第15話 出逢い(一)
センタと別れた後も、ワクはいろんな経験をしながら旅を続けました。再び一人になった淋しさを感じることもありましたが、行く先々で出会う人や町や風景が、ワクの心を躍らせました。
いろいろな仕事も経験しました。
大工見習い。
特に高い場所での作業は、やはり胸がワクワクするものでした。
が、眼下をかわいい娘が通ると目で追い、うっかり金槌で手を打って、
「いてっ!」
酒屋の店員。
取り立てて愛想が良いわけではないのに、なぜか得意客に可愛がられるワク。でも、酒の種類を間違えて売ったときは、後で主人にこっぴどく叱られました。
草履作り。
ナズナにから手ほどきを受けた草履作り。
思いがけず受け取った恋文に喜びと戸惑いを感じながら、丁重にお断りしたことも。
「す、すまない、俺には山へ行くという使命があるんだ。」
暗い林の中で、予期せず背後から聞こえる、得体の知れない物音にビクッと振り返ったり。
「ひっ!」
生きているって素晴らしい。ワクは、出会うすべての物事に対して、しみじみとそう感じるのでした。
そして四年後の秋。
またおなかがぐぅーっと鳴りました。これで四回目です。
もう二十八にもなったのに、まるで成長期の子供のように旺盛な食欲を、ちょっと気恥ずかしく思います。
晩秋の夕暮れ時。吹く風はここ数日かなり冷たくなってきました。いたずらカラスたちが、カァカァと鳴きながら家へ帰っていきます。
右手のはるか前方に、山はうっすらとその姿を見せています。その山も、肌寒そうな表情に見えます。
(もう野宿はちょっと厳しいかな…。)
ワクは一人、心の中で思いました。履物作りの親方の家を出た後、先を急ぐつもりで、半年ほど歩き続ける日々を送っていました。野宿も幾度となくしましたが、季節はいつしか春から秋へ。そしてもうすぐ冬になろうとしています。
大きめの町に入ったようです。田んぼや畑は姿を消し、路の両側には店や民家が建ち並ぶようになりました。
「この町に宿屋はあるかい?」
立ち寄った食料品店でワクは主人に聞いてみました。
「そりゃ、あるに決まってるさ。これだけの町だもの。」
「そうだよな。失礼、失礼。」
「三軒あるがな。一応はな。」
「一番近いところは?」
「一番近いのは、コハルんところのかすみ荘だが、どうだかなあ。あそこはまだやっているんかいなあ。」
横で聞いていた女主人が、
「もちろんやっているわよ。最近お客がなかなかなくて困っているって言ってたもの、コハルちゃん。お客さん、よかったら泊まってあげなよ。」
「…。」
そんな、客が敬遠するような不人気の宿を勧められても。ワクはそう思いましたが、まあ雨露をしのげれば野宿よりは
(きっと不愛想なおばさんなんだろうな…。)
「じゃ、そこへ行くよ。道を教えてください。」
教わった道をたどって、ものの二分ほどでそれらしき建物の前に着きました。一見、普通の民家にも見えそうな外観ですが、看板が出ています。
「かすみ荘、か。ここに違いない。」
しかし、玄関にも内部にも人の気配はなく、たしかに「寂れた宿」という風情でした。
気づくと、入口前に小さな女の子が一人しゃがんでいます。地面に木の枝で落書きをして遊んでいる様子です。いえ、遊んでいるというより、暇つぶしの手慰みといったように見えます。三歳か四歳くらいでしょうか。赤い着物を着て、髪をふたつのおチョンボにしたかわいらしい子でした。
「お嬢ちゃん、こんにちは。」
「…。」
見上げた女の子は、不思議そうにワクを見つめます。
「お嬢ちゃんはここのおうちの子?」
「…。」
ワクから目をそらさず見つめてくるものの、返事をしません。
「お嬢ちゃん?」
「知らない人としゃべったらいけないんだって。」
「誰が? パパが?」
「ママ。パパはいないわ。」
「…。」
また下を向いて地面の砂をいじり始めた女の子に、
「ママはいる? 家の中に。」
「ううん。」
「お出かけ?」
「うん。」
「どこへ?」
「知らない。夕方には帰ってくるから、おとなしくしてなさいって言った。」
「ふうん。」
こんな小さな子を一人置いて、いったいどこへ行ったのか。そもそも、宿屋なのに留守にしているって、どういうことだ?
