第1話 きなこと仕事
ドアを開けて、部屋の電気をつける。
八畳ロフト付き、ユニットバスのワンルーム。家賃は四万円。ギリ東京から外れてはいるが、徒歩で県境を横断でき、電車はJRと小田急線が走っていて利便もいい。
もっともわたしが鉄道に乗るのはパートに行く時だけで、買い物のほとんどは駅前周辺の商店で事足りる。電車で遠出するのは、学生の頃の友人と呑む時くらいか。
台所の横にある中型冷蔵庫を開け、帰りにスーパーで買ってきた品を入れる。
ネギ、豆腐、焼き豚の塊、牛乳、トマトジュース、ハイボール用の炭酸水。マーボー豆腐の元と、まだ開ける予定のないマヨネーズは常温。四色生チョコは……冷やしておくか。
ユニットバスの洗面所で、手洗いうがいをしてメガネを拭く。スウェットに着替え、台所下の収納棚から買い溜めした五○○mlコーヒーのペットボトルを取り出し机に向かう。
散乱した机の上には昨夜遅くまで描いたネーム帳があり、最後のページに大きくバツが書き殴ってある。一五ページほど進めたところで、全部がダメに思えて投げ出したのだ。
ネーム帳を手に取り、パラパラとめくってみる。
つまらなくはないけど面白くもない。出だしのヒキが弱く凡庸な始まり。時間があったら読んでもいいけど、読み飛ばしてもいい作品。あとの展開にも最初の印象を裏切る衝撃はない。
ため息を吐き、わたしはペットボトルを開け口をつけた。マグカップだとこぼした時悲惨な事態になる可能性がある。絵を描く時は、蓋のついた飲料の方が望ましいのだ。
「……うしっ!」
軽く頬を叩き、前髪をバンドで縛りちょんまげにして椅子に座った。今ストックしているネタは五つ。そのうち、形にできそうなのは二つ。
頭の中で大まかな形はできていても、実際に描いてみないとイメージは固まらない。ネームで形にして、それで初めて自分の考えたことがどの程度のレベルか実感できるのだ。
二ヵ月前に出した作品は一次選考で落ちたという発表を一昨日見た。その間、下書きまで進めようと思えた作品は一つもない。そろそろネームだけでも形にしないと。
ちらりと、机前の壁に貼ったカレンダーに目をやる。次目指している賞の締め切り、一ヵ月を切っていた。
二月下旬。最近は寒さが弱まる日もあり、季節は徐々に春の気配を感じさせる。
もうひと月も経てば春が来る。
一人暮らしを始めて、五年目の春が来るのだ。
※
「大根と白菜、まだー?」
「できてまーす」
台車をバックヤードの廊下に置き、作業場に入ってきた三木さんに御手洗さんが朗らかに答える。
チラリと目をやると、三木さんは手前のキャリー車の上に置いたバッドの中身を覗き頷いた。
「はい、ありがとうございます。……田畑さん、フルーツキャベツとカボチャのカット」
「すぐやるよっ!」
威勢のいい田畑さんの声が響く。すぐに視線は切ったが、三木さんが苦笑しているだろう様子が想像できる。
「お願いします。――山田さん、サニー結構売れてるから、上げたら出していいかも」
「了解ですっ」
水洗いのシンク前で、外側を剥いて根を切ったサニーレタスをシンクの水の中に沈めていたわたしは、振り向いて応える。
「今日よく売れてるねぇ。テレビで何かやったのかな?」
「昨日も売れてましたよ。暑くなってくると動きやすいですけど……今の時期はめずらしいですね」
軽口を叩きながら、サニーレタスを一つ分の長さに切り揃えたビニール袋に手早く詰めていく。
冬場の水洗いは低温で手がかじかむが、わたしは手袋を二重にしているので多少はマシだ。わたしがいない日に担当している大滝さんは、何と素手でやっている。
「他のも同じ調子で売れてくれるといいんだけどねぇ……。ちょっと単価上げるよ」
言い残して、三木さんは大根と白菜を詰めた段ボールを抱えて作業場を出て行く。手は一つしかないっての、という田畑さんのボヤキが聞こえる。
