飲みながらネームを見直して、朝ご飯を食べて仕事に出る。


 ――大丈夫。

 

 同じ朝はやってくる。起きるのは辛いけれど、いつもと同じ朝。わたしにはやるべきことがあり、こなしていくべき仕事がある。

 怖がらなくていい。〝その時〟が来るのは、まだ大分先のはずだから。

 震える身体を抱きしめながら、わたしは繰り返し自分に言い聞かせる。

 大丈夫。朝になればわたしを動けなくしているこの悪い魔法も、一晩で去る嵐のように、消え去っているはずだから――。


                  ※


 待ち合わせは夕方の五時。新横浜駅、改札の近く。

 駅ビルの中、幾本も立ち並ぶ太い柱の一つに背をつけて待つ。パラパラと粉雪が舞うのを正面口の窓張りから眺め、わたしは手に息を吹きかけた。

 天気予報の通り、今日は午後から雪が降り始めた。それほど大きな粒ではないから積もることはなさそうだ。

 休日の夕方、横浜アリーナに続き、キュービックプラザに直結する構内は騒がしい。

 ホール状になっている改札前は普段着の装いで通り過ぎる人が多い。天井からぶら下がる電光掲示板には新幹線の時刻ダイヤが映っており、出張帰りらしいスーツ姿の男性や、旅行帰りらしい家族連れが見上げている。


「おーい!」


 三度目の息を吹きかけた時、改札口の方からよく通る高い声が聞こえた。

 顔を向けると、小走りの凛子と、彼女に引きずられるようにして来るあゆ実の姿が見えた。


「ごめんごめん、待った?」

「んーん。早く着いたし、その辺見てた」


 黒のロングヘアー、ベージュのワンピースの上に紺のジャケットを羽織った凛子は、あははと笑いつつ、出てきた改札の方を指した。


「そこで、ちょうどあゆ実と会ったのよー」

「店、ちょっと顔出さなくちゃいけなくてさ。バイトの娘が寝坊して、バックレたワケじゃなかったから大丈夫だったんだけど……」


 髪の外側に軽くソバージュをかけ、髪を茶にしたあゆ実が言う。グレーのロングコートの下は白いセーター、緑色のパンツを履いている。


「相変わらず忙しいんだ、あゆ実。ちなみに凛子は寝坊だって」

「あんた、いつまで寝てんのよ?」

「違うって! 今日寒いじゃん? 部屋掃除して、炬燵入ってテレビ見てたらついウトウトしちゃってさぁ……」

「しょーもない休日ねぇ」

「休みに呼び出される社畜さまよりマシだわよ」


 ふふん、と笑って言った凛子を、あゆ実は細めた目で睨んだ。


「きなこは? 何してたの、今日?」

「朝ランニングして、軽く掃除して……それからご飯食べてネーム見直してた」

「相変わらず健康的ね」


 どこか安堵したようにあゆ実が笑う。


「ってかさ、きなこ?」


 つぶやいて、凛子はわたしの身体を上から下までまじまじと見つめた。


「あんた、カッコが若すぎるわ。学生かよ」


 やや大きめのGパン、黒いダッフルコートの下に白のパーカー。そしてビリジアン

のマフラー。

 わたしとしては……普段よりもやや気を使った、外行きの服をチョイスしたつもりなのだが。


「そ、そうかな。でもパーカーの下、ちゃんとヒートテック二枚重ね着してるから」

「や、ファッション的な視点を言ってんのよあたしは」


 呆れたように、凛子はわたしの額を指でつつく。まあ、わかってての負け惜しみなんだケド。


「それじゃあちょっと、アラサー女子的にねぇ……。何か、背伸びした中学生男子みてーよ」

「まあいいじゃない、きなこらしくて」


 怪訝な目を向けてくる凛子に、生温かい眼差しのあゆ実。

 対照的なのに、どちらからも同じような悪意を感じる。


「――と、とにかく行こうよっ。今日土曜なんだから、早いトコ入る店見つけないと居酒屋難民になるよっ!」

「せやね。寒空の下、それは勘弁だし」

「予約しとけばよかったんだけどね……ちょっと時間わからなかったから」


 ジェスチャーでごめんと表すあゆ実に、もういいって、とわたしは手を振った。


                  ※


「――かんぱーいっ!」


 駅ビルを出て、F・マリノス通りを歩く途中で見つけた個室居酒屋に腰を落ち着け、わたしたちはビールの入ったジョッキをかち合わせた。


「は~っ! 休日に呑む酒はうまいわねぇ!」

「まったくね。急な仕事の呼び出しがあったあとだと、余計にね」


 満悦気な凛子に皮肉っぽく言って、あゆ実はお通しの煮物に箸をつけた。


「ってかさ、あんたんトコって確かほぼ週六でしょ? それで休みにまで呼び出されるとか、ヤバくない?」

「ヤベーわよ。バイト、数はいるのに入ってくれる子少ないし。店長、二店舗掛け持ちだからいない時はわたしが行かないといけないし。――つーか、古株のパートが調子に乗り過ぎっ!」


