第55話 カレーのお釈迦様 ☆☆☆
それは茶色や黒ではなく、どちらかというと黄色に寄ったカレーで、見たところあまりどろどろしておらず、むしろスープに近いさらさらだ。
赤味がかった陶器の器に黄色は良く映える。
具材はすっかり煮込まれて形をなくしているのか、大ぶりに切ったポークのバラ肉だけが、陶器の皿に入れたカレーのところどころに主役らしく「でん」と鎮座している。
まずは炊いたコメにかけるでもなく、ナンにつけるでもなく、カレーだけを味わってみよう。
ひと匙すくって匂いをかいでみると、まず柑橘系のような爽やかな香りがして、それから心地良い、いかにも食欲を刺激する深い匂いがくる。
相当な種類のスパイスを使っているのがわかる複雑な香り。
それぞれの香りは独立してるんだけど、それが何のスパイスなのかは殆ど想像もつかない。きっとインド由来の独特の香辛料なんだろう。
その個性がひとつに
さあて、いよいよ食べますよ!
ということで口に含んでみると、なんと、意外なことにまず甘味を感じた。
さぁーっと野菜や果物の甘味がきて、それから強烈な辛み。
この辛みがなんとも重層的で複雑。
まず鼻に抜ける揮発性の辛みがあって、それが一瞬で収まると今度は香りと味が鼻孔と口の中一杯に広がる。
ひりひりとした辛みはもちろん、華やかな爽快感、土のようなどっしりとした旨味、旨味を引き立てる僅かな酸味、苦み、渋み。
それでいて
こ、これは参りました。
今までに経験したことのない、未知の味じゃないですか。
コメは2種類。長粒種のインディカ米と短粒種のジャポニカ米。
提督に勧められてインディカ米にかけて食べてみると、長粒種の淡白さとカレールーの複雑な旨味が調和し合って、口の中はもう、異次元の体験。
ジャポニカ米もナンも試してみたけど、提督のカレーには長粒種が一番相性がいいかな。
具材のポークにも何重もの下味がつけてある。
まずほんのりと酸味を感じるのは、これはわかる、ヨーグルトだ。
これで爽やかさを加えつつ、肉を柔らかくしようって訳か。
でも、他の調味料は何なのか、これはもう全くお手上げだ。
やっぱり何種類もの香辛料が使ってある筈だけど、それが何なのかさっぱり……
とか考えてるうちに、口の中で甘い脂身がさらっと溶けて、赤味がほぐれて、幾つもの旨味を残して去っていく。
しまった! 考えるより、これはもう一口頂かねば。
ここで提督曰く
「どうね、旨かろうもん。カレーは本来が船乗りの料理じゃけんね。下っ端の水平が作ったのはダメさあ。やっぱり船長自らが料理したんが一番だべ」
えっ、そうなの?
(船長の料理云々はともかく、船乗りの料理というのは本当だぞ。昔、イギリスという国の船乗りが、航海中にシチューを食べたくて、しかしミルクやその他の材料が腐ってしまうだろう。それで、当時植民地にしていたインドの香辛料を調合して出来たのが、いわゆるカレー粉の始まりらしい。それから世界中に広まった訳だな)
へー、へー、へーっ(以下略)
(そもそもインドにはカレーなどという料理は存在しないのだ。それがなぜ「カレー」と呼ばれるようになったかというと……)
ウンチクは、ほどほどにしましょう。
今、この瞬間、耳が日曜になりました。
月曜日か火曜日に、あらためて来てください。
(ううっ…………)
それよりも提督だ。
「まあ、冗談はさておいても、自慢のカレーなのは本当さあ。もっとも、皆が皆、自慢のカレーばってんね。使うスパイスや具材も様々、色も黄色だったり茶色だったり黒だったり。『こってり』や『どろどろ』もあれば、『あっさり』も『さらさら』もあるけ。食べる方は、こうじゃにゃーと、ああじゃにゃーとダメとか言わずに、あれもこれも美味しく楽しむのが、本当のカレー好きだのっし」
おお、深い発言。
で、提督のカレーの美味しさの秘密は?
「わっしゃのカレーも、秘密はこれと言ってにゃーだよ」
えっ、なんですとぉ!