金曜日。世のスーパーが大抵混雑するように、わたしの勤めるこの神坂SMスーパーマーケット相模原店も忙しさに追われていた。
昨日が給料日だったことも相まって、朝からお客さんの入りは多い。冬場はあまり売れない、わたしが担当している葉菜やセロリも今日昨日に限っては好調だ。
商品の売れ行きがいいと補充するための作業が忙しなくなるが、大量の売れ残りを手直しして忙しいよりは遥かにいい。店にとっても野菜にとってもお客さんにとっても、その日入荷のいい状態で売れていくのがベストなのだ。
「……よしっ」
水から上げて袋詰めしたサニーレタスを、プラスチック製の深底バッドの中に並べ終える。早く店へ運ばなければ。
この青果部門、野菜フルーツ加工作業場がわたしの職場だ。神坂SMの規模は中型店のフルスペック。社員は野菜とフルーツでそれぞれ二人ずつ、パートとアルバイトは野菜が六人、フルーツが五人だ。
店の規模と売れ行きからすれば、野菜はちょうどよくフルーツが人員不足気味。こちらの仕事が終わればわたしたちもフルーツを手伝うようにしているが、特に仕事が多い日は社員が残業することになる。
月に四〇時間――うちの会社の残業時間の制限。これを超えると店長から小言を言われ、本社からも注意が来るが、今はそれを気にする余裕もない。
ただでさえ短気であるフルーツ担当社員、武田さんは、そういう事情もあって、ここのところカリカリしている。先々月辞めたパートの人の代わりが早く入ってくれるといいのだけれど。
サニーレタスを入れたバッドをキャリー車の上に乗せて、スウィングドアを開き売場へ出る。
「いらっしゃいませー!」
少しだけ声を高めに、マスク越し、わたしは元気よくそう言った。
夢を目指す、といってもまずはその日を食べる糧がなくては話にならない。
ゆえに住む場所を決めてライフラインの契約もしたわたしが最初にしなければならないことは、生きていくための収入源である〝仕事探し〟だった。
給料は多いに越したことはないが、働くことで漫画を描く時間を取れなければフリーターを続ける意味もない。週五日で休憩込みの八時間。時給でも変わるが、その辺りが生活と描くことを両立できるギリギリのラインだった。
アルバイト誌やネットの募集ページを見て、都合が良さそうなところに連絡し、片っ端から受けてみた。本屋、カフェ、レンタルビデオ屋、ファーストフード、クリーニング店……。
社交的とはいえず、愛想もそれほど良くないわたしは接客面で躓き、落ち続けた。ようやく受かった深夜のラーメン屋も、不規則な生活で体調を崩し半年足らずで辞めてしまった。
一ヵ月ほどウジウジしながら、それでも漫画だけは描いて日を過ごした。母親から渡された三〇万は、その時で一〇万を切っていた。
一度辞めたことで無力感に陥っていたが、このままじゃ本当に生活できなくなる。預金が尽きる危機感で何とか気持ちを奮い立たせて、また仕事を探し始めた。
漫画を描くこともそうだが、手を動かす作業系の仕事が向いているかもしれない。それも、深夜にやる仕事ではないモノ。
ピッキングなどの軽作業で的を絞り検索して、今の仕事を見つけた。
売り場に出るので多少の接客はあるが、ラーメン屋の経験で苦手意識は幾分マシになっていた。何よりその頃は金銭的にも追い詰められていて、受かった以上、なりふり構っていられる余裕もなかったのだ。
――とはいえ、実家にいた頃ペンは握っても包丁を持った経験はない。一人暮らしを始めてからも、せいぜい野菜を茹でて作り置きする時に触るぐらい。
不足していた水洗い(葉菜、セロリ、土汚れのあるもの担当)要員として巨大なシンクの前に立ち、セロリの根を手慣れぬ包丁で必死に削ぐ姿を、当時わたしの指導にあたっていた社員は絶望の眼差しで見つめ、年配のパートさんたちからは白い目を向けられていた。
それでも、ようは馴れ。手は器用な方だし、続けていくうち包丁の扱いにも馴染んでいき、勤めて三ヵ月を過ぎる頃には、それなりの様になっていた。
