第16話 出逢い(二)
医者はコハルを診察し、注射を一本打って、
「四、五日は安静にして、栄養のあるものをしっかり食べるように。」
と言いました。
「風邪の重いやつだが、かなり体が弱って体力が消耗している。風邪というよりは、疲労が溜まっているのが問題だ。このままだと肺炎につながる可能性もある。」
コハルは布団の上で上半身を起こして、
「ありがとうございます。お代はおいくらほどでしょうか。」
「いや、お代はいらんよ。この若者に叱られたからなかぁ。」
ワクは照れ笑い。コハルは訳が分からないという顔。そしてコマリは、
「ママぁ、お腹すいた。」
ワクは、ハッとして現実に戻りました。皆、まだ夕食もとっていません。それ以前に、ワクは宿の受付すらしてもらっていません。
が、こんな状況なので仕方がありません。
「先生、ありがとうございました。あと、その、なんていうか…すいませんでした! 偉そうなこと言って。」
「いや、何、厳しいことを言われて、かえってすっきりしたよ。目を覚ましてもらったような気分だ。」
「少しだけど、俺、お代払います。足りないかもしれないけど。」
「いいんだよ。本当に。今日は、医者としての本来の姿勢を思い出させてもらったんだから、こちらがお礼を言うよ。」
「…。」
医者が帰ると、ワクは言いました。
「俺、メシをつくるよ。台所はどこだい?」
「そんなこと。悪いわ。」
「いいんだ。俺、意外とメシつくるのうまいんだぜ。野宿なんかもしょっちゅうだし。」
あり合わせのもので、簡単な食事を作るワク。それをコハルとコマリと三人で食べました。
食べ終わったころ、ワクは言いました。
「あの、ところで、俺、ここに泊ってもいいのかな?」
「あ、すみません。そうですね、お客様だったのね。」
「はあ、一応。」
「本当にすみませんが、私がこんななので、好きなお部屋をご自由に使っていただけませんか? 宿代も頂戴しなくて結構です。助けていただいたので。そんなことでよろしければ、どうぞお泊りになってください。」
「他の客たちはどうするんだ?」
「そんなもの、いらっしゃいませんわ。」
そう言って、コハルは力なくおほほほと笑いました。
こうしてワクは、その後しばらくかすみ荘に宿泊することとなりました。
ワクがかすみ荘に滞在し始めてから、一週間が過ぎました。コハルは日ごとに体力を回復していきました。大事には至らず、ただの風邪で終わりそうでしたが、やはりあの時に無理をしなかったことがよかったのでしょう。ワクは宿泊しながら、自然と三度の食事の支度や部屋の掃除など、家事全般をこなしてコハルを助けました。洗濯のときにはさすがに気恥ずかしい思いをしましたが。
食事の支度をしている時などは、すっかりワクになついたコマリが嬉しそうに話しかけてきます。
「ねえ、おじちゃん、コマもねー、ごはんつくれるんだよ。」
「へー、コマちゃんもつくれるんだ?」
「うん!」
「何をつくるんだ?」
「えーっとぉ、たまごやきとぉ、なっとうとぉ…えびせんべい!」
「へーっ、すごいじゃないか。どうやってつくるんだ?」
「うん。こうやってねー、どろでこねこねしてつくるの。」
(なんだ、泥かい。)
そんなやりとりは、ワクには新鮮で楽しいものでした。ワクにはどこか、小さな子供に好かれるところがあるのでしょう。茅葺の親方のところでも、ユキ坊やがひと目でワクに懐いてついて来ましたし。
コハルはいそいそと働くワクに、いつも感謝と困惑の入り混じったような表情で、
「すみません、本当に。」
と言った後、にっこりと笑うのでした。コハルは、服装や化粧こそ地味でしたが、よく見るととても愛くるしい顔立ちであることにワクは気づいていました。その笑顔から立ちのぼる、飾り気のない自然なやさしさにワクは惹きつけられ、もっとコハルの役に立ちたいという想いが湧いてくるのでした。
食料品屋の女主人も何度か見舞いに来ました。彼女は見かけによらず情の厚い性質のようで、店の売り物を差し入れてくれましたが、来るたびにワクを冷やかすのには閉口しました。
「あんた、まるで召使いみたいじゃないの。コハルちゃんに惚れちまったのかい?」
ワクはムキになって否定しますが、とても隠し切れてはいませんでした。
コマリもとても可愛らしく、ワクに懐いてきました。
とにかく、ワクにとっては何かと気ぜわしいものの、楽しい一週間でした。その間、幸か不幸かワク以外の宿泊客は、見事に一人も来ませんでしたが…。