こんなにやる気のない宿では、本当にろくな扱いをしてもらえないかもしれない。宿屋はあと二軒あるというし、ここはやめたほうがいいのか…とも思いながら、しかしこの小さな女の子を薄暗がりの中でひとりにしておくのも気になり、ワクはなんとなく女の子の隣にしゃがみ込みました。
「何を描いているんだい?」
ありったけの笑顔で、ワクは女の子に話しかけます。女の子はしばらくじっとワクの顔を見つめた後、ニコッと笑って、
「パパの顔!」
どうやら心を許してくれたようです。
「へぇ。パパはそんな顔なんだな?」
「知らない。見たことないもん。」
「…。」
どうやら父親は出かけているのではなく、日常的にいない境遇のようです。
それにしても、こんな子ひとりを置いて日が暮れるまで出かけるなんて。もうあたりがほとんど真っ暗になった頃、ワクがどうしたものかと思っていると、一人の小柄な女性がふらふらと通りを歩いてくるのが見えました。飾り気のない恰好をした、うら若い女性です。娘といった方が良いかもしれません。女性はかすみ荘の前で立ち止まり、大きく息を吐きました。顔色が赤みがかって、なんだか熱があるような、体調の悪そうな様子です。
「大丈夫ですか?」
「あ、いえ、大丈夫です。コマちゃん、うちへ入るわよ。」
「あの…。」
「…どちら様ですか?」
怪訝そうな表情でこちらをうかがうその目は、まるで不審者を見るようだと、ワクは心の中で舌打ちをしました。
「いや、あの、今晩泊めてもらえないかと思って。」
「!」
「ここ、宿屋だよね?」
「あ、あ、どうも、失礼いたしました。」
「いえ…。」
「ど、どうぞ中へお入りになって! さ、どう――。」
そこまで言って、女性は――どさりと音をたてて倒れました。
ここは宿屋の建物の中。
「あ、あ…。」
先ほどの女性が目を覚ましかけています。
不案内なワクは、玄関を入ってすぐの部屋に彼女を抱えて入り、なんとか探し出した布団を敷いて寝かせたのでした。
「気が付いたかい?」
「あ、ここは…。」
「家の中だよ。」
「あ、コマリは!」
あの小さな女の子はコマリちゃんというらしいです。
「ここにいるよ。」
「ママ!」
「コマリ、ああよかった!」
ママなんだ…。意外です。
そこで女性はワクの方を見て、
「あ、あなたが助けてくださったのですか?」
「助けたっていうか、ただ布団を敷いて寝かせただけだけど。」
「私、どのくらい気を失っていたのでしょう?」
「さあ、一分くらいかな。」
「そう…。」
「ちょっと、その、お、帯を緩めた方が…。きついとしんどいだろう。」
「そうね。」
女性が布団の中でゴソゴソし始めると、ワクはほんの少し頬を赤らめ、下を向きました。それを見た女性は、かすかに弱々しく微笑みました。
「大丈夫かい? 気分は?」
「ええ、大丈夫よ。ちょっと休んでいれば…。」
言いながら女性は、熱っぽい顔色でハァハァと荒い息をしています。
「医者に見せたほうがいいな。ただの風邪じゃないかもしれないし。」
「いいの、いらないの。」
「なんで? 宿の人は、みんな出かけているのかい?」
「私が宿の人ですけど?」
「いや、その、女将さんとか、そういう、この宿を経営している人たちのことさ。」
「私です。」
「!」
てっきり女中さんかと思っていたこの若い女性が、宿の経営者だったのです。
「じゃあ、あんたがコハルちゃ、…コハルさんかい。」
「ええ。どうして私の名前を?」
「いや、ちょっとそこで聞いただけで。それより、この近くの医者はどこだい?」
「うちにお医者様なんて来てくれないのよ。」
「?」
それきりコハルは力なく目を閉じてしまいました。
何を言っているのだか。ワクには事情が呑み込めませんが、とにかく医者を呼びに行かなくては。
外へ出て、先ほどの食料品店で女主人に医者はどこかと聞いてみました。
「お医者さんなら、あそこの角を曲がって次の角を曲がった三軒目だよ。看板が出ているから。それであんた、どこが具合悪いの?」
「俺じゃねえよ。」
「じゃ、誰?」
「あの、宿の女将さんが。」
「コハルちゃんが? まあ! あとで私も様子を見に行くよ。」
「ああ、ありがとう。」
医者の家は看板ですぐに分かりました。
「こんばんは! …こんばんは!」
ドンドンと戸を叩くワク。
「はーい。」
出てきた中年の女性に、ワクは事情を説明します。
「コハルさんだね…。どうかしら、ちょっと待っててね。」
女性は中へ入っていきました。どうかしら、とはどういう意味でしょうか。
入れ替わりに中年の男性が姿を現しました。眼鏡をかけ、いかにも気の優しそうな風貌です。
「コハルくんが具合が悪いのだって?」
「はい、そうなんです。見てもらえますか?」
「…いやぁ…。」
「え? 今なんて?」
「ううん。」
煮え切らない態度です。
「何か問題があるんですか? お金がないとか?」
「いや、金はまあ、この際無しでもいいんだが。」
「?」
「あそこは医者が嫌いらしいんでね。」
「?」
「以前、あそこの旦那を診たとき、ボロクソに文句を言われてね。ヤブ医者だの、ペテン師だのと。もうこりごりだ。金は払わないし、挙句に訴えるとまで言われたよ。」
「へー、そんなことが。でもそれは旦那だろう? 今度は奥さんの方なんだ。」
「同じだよ。あそこは何でも旦那の言うなりだったからな。」
ワクは歯がゆい思いでした。コハルという人にはさっき会ったばかりで、しかも体調があんな風でしたので、普段どんな人かなど分からないのですが、それでもごく感じのいい人だと思いました。そんな彼女がこんなふうに医者から敬遠されてしまうのは理不尽だという思いが、ワクの中に湧き上がります。
「先生。あんた医者だろう? 人を助けるのが仕事だろ? ご近所馴染みのご婦人が病気で苦しんでいるんだ。」
「…。」
「あの人、あのコ、コハルという人は、そんな理不尽な文句を言うような人じゃねえ。そんなこと、あんた分かっているんだろう?」
コハルという名前を口にするとき、なぜか照れるワクです。
「いや、たとえ文句を言われても罵られても、それでも人の命を救わずにいられねえ、それが医者っていうもんだろう。自分が苦手な人間は死んでもいいのかよ? あんたそれでも医者か? なあ、先生よ!」
初対面の相手に、しかも自分よりずいぶん年上の者に、よくもズケズケと言ったものです。が、なぜか医者の先生は素直に、
「そうだな。」
と言い、往診に応じてくれました。
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