野菜の切り方も上達し――パート最古株の田畑さんには、雑、効率が悪い、鳥頭、などと説教されることもあったが――悔しい気持ちは発奮材料になったし、めげずに努力する姿勢を見せることで、多少は認められているという感触もあった。
その頃から周りに目を向ける余裕ができ、コミュニケーションも、少しずつ取れるようになっていた。
スーパーの社員は異動が少なくなく、わたしに仕事を教えた押切さんは二週間後には違う店に行ってしまい、代わりに三〇代の男性社員、荒田さんという人が入ってきた。
野菜の社員はもう一人、こちらは三年近く相模原店にいる五〇代男性の古林さん。あまり喋らない人で、うるさく言わない代わりにアドバイスもしない。
異動してきたばかりの荒田さんは店のやり方を覚えるのに忙しく――この人も次の年にはまた異動になって、今の三木さんと代わったのだが――わたしに構う余裕もなさそうだった。
わたしがいない時の水洗い担当、大滝さんは遅番で正午前から仕事に入る。歳は三四、未婚だが恋人はいる。長身で身体つきもよく、格闘技をやっているというアクティブ女子だ。
押切さんがいなくなって以降、水洗い仕事関係でわからないことは大滝さんに訊くことが多かったが、いかせん彼女も野菜の品出しで作業場を出てることが多く、その間は自分で考えてやる必要があった。
他に野菜加工のパートは四人。気が強く、青果でもっとも古株の田畑さん、四〇台女性。田畑さんと二年違いで入り、歳は上の内海さん五〇台女性。やや天然で、穏やかな性格の御手洗さん、四〇台女性。口数は少ないが気の利く唐澤さん、四人の中では一番若手、四〇代女性。
フルーツには大学生の娘もいるが、周りのパートはほとんどが中年配の女性である。青果部門に限らず、他部門もそれは同じだ。
……よく聞くことだが、同じ店で経験の長いパート社員は若手の正社員よりも仕事の歴が長く、またパート同士の関係、常連のお客さんのデータなど、その店独特の知識も深い。
さらに厄介な要因として、女同士のネットワークは男の繋がりの比ではない。
揶揄でも比喩でもなく、スーパーマーケットという世界は中年配の女性によって回されている世界であり、例え立場が上であろうとも、彼女らを敵に回せば円滑な職場環境を維持するのは難しい。
――もっとも、真っ当に仕事している人なら多少価値観や意見の違いで喧嘩しようと、そこまで嫌われることは少ない。
力を持ったパートさんはいても、その力の影響力はパート同士の繋がりによってできる『秩序』によるところが大きいのだ。個人の好き嫌いでスーパーの中に作られた『秩序』を崩すことは、他の全パートにとっての悪となる。
ゆえに、いかに古株で強いパートといえど、なまじ発言や行動に影響が大きいだけに、好き勝手できるものでもない(無論ある程度の勝手はするが)。
なので、多少人間関係の摩擦によるヒズミがあっても、スーパーは回っていく。腹の中に呪詛、怨嗟のマグマを溜めてる人がいようと、何事もないように回っていく。
そういう中でやっていくには、気は使えても〝いい人〟なだけではいけない。『秩序』を守りつつ、時に意見し怒り喧嘩して、自分の正当性を訴えることも大事である。
だいたい一年くらいの期間を経て、わたしはその『規律』を身に染みて学んだのだ。
※
一一時四五分。バックヤードにチャイムが響き渡る。
「休憩、いってきまーす」
水洗い用のエプロン、ゴム手袋、下に嵌めた絹の手袋を外し、わたしは作業場を出た。残る人たちから、いってらっしゃーいと背中に声がかかる。
昼休憩は一部休憩の人と、一時間後の一二時四五分からの二部休憩の人とで分かれている。人がいない状態を作らないため、二コマ時間をズラして設けてある。
バックヤードの通路を歩く。手には野菜が入っていたダンボールの束。休憩時間に外へ出るので、その時に一度溜まった分を捨てるようにしている。
