第36話 ミシエル19世(教会本部大聖堂にて)

 時はさかのぼって、前日の夕刻。

 教会本部の大聖堂にて、教皇ミシエルは万余の聴衆を相手に語っていた。


「このようにして、初代教皇であるホセア師と我々の祖は魔族の手を逃れ、苦難の末に砂漠と西方の山脈を越え、主が御与えになった約束の地に住むようになったのです」


 聴衆は皆が真剣に、咳一つさえせず次の展開に耳を澄ます。


「そしておよそ900年の後……」


 の話は佳境を迎える。


「『』です」


 聴衆は少しく騒めいた。

 これは教会において好んで語られない事件であったから。

 それをまた、穏健派で知られる教皇聖下ミシエル様みずから口になさるとは!


 そんな聴衆の動揺はよそに、ミシエル自身は白地に赤の刺繍を施した教皇服と帽子を軽く整え、静かに続けた。


「教会暦1547年、後に『浄化』と呼ばれる事件は起こりました。事の起こりはヒト族の繁栄そのものにあったのです……」



 ―――― 森を切り拓き、乾いた荒野を灌漑かんがいし、彼らの領地は、当初の住処すみかであった山脈の麓から、西は大海を望む海辺の地まで数百マイルも広がり、南北の長さに至っては1000マイルを軽く超える程になった。

 地は豊かな実りを与え、山脈は魔族の大軍の侵入を防ぎ、ヒト族は、このイルミナ大陸の四半に満ちたのである。


 長き年月の平穏は、初めはまだ数少なく未熟で脆弱であったヒト族の社会にとっても教会にとっても、成熟の為の充分なものであった。

 民の総数は500万をゆうに超え、兵として動員できる屈強な成人男子も、魔族に対して討って出るに自信の持てる数が揃った。

 支配地の広がりからしても、大軍に充分な食糧補給を行うだけの生産力があった。


 これはまた、魔族の領主たちが常に相争い、ヒト族に対して敢えて高き山脈を越えて攻め込む事の無いようにされた主の御計らいでもあった。

 彼らが互いに争い合った長い年月、ヒト族は平和を享受し、力を蓄えることが出来たのである。


 この時代、かつての100人長は、その導く者の数が増えるにつれて土地土地の代官へ、更には優に数万の民が住む地域の『総督』へと変化していた。

 そしてまた、ヒト族全体の支配する地が広がるにつれ総督の数も増え、百人を超える程であった。

 かつての1000人長は『神官』、後においては『司祭』、またその中から選ばれし者が『枢機卿』になるというように教会の組織も変化した。

 枢機卿は血縁に寄るのではなく、しかるべき教育を受け、統治の実績を持つ未婚の男性が任命される、これは現在も教会でそうしている通りである。


 族長の直系の血は、ホセア師が生涯を独身で通された為に既に絶え、それに代えて、枢機卿の中から相応ふさわしき人物を卿の全員一致で『教皇』として選出する習わしが出来た。

 教皇の任期は終身で、選出に際して枢機卿の意見の一致を見ない場合のみ、先の教皇が生前に用意した遺言状によって指名されていたのだ。


 しかし、いざ魔族討伐の軍を催さんとした時、全ての者が魔族の討伐に無条件に賛成していた訳ではなかった。

 敢えて大軍を発し危険を冒してまで魔族を討つべきかどうか、意見の対立があったのだ。


 既にヒト族の社会には充分な豊かさと平和、日々の安らぎがある。

 魔族を駆逐する事が主からヒト族に与えられた使命とはいえ、主が真に我々ヒト族を愛されるのならば、慈父がその子を危険に晒したくないように、我々を戦場に送ることを決して好まれないのではないか?

 教義に対してこのような疑問を持つ者が相当数居たのだ。


 また現実として、大軍が山脈を越えることが出来るのかという難題もあった。

 いよいよ魔族を討伐するための本格的な軍を組織するとすれば、それは途轍もない大軍になる。

 果たしてそのような軍勢が、低い箇所でも海抜10000フィートのあの山々を超えて進軍する事が可能なのか?

 仮に越え得たとしても、その時に軍には戦う余力が残っているのか?

 今までヒト族を魔族の大軍から守ってきてくれたいと高き山脈が、今度は攻勢に出る為の障害となって立ちはだかった。


 そしてまた、当時の教皇が病にせっていたので、意見の対立は更に激しさを増した。

 この教皇については、その名も事績も何も記録されていない。

 おそらくは、この教皇こそが実は厭戦えんせん派の代表だったのだろう。

 というのは、名も事績も記録されていない教皇など、歴代の数十人の中で、この人物だけであるから。

 つまり、名も事績も全て教会の記録から抹消されたのだろう。


 枢機卿にも総督たちにも、そして民にも討伐派と厭戦派、いずれの立場の者もあり、その勢力は拮抗していた。

 そのために両派の対立は長きに渡って決着を見ず、意見の違う者が出会うと始終激論が交わされ、次第に暴力沙汰が頻発ひんぱつするようになった。

 果ては互いの拠点を襲撃するという、およそ内乱に近い状態に達してしまった。


 これでは本末転倒である。

 討伐もしくは厭戦以前に、このままではヒト族同士の争いによって自滅してしまうではないか。

 そう考える者たちが現れたのは自然の成り行きであった。

 こうして代表者の会談がなされる事となり、当時の教会本部の大会堂に両派の主だった者が全て集い、方針の統一を目指して議論が交わされた。


 長き議論の末、結論はこう傾きかけた。

 主戦派は大軍を組織し山脈を越えて魔族に対して討って出る。

 平和は出来る限り食料、武器等の補給面で主戦派を支え、場合によっては人員の補充を図るべく努力を尽くす。


 しかし、一見合理的なこの方針は、明らかに主の御意志に反する妥協の産物であった。


 そしてそこに一人の聖なる少女が現れた。

 

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