 思い出したように言い捨てて、あゆ実はふん、と鼻を鳴らした。


「今の店、去年からだっけ?」


 食べ物のメニュー表から目を上げ、わたしはあゆ実に訊く。


「そ。オフィス街にあるから土日は暇なんだけど、平日の昼時は全然人手足りなくてね。わたしが来る前からいたパートの人、もう一〇年以上やっててさ。仕事はできるんだけど、ちょいちょいハウスルール破ること多くて。こっちも細かいことは言いたぁかないんだけど……」


 ボヤきかけ、それからあゆ実は苦笑した。


「ごめんごめん、ちょっと今日もダルいことあって」

「いいって。うちも長いパートさんは力強いから、わかるよ」

「でしょ? それでいて学生手懐けるのもうまいのよねぇ」


 はぁ、と息をつき、あゆ実はジョッキに口をつけた。


「うちの事務のババアもヘーキで休憩時間破るよ。何か頼んでも〝今やるトコだった〟って。……ま、あたしは雑談くらいしかしないからいいんだけど、店頭で営業してる人とかは結構困らされてるわぁ」


 あゆ実に比べて気楽な調子で凛子が言う。


「羨ましいわ、ホントに。わたしなんて一応は上司なのに、経験年数も歳も向こうが上だからさぁ。注意しても〝それはあなたのエゴなんじゃないの?〟とかぬかしてくるしっ。ルールだから言ってるんだっつーのっ!」