通路を抜けて一階に降り、スウィングドアを開けた先は搬入口と連なるゴミ捨て場だ。
空気は冷たいが、今日は陽が射している。ここは春になれば日向ぼっこにうってつけの場所だ。近くには喫煙所も設けられており、談笑する店員の姿も見てとれる。
ダンボール置き場であるプレハブ小屋の前に行くと、長身で髪をうしろに括った女性が、台車に乗せたダンボールを重なるようにして入れていた。
わたしと同じ青果のパートで水洗い担当、大滝さんだ。
「タッキーさん、この間の保湿クリーム試しましたよっ」
手に持ったダンボールを小屋に投げ入れて、わたしは大滝さんに話しかけた。
「ホントに。どうだった?」
「ん~、やっぱり前使ってるヤツの方がいいですかねぇ。ちょっと匂いにクセあるし」
「そっか」
「馴染みはいいんですけど。同じのずっと使ってると変えづらいですよねぇ」
「まぁね」
わたしの言葉に、大滝さんは顔を向けつつ淡泊な返事をする。
表情の変化が少ないので誤解されることもあるが、彼女はサバサバした性格で余計なことを言わないだけだ。こちらの話に対する反応が薄いので、わたしも最初は嫌われているのかと思ったものだが。
「今の時期、クリーム必須ですもんねっ。で、なるべく出費は抑えたいし」
「そうだね。肌割れるとクセになるし」
「あ~女子にはそれが辛いですよねぇ~」
手の甲を擦りながらわたしは頷いた。手袋ごしとはいえ、仕事中はほぼ手は水に浸かった状態なので、皮脂が落ちやすく乾きやすい。冬場は冷たいのも辛いし。
「わたしまだ手袋してるけど、タッキーさん今の時期、ヤバくないですか?」
「もぉ手の感覚、ないね」
自分の両手をワキワキ動かし、大滝さんはおどけたように少し笑ってみせた。
※
総菜パン二つと、休憩室にある年季の入った給茶機のほうじ茶で昼食を済ませる。それからニ十分ほど、机に頭をついて仮眠。左腕を枕にするのが学生の頃からのわたしのスタイルだ。
幾分スッキリした頭で作業場に戻ると、制服姿の中年女性があとを追うように飛び込んで来た。
「――ちょっとこれ、状態悪すぎない? もっといいの無いのっ!?」
肩の下辺りまで髪を伸ばした、背の低い小太りの女性――電話注文担当(通称 電注)の古株、田中さんだ――が早口に言う。
濃い赤の口紅とアイラインは、釣り目の気の強い感じに一層の拍車をかけている。眉間の深い皺も相まって中々の迫力だ。
〝電注〟はその名の通り、お客さんが電話で注文した商品を売り場から探して配送用に詰める係の人だ(今はネットでも受け付けているが)。問い合わせにより店にあるもの無いもの、あるけど欠品しているもの、期間限定で置いてあるもの、他店にはあるもの――などを各部門に確認する必要もあり、忙しい時にはうるさがれる仕事である。
わたしは着けたばかりの水洗い用エプロンを外し、渡された〝わさび〟を見る。摺り下ろす前のイモ状のヤツ。確かに形は円柱が少し崩れた感じになっているが、目は詰まっているので味は悪くないと思う。絶対とは言えないが。
「それと、注文票に書いてあったオクラ三パックも無いんだけどっ!」
オニオコゼのような形相で、田中さんは責めるように言い立てる。
客注から頼まれたものをまとめて渡す担当……今日は内海さんと御手洗さんだったハズだ。わたしが責められる謂れはない。
「……売り場ですね、両方とも」
だが、それを言っても仕方がない。向こうはこっちを〝青果、野菜担当〟と一括りに見ている。腑に落ちないことがあっても、ぐっと抑えて飲み込むことがチームプレイには必要だ。
売り場へ向かうわたしの後を、田中さんはブツブツ言いながらついてくる。野菜売り場でまずオクラのパックを三つ。続けてわさびを見るが、どれも似たり寄ったりだ。
「これが、一番マシかな?」
それでもさしたる差はないが、自分なりに見分けて良いものを渡してみる。
「これでぇ? あのさぁ、事前に言っておいたんだけどぉ」
