第37話 聖女降臨

 少女が生まれたのは,その当時の教会の本部からも離れた辺鄙へんぴな,何の変哲もない小さな村であった。

 誕生の際に親に与えられた名は知られていない。

 その後に「ミシエル」と名乗るようになってからあらわした奇跡,教会史における存在があまりに大きなものであるから。


 両親はごく普通の農民で,少女は物心つく頃から父母の仕事を手伝いながら,他の兄弟と何ら変わるところなく育ったという。


 彼女が14歳の時,父親が重い病にかかった。

 容体は次第に深刻さを増し,誰が見ても,もはや回復の見込みは無いようであった。

 父の命がいよいよ尽きるかに思われた夜,その地方には稀な雪の降り積もる戸外で,少女は長いあいだ空を仰いで主に祈った。


 そして,ついに声が聞こえた。


「汝は精霊と共にある。病はえるであろう。父の額に汝の手をかざしてみよ」


 少女はぐに言われた通りにした。

 すると手はほのかに優しい光を放ち,いかにも苦しげであった父の表情は和らいで,絶え絶えであった呼吸さえ瞬く間に落ち着いて安らかな寝息に変わった。


 夜が明けると,主の御言葉通り父の病は全く癒え,すこやかに立って歩けるまでになっていた。

 この時以来,少女の額に第三の眼のようなあかしが現れた。まぎれもないである。


 彼女は自身の父親だけではなく病に苦しむ他の村人たちをも救ったので,その噂はすぐに近隣に広がり,額に聖痕を宿す聖女として知られるようになった。


 多くの病人を癒し,ある時は旱魃かんばつ時に天に祈り雨を降らせた。

 激しい嵐や豪雨をしずめる事も再々であった。


 聖女の噂は次第に多くの人々の耳に届き,「主が選ばれた御方」「精霊が宿る少女」としてヒト族の国全体であがめられるようになる。

 これを聞きつけた討伐派の急先鋒が彼女を指導者として熱狂的にあおぎ,そして本来は極めて温和な少女であった筈の少女が、意外なことにその熱狂に積極的に応じた。

 この変貌は主の御導きと,そしてまた,精霊の導きが彼女の中で激しく強大になったからだという。

 それ以来,少女はみずからを「ミシエル」と名乗るようになった。


 待ちに待った指導者ミシエルを得た急進派は歓喜した。

 各地で教会首脳部への弾劾の集会を開き、そしてついに、ようやくにして議論の結論が出かかった会堂前に押し寄せる。その数は数万に至る程であった。

 彼らは厭戦派の弱腰と,主の命じられるところに対する違背いはいを揃って声を張り上げ、こぶしを振り上げて非難した。


 これに対して教会の長老たちは激怒した。

 厭戦派にとっては勿論、討伐派の一部にとってさえ,このようなきょは自分たちの権威に対する反逆,挑戦と思われたからである。

 安逸を極めた老人であるほど,すっかり醜悪になり果てた自我に対する客観は乏しく,若者たちが引き起こす危険に対する嗅覚は妙に鋭く,姑息な対処は可能な限り速い。


 すぐさま軍を派遣して、彼らにとっては暴徒に他ならぬ者たちを蹴散らし,ミシエルを始めとする指導者たちを捕らえた。

 多くの死傷者が出たが,それは全く長老たちの意に介するところではなかった。


 しかしここで彼らは致命的な過ちを犯した。

 ミシエルとその信奉者を騒乱の罪と,あろうことかの嫌疑で即座ににかけたのである。

 にわかに聖女に祭り上げられた小娘など、深遠な教理の問答で簡単にねじ伏せられると高をくくったのであろう。


 ミシエルたちは官憲によって広場に引っ立てられ,数千人のざわめく群衆の面前で厳しく審問された。問答を傍聴せんとする民の数はその間も更に増えて数万に至り、広場は押し合いへし合いする民の熱気で息が詰まる程であった。