 ぐいっ、とビールを呑み干して、あゆ実は店員の呼び出しボタンを押した。


「料理、適当でいい?」


 メニュー表を向けて、わたしは二人の顔を見る。


「うん。あたし唐揚げ食べたーい」

「わたし雑魚サラダ」

「おっけ」


 襖を開けて表れた店員に料理と飲み物を注文する。わたしはハイボール。凛子は青りんごサワー。あゆ実はまたビール。


「凛子は? どうなのよ、例の職場の彼氏と」

「んん? まー適当にやってるわぁ」


 暢気な返事に、あゆ実はふふん、と意地の悪い笑みを浮かべる。


「ま、休みに会うこともないようじゃあ、もう長くはないわねぇ」

「絡んでくるねぇ。……でも確かに、休み合わなくてってことは多いかなぁ。ちょっと前まで日曜が二人とも休みだったんだけど、向こう、役職着いてから不定期でさ」


 さして残念でも不憫でもなさそうに凛子は言う。それからマスカラの具合を確かめようと、手鏡を開いた。


「あ、二重作ってくんの忘れた」

「このメンツでなに身繕いすることあんのよ」

「ま、そーなんだけどねぇ。外出る時やるクセつけとかないと、会社行く時、忘れたらヤバいじゃん」


 わたしたち三人の中では、化粧も服装も凛子が一番派手だ。

 学生の頃は漫画研究会なんぞに入っているだけあって皆地味だったが、社会人になって、二人の容姿とファッションはずいぶん変わった気がする。

 確かに、わたしだけ服の趣味も変わっていない。化粧もリップと軽くファンデーションくらいだし。


「きなこはどーなの? 最近漫画は?」

「いやぁ、不調かなぁ~」


 頭をかいてジョッキの残りを空ける。ちょうどよく、店員が料理と酒を持ってきた。


「ネーム、進まなくてねぇ。どれも前描いたものの焼き直しみたいな話にしかならなくて……」

「へぇ。ってか、きなこくらい絵うまくても未だに漫画家なれないんだから、あたしらなんて、ホント論外だったよねぇ」


 悪気なく笑って凛子が言う。

 少しだけ、胸がちくりとした。


「やりたいこと続けてるって凄いことよ。わたしなんて、就活やる気しなくって、バイト先で決めちゃったワケだし」

「あたしも~。今勤めてるトコ決まったら、もう面接御免! って感じだった」

「あはは……そうだよねぇ」


 軽く笑って、ごまかすようにハイボールに口をつける。

 あの頃――道は違っていても、わたしはわたしたちの選択に、それほど差を感じていなかった。

 歩く道は一緒じゃないが、未来へ向かう方向は同じ。すぐ隣を歩いている。そう思っていた。


「もう五年目かぁ……正社員の話とか、出たりしないの?」

「うん、希望してないから」

「そっかぁ」


 あゆ実は何か考えるような顔で、サラダを取り分けている。


「まあでもさ、就職すんならボーナス出るトコにしないとダメだよっ。それだけでやる気のボルテージ、全然違ってくるから」

「うちないんですけどー」

「うっそっ! そんだけ働いて!? やっぱブラックじゃんっ!!」

「グレーよ。黒に限りなく近いグレー」


 軽口を叩き合う凛子とあゆ実。彼女達と自分との間に、薄い膜のような壁を感じるのは気のせいだろうか。

 ……二人とも、そろそろわたしが今の状態を抜けると思っているのだろう。

 漫画家を諦めて、何かしら真っ当な仕事に就く。モラトリアムの期間は充分過ごした。二七歳、三〇を前にして、自分の生き方を決められる最後の時期かもしれない。


 ――そうだ、もうそんなに時間はない。なのに。でも。わたしは……。


「今度見せてよ。きなこの漫画」


 サラダの盛った器を前に置いて、あゆ実が唐突に言った。はっとして、わたしは視線を上げる。


「あたしも読みたーい。あの頃からどんだけ上達したか知りたいしさぁ」


 唐揚げに噛り付きながら、凛子も口を挟む。


「……うん、そうだね」


〝歩く速度が違うと友達ではいられない〟。昔、何かの本でそんなセリフを読んだ気がする。


「ちゃんと一本、満足するのを描き上げたら、二人に読んでもらうよ」


 同じ方向に歩んでいたようで――いつの間にか、わたしは一人、置いていかれていたのかもしれない。


                  ※


「さぶっ。雪まだ降ってんね」


 外に出ると、大袈裟に身震いして凛子が言った。


「ホントだ。ま、小粒だけど」


 あゆ実は掌を空へ向け、積もった雪が水になっていくのを眺める。マフラーに顔の半分を埋め、わたしは頷く。

 三人揃って通りを歩き、駅へ向う。他愛もない雑談を交わしながら。

 着いたのは午後九時少し前。改札前の人気はさっきよりも減っていた。


「きなこ、八王子方面だよね?」

「うん、二人は横浜か」

「そだね」


 改札に入り少し歩いたところで凛子が不意に立ち止り、振り返って、わたしを見た。


「あのさー、きなこ」

「なに?」


 うしろにいたあゆ実も、顔を覗かせる。


「あたしって、夢を持ったことないんだよね。今の仕事続けてるのも、別に好きじゃないけどやれるからやってるってだけで。今よりイイって保証あるなら、転職するのも悪くないって思ってるし」

「うん?」


 凛子は言葉を探すように視線を宙へ泳がせた。話の意図が読みきれず、わたしはその横顔を見つめる。


「なんつーかさ、自分の生き方? みたいなの。ケッコーいい加減に決めてきたワケ。それが何となく続いてて、まあうまくいってるからいいや、って思ってるんだけど。――でもね、あんたみたいにやりたいことがあって、それを叶えるために頑張る生き方も、羨ましかったりするんだわ」

「……うん」


 凛子は自分の言っていることを確かめるように、いつもより遅いテンポで話していた。


「わたしもそうだな。学生の頃はきなこが羨ましかった。夢中になれることがあっていいな、って。今は、自分のカフェを持つって目標があるけど」


 薄く笑って、あゆ実がつぶやく。


「うん。だからさ、何が言いたいかっていうと……好きならずっと続けてったっていいし――そんで、嫌になったら辞めてもいいと思うんだよ。あたしにはそーいうのなかったから、仕事してるんだし」


 頬をかき、目線を少し逸らしたまま凛子は続ける。


「あんたが漫画描くの辞めても続けても、あたしらは友達じゃん。呑みには付き合ってもらうしさ。――ね、あゆあゆ?」

「何よ、その気持ち悪いあだ名……まあ、休みが取れたらね」


 あゆ実は少し皮肉っぽく頷き、照れをごまかすよう、絡めてきた凛子の腕を振り払った。


「あ~つれないなぁ~」

「釣堀じゃないからね。つまんないか」

「くっそ、つまんね」


 二人の顔がわたしへ向く。

 一瞬だけ間をおいて、わたしは頷き、笑っていた。


「……うん、ありがとう」


                  ※


 横浜線桜木町行きに乗って去って行く二人へ手を振り、わたしは駅のホームから空を見上げた。

 徐々に弱くなっていく雪。うっすらと積もったものも、明日の朝には溶けてしまうだろう。

 明日は仕事だ。電車が遅延すると困るし、早くやんでもらった方がいい。冷えて強張った手を握りしめる。


 ――だけど、今は。


 わたしは願わずにいられなかった。この雪が降り続いてくれればいい。白い結晶でわたしを包んで、この世界から隠してくれればいい。

 焦燥も不安も忘れて、少しだけ〝ここ〟に留まっていられるように……。

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