――言・い・か・た。
語尾を上げて睨みつけてくる田中さんを、わたしは細めた目で睨み返した。
わたしが聞いたワケじゃないです。社員に訊いてください――そう返しやいいのはわかっているが……。
「いや送ってくるのは市場からだし。わたしが育てたワケじゃないんで」
声のトーンを若干低くし、わたしは早口に言っていた。
目には目をじゃないが、感じ悪いヤツにはこちらの感じも悪くなる。残念ながら、常に下手に出て事を納められるほどわたしの心は広くない。
宙の間で痺れる険悪な空気。田中さんは下唇を噛み、くっ、と息を吸って、わさびの棚に目をやった。
「どうしたの?」
サービスカウンターで客対応をしていた三木さんがわたしたちに気づいて近づいてきた。
「三木くんっ。あのさ! 朝頼んだわさび悪くて! それからオクラも入ってなかったのよっ!」
オクラのことまで蒸し返すのかよ。うんざりした顔で聞く三木さんを横目に、わたしは作業場へ踵を返す。これ以上構ってられないし、三木さんなら適当に対応できる。
途中、自分の担当する葉菜の売れ行きをチェックするのは忘れなかった。
「――発注した商品はパートさんに言ってもわかんないから、俺に訊けって言ってあるんだけどさ。まったくねぇ……」
ツーブロックの頭を掻きながら作業場に戻ってきた三木さんは、苦笑を浮かべてつぶやいた。
わたしはネギの整形に取りかかる。
「置いてある中ではいいものを渡したつもりなんですけど」
「仕方ないんだよねぇ、向こうも必死になってて、言っても聞こえてないから。……ま、気にしないで」
宥めるように言い残し、三木さんは出ていった。事務所に午後までの売り上げを確認しに行ったのだろう。
電注や事務所とのやり取りで、ちょっとした衝突はよくあることだ。こちらのミスもあれば向こうのミスもある。今回はこちらのミスではある――が、ああも感じ悪く言われる筋合いはないと、わたしなんかは反発してしまう。円滑にやってくつもりなら、もうちょい丁寧な言い方あんだろーがよ。
人間関係ってマウント取るより三割相手のことを考えられれば気持ちよく進むと思うのだが。そうできない人が多い。……わたしも含めて。
人は自分を映す鏡。敵対心には反抗心で迎え撃つ。でなければ相手はどんどん侵略してくる。それで辞めていったパートさんたちを、少なくない数見てきた。
色々な性格の人と関る場でやっていくには、ただのいい人ではダメだ。場合によっては戦わなければならない。戦えないことは人間摩擦が生じる社会生活の場では罪となり、弾き出されてしまう。
それも学校じゃ教えてくれない〝社会のルール〟だ。
「……っし、と」
気を取り直し、仕事に集中する。
売れ残りを手直しした商品やゲソ(値下げ品)が多かったため、今日の仕事は少し遅れ気味だ。次の休憩までに水洗いは終わらせておきたい。
包丁を握る手に力を込め、わたしはまな板に置いた三本括りのネギの頭を切り落としていった。
※
小田急相模原駅から新宿方面へ三駅。疲れた身体を引きずりながら、電車を降りる。
水洗い終了後、片づけをしていたら先に仕事を終えて終業までの時間を持て余していた内海さんが、シンク下から続く排水溝に目をつけて掃除を始めた。
ゴム長靴を履き、ゴム手袋を着けて、デッキブラシで床に散らばった野菜クズを集めていたわたしは、それに付き合うことになってしまったのだ。
掃除を終えた内海さんは満足そうだったが、彼女が上がったあと、わたしは予想外に売れて空いた店内の棚を補充するのに時間を食ってしまい、終わった時はクタクタだった。
基本的に静かで淡々としているのだが、たまにそういうアクティブなスイッチが入るのが内海さんなのだ。――え、今それ? って時もままにある。まあ本人に悪気はないのだけれど。
駅を出て、アパート最寄りの大型スーパーに立ち寄り買い物をする。