 高名な異端審問官は声高らかに問うた。

 彼は厭戦派の代表的人物の一人であり、また、教会の権威を何よりも重んじる者であったという。


「戦いを好まぬ者、女子供まで魔族殲滅に参加せよとは,いったい如何なる事か? なぜそのような,皆を惑わす妄言を唱えるのか?」


 これに対してミシエルは静かに反問した。


「妄言とは暴論でありましょう。あなた方の決めようとしている事こそ,正に主の教えに反する妄言ではないのですか?」


 この言葉と態度は審問官の神経にはなはさわったとみえる。

 彼は声を荒げて更に言った。


「娘よ! 貴様は自らを聖女と称しているそうではないか。だとすれば、それだけでも教会に対する反逆である!」


 この恫喝どうかつの言葉にもミシエルは全く動じることがなかった。

 彼女は事実そのままに答える。


「私は自身が聖女であるなどと言ったことは一度もありません。周囲の人々がそう唱えているだけです」

「ほほう。巧妙に言い逃れようとするではないか。では問おう。主の声を聞いたとの暴言はどう弁明するのだ?」

「弁明も何もありません。聞こえたものは聞こえたのです」


 審問官は内心ほくそ笑んだ。

 問答は始まったばかりなのに、早くも語るに落ちたな。

 所詮はこの程度か。もう少しは手ごたえがあると思ったが。

 聖女を自称しなくとも、高度な教義の何たるかを学んでもいない一介の田舎娘などが主の声を聞いたなどと公言すれば、それだけで教会や聖職者の権威に対する明らかな冒涜ぼうとくである。

 そんな間違いは絶対にあり得ない、いや、あってはならない事だ。


「ふざけるな!」


 審問官は両手を大きく広げた芝居がかった身振りで群衆に臨み、声を限りに叫んだ。


「先程は自らは聖女ではないと言い、今は主の声を聞いたと言う。貴様の言は全く矛盾しているではないか!」


 これにミシエルは答えた。


「主の声は進んで耳を傾ける者には全て聞こえるものです。それが耳に届かないというのは、あなた方が主の教えに背を向けているからではないのですか?」


 小娘が生意気にも、幼稚な言葉で我々高位の聖職者の信仰心の真偽を問うか。

 よろしい。ならばこの娘の死後の魂の救済の為にも、ここで主の御心を明らかに教えさとしてやろう。


 彼は今度は一転して穏やかな声で問うた。

 いや、「問う」ふりをしただけで、彼の心中では初めから答えは確定していたのだが。


「では聞こう。主の導きの深遠極まる本質とは何か? その御声を聞いた者ならば正しく答えられる筈だ。それとも貴様の言は無知蒙昧もうまいな群衆を惑わす単なる妖言か?」


 ミシエルは目を伏せて答える。


「そのような事は私には分かりかねます。主の御考えは人智をはるかに超えて遠く、深い」


 なるほど。上手く逃げたな。

 自らの愚かさと、主の叡智の偉大さを多少はわきまえてはいるとみえる。

 この多少の知恵と民衆を惹きつける魅力が教会の為に用いられたならば、また別の運命もあったろうに。

 しかし、もう遅い。

 教会の権威とヒト族の安寧のために、お前には生贄いけにえになってもらわねばならぬ。


「ならば無学で愚かな貴様に教えよう。それはである。

 生きとし生けるもの全て、中でも御自身のいとし子たる我々ヒト族に対する限りない慈悲こそが主の御姿の核心である。

 その様な恵み深い御方が、我々皆を果てしない不毛の戦いに駆り立てようとしておられるとは、全く奈落の底から響く悪魔の虚言ではないか。

 その様な言で民を扇動し、折角の秩序と安寧を乱すなど、断じて許される所業ではない!」


 これに対し、ミシエルは今度こそきっぱりと言い切った。


「私はそのような身勝手な、あなた方の保身や虚栄のための議論のもてあそびに興味はありません。

 ただ言えるのは、少なくとも今この時、主は激しく怒っていらっしゃるということ。ヒト族は皆、今こそ我々の祖、そしてホセア師に与えられた主の命に従って魔族討伐に邁進まいしんすべき、そう信じるだけです。主は確かに私にもそうおっしゃった」


 そして僅かに一息おいて


「さもなければ、!」


 ここでついに、それまで固唾かたずをのんで問答を聞き入っていた聴衆からが起こった。

 それはミシエルの最後の言葉に対するものであった。

 「主の大いなる裁き」とは何か?


 そのどよめきの中、審問官は、いささかの狼狽ろうばいと共に、しかし表情を歪めながらも皆に聞こえるように叫んだ。


「よくぞ言った! 全て覚悟の上であろうな!」


 そしてミシエルの刑が確定した。

 火あぶりの為の柱、まき、油が用意されたのは翌早朝であった。

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