「スパイスは好みのものを好みの割合で調合しとるだけじゃけん。しっかしじゃあ、まずバターだなあ。これは極上の物でないとダメだあ。それでタマネギを1時間はじっくりと、こってり飴色になるまで炒めてよぉ……」
これは、脳内にメモ・メモ・メモ。
「基本は定番のクミン、コリアンダー、ターメリックだあ。この3種類で、まあ、カレーらしい風味にはなるすけ。カルダモンを入れると爽快感が増すずらぁ」
これも脳内にメモ・メモ・メモ。
でも、
「辛みはチリ・ペッパーや胡椒は勿論、マスタードじゃね。これが瞬間の『キーン』とくる刺激を与えてくれて、しかも後に残らんすけ、味覚の最初の演出じゃあ」
あ、結局は嬉し気に秘訣を教えてくれるんですね。
ありがとうございます。
「甘みと酸味は、トマトと、何といっても欠かせんのはマンゴーの干したものじゃっど。これが有ると無いとでは、味の深みが全然違って、おやぁーせん。じゃがのう……」
おやぁ? 自慢げな話の雰囲気が変な方向に
「何だかんだ言っても、最近の若ぇー衆はカレーを好まんのじゃ。オシャレじゃない、なんてヌカシよってのぉ」
あらら、そっちですか。よくある世代の味覚の断絶ですか。
うーん、それは難しい問題だねえ。
とか思ってたら、ここで出されたのが抹茶!
インド料理の後に、和風の
土地が土地だけに、ココアでも出るかと思ってたから、全くの予想外だ。
ところが、この抹茶がこれはもう……
深遠さを感じさせる黒い陶器の茶碗に、抹茶の上品な緑の鮮やかな対照。
いや、「鮮やか」とか「対照」なんて言葉では失礼な高貴な
まず、その緑に目を洗われたところに、口に含むと意外なことにひんやりとした涼やかさ。
さらっとした甘味が口に広がって、でも微かな苦みがあって、カレーの興奮を静めてくれて,目から舌から鼻からすがすがしい清澄が広がって、これは反則だ!
「どうね? 旨かろうもん」
「はい、美味しいです!」
(味覚の満喫に語彙が完全に負けておるぞ)
「香辛料のオーケストラの力演の後に、抹茶のソロが清々しい余韻を与えて……」
(陳腐だな。
ああウルサイ。
とにかく!
「この味が出せるスパイスが欲しいんです。それも10万食」
「ゴメンけど、ダメだあ」
えっ、え、え、えっ?
「なんぼおみゃーさの頼みでもよ、ワシの一存では、それは難しいっちゃねぇ。やっぱりシッダ様に聞いてみなくっちゃいけねーだ」
出たか。シッダ様。
例のディ〇・ブラ〇ドーだね。
ふふふ、最強のスタ〇ド、ザ・ワー〇ドならば敵として不足はない。
やったろうじゃないか。血が騒ぐぜ。
(そうではなさそうだぞ。落ち着け!)
「だから、その『シッダ様』って?」
「シッダ・ルータ様だべ」
なんと、シッダルータ
それは、もしかしてお釈迦様?
カレーの総元締のお釈迦様!
「シッダールタではねえだよ。シッダ・ルータ様だあ。区切る場所を間違えないようにするさあ」
はあ。細かなことはどうでもいいけど、そのお釈迦様がどういうこと?
シャカシャカチキンとかで、鶏が絡んでくると嫌だなあ。
(何だ、それは?)
知らない?
(それが今の話とどう関係するのだ?)
だから、お釈迦様とシャカシャカで、ついでにチキンを連想して…… いえ、もういいです。ゴメンなさい。
「10万人分のスパイスとか、量も半端じゃにゃーべぇ。シッダ様の許可が要るだよ」
「じゃあ、いつそのシッダ様に会えるの?」
「いっつも旅ばっかりでっさあ。どこに行っておられるのやら。でもよぉ、昨日あたりから帰って来ておられるから、今は神殿の最上階に行けば会える筈だぁ」
おお、それはラッキーじゃないですか!
(昨日帰って来ただと。やはり、そのシッダ様とやらは……)
「しっかしのう……」
ここで提督は難しい顔で一呼吸置いて
「行かせたくはないだぁ。無理に会おうとすれば、さすがのおみゃーさでも、下手すれば死ぬだぞ」
えっ!?
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