神坂SMは大手チェーンスーパーに比べて比較的高い商品を扱う高級スーパーなので、何かよほど欲しいと思う商品がない限り、自分で買うことは少ない。
客数や販売数でこの格安大衆スーパーにうちは敵わないだろう。価値のある商品を単品訴求し、質で勝負していくしかない。
ペットボトルの水、インスタントの味噌汁、卵……今日の夕食はマーボー豆腐にするので五〇円の木綿豆腐を買う。帰りがけ、一人暮らしのわたしが買う量などささやかなものだ。だいたいいつも千円以下に抑える。
……あ、ハイボール用のウィスキー買っとこ。これは別費で。
建物の外に出ると日は暮れかけていた。
午後五時二五分。寒い日は続くが、明るい時間がずいぶん長くなった気がする。
川沿いの道を歩き、住宅街入り口の手前に並んで立つ自分のアパートへ帰る。
部屋の明りをつけ、窓を開けて手洗いうがい、買ったものを分けてしまって、いつものように五〇〇mlコーヒーの入ったペットボトルを持って机へ向かう。
こんな日々をもう五年近く続けてきた。働いて、買い物して、漫画描いて、休みの日には掃除洗濯して、買い物して、漫画描いて……。
『君さぁ、SFや王道なストーリー物より、日常系のキャラクター漫画の方があってるよ』
何度か公募に応募し、そのツテでアポをもらった出版社へ持ち込みに行った時、わたしの漫画をペラペラと眺めて、嘆息混じりにその編集者はつぶやいた。
『画力、正直言ってあんまりないし。展開もありきたりでベタじゃん。でもキャラクターの造りはいい意味でクセあって、それは強みになると思うよ。――だからさ、学園ものとか日常もの、中身なくていいからそういうネタ探して描いてみたら?』
はあ、と生返事をしたわたしを細めた気のない目で見つめ、編集者は、じゃあはいこれっ、と原稿を返してきた。読んだ時間は正味三〇秒ほどだった。
言われなくても、自分でわかっていた。わたしには才能が無い。
SFでいえば古くは大友克洋、新しくは諌山創――王道でいえば、鳥山明や尾田英一郎――サブカル風な画風でありながら、世を魅せた吾峠呼世晴――といった、壮大な物語を描く才能が。
ペンを握って一〇年以上、思い知る機会はいくらでもあった。
もし、それでも本気で漫画家になりたいと思うのならあの編集者の言った通り、読者が求め、需要のある漫画を描くべきなのだ。熱中して、力を込めて読む漫画を描ける人はわたし以外にいる。読んで一分以内に終わる程度の軽くライトな漫画――それだってもちろん食べていくには才能がいる。続けていける人は多くない――でも少なくとも、画力がなくて魅力あるストーリーも作れないわたしにできる望みがあるのは、〝そっち側〟なのだろう。
だけれども、それでもわたしが描きたいのは、〝王道な少年ストーリー漫画〟や〝SFストーリー漫画〟なのだ。
少女漫画よりもジャンプやマガジンにハマり、小学生の頃は男子の友達と週刊誌を回し読みし、中学に入ってからは、女子の中でも少年漫画が好きなグループとキャラクター談話に花を咲かせ――いつか、わたしもこんな漫画を描いてみせる! と決めていた。
たとえ漫画家になれたとしても、自分の描きたい物で評価を得なければ意味がない。〝漫画を描く〟という行為が好きで漫画家になった人もいるだろうが、わたしにとってはそれは違う。
ならば何を言われようと、自分で才能がないとわかっていても、できることを続けていくしかないではないか――。
〝自己満足の漫画を描いて、身内だけで盛り上がって、そんなものが世間に通じると思うのか――〟
ネームを描く手が不意に止まる。父親の言葉が、突然脳裏をよぎった。
途端、胸に不安と焦燥が膨らんでいく。
……ダメだ。
押し殺すように手を動かす。描くしかない。ダメとか思うんじゃなくて描くしかない。今、わたしにできることはそれだけだ。
――だから、手を止めちゃダメなんだ。
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