一週間後にコハルはようやく床から起き上がり、そろそろ宿や家の仕事をするようになりました。ワクはぐずぐずと滞在し続けています。
「今までは居候で、お代金を払っていないから、これからは、客として代金を払うよ。」
などと言って、しばらく出ていく気はないという様子です。また、
「まだ病み上がりだから。」
とか、
「客が来るようになったのを見届けてから出ていこうかな。」
などと、どういうつもりなのか、客という立場に似つかわしくない発言も出ます。
コハルも、強いてワクの出発を促すようなそぶりは見せませんでした。心なしか、ワクが来てから、頬がつやつやして明るくなったようです。
ワクは自身のことを客だと言い、宿代も支払っていましたが、その一方でコハルの仕事の手伝いも続けていました。高いところの掃除や、風呂焚き、布団干しなど体力を使う仕事は、主にワクの担当になっていました。また、食事についても、コハルと一緒に台所に入り、仲良く料理をするのでした。
台所でお互いに忙しく立ち回っている時に、はずみで手と手が触れ合ったりすると、二人はハッとして手を引っ込め、お互いにそっぽを向くのでした。自分では自然にしているつもりでも、端から見れば、ワクがコハルのことを強く意識しているのは明らかでした。
ある晩、風呂から上がったワクは、石鹸が残り少なかったことを思い出し、石鹸のありかを尋ねに、コハルが縫物をしている部屋へ入っていきました。
「あの、コ、コハルさん…。」
いまだに名前を呼ぶときにどもってしまうワクです。
「はい?」
ふと縫物から顔を上げたその風情がたまらなく愛らしく、ワクの胸をときめかせます。
「あ、せ、石鹸が…。」
と言いつつ、ちゃっかりとコハルの横に腰を下ろすワク。
「あ、無くなります? 私、入れておきますわ、新しいのを。」
「い、いえ、俺やるんで。」
「だってあなたはお客様よ。」
「そんな、何もしないでただ泊まってるだけじゃ悪いから。」
「どうして? あなたはお代をちゃんと払ってくださっています。それに命の恩人だし。」
命の恩人とは大げさですが、それを自分で面白がるかのように、笑いを含んだコハルの顔がまた、何とも言えません。
「でも、ワクさんはいつまでここにお泊まりになるおつもりですか? 私は、いてくださってとっても助かっていますけど。」
「いや、特に決めてはいないけど、もうしばらくはここにいようかと思って。心配だし。」
「心配? 私たちのこと?」
「ああ、女性だけで不用心だしな。」
「ありがとう。優しいのね。たしかに、ワクさんがいてくださると心強いわ。主人もいないし、ご存じのように。」
「あの…旦那さんは、その…。いや、すいません、余計なこと聞いちゃって。」
「いいのよ。主人はある日突然、いなくなったの。もう三年くらいになるわ。」
「…。」
「たぶん、愚図で気の利かない私に嫌気がさしたのだと思う。とても頭が良くて先進的で、そして気の短い人だったから。決して悪い人ではないのだけれど。」
ワクにしてみれば、こんなに可憐なコハルとコマリを置いて姿をくらます時点で、とても
「それから、一度も帰ってこないのか?」
「ええ。もう帰ってくる気はないのだと思う。」
「宿の方は、それから一人で切り盛りしてきたのかい?」
「ええ。だけど、ご存じのように、今ではすっかり閑古鳥が鳴いてしまって。最初のうちは良かったんだけど、だんだんにね。仕方がないのよ。私には宿を経営するような才覚なんてないもの。あの人がいた頃は、履物も作って売っていたのだけれど、私には作れないから、それもやめたわ。でも、この宿は私の死んだ両親がやっていたものなの。捨てられなくて…。」
「そうかい…。」
ワクは一瞬の沈黙の後、
「俺、草履だけなら作れるけどな。」
「まあ、そうなの。」
「よかったら…。」
「ダメ。あなたは旅の人よ。どこへ向っているのかは存じませんが、こんな私たちに関わっていると、それだけ道行きが遅れるわ。そんなご迷惑をおかけするわけには参りません。」
「迷惑だなんて。」
「いつまでもここにいらっしゃるわけではないんですもの。」
「…。」
コハルは気分を変えて明るい声で、
「あ、そうそう、石鹸だったわね。ごめんなさい、ついつい話し込んじゃって。」
立ち上がりながら、
「こんなだから私は嫌われるのね。つまらないお話をお客様にお聞かせして。」
「いいよ、俺が取ってくるから。」
ワクはコハルの両肩に手を置いて、座らせようとします。
「いいわ、悪いから。」
「いいから!」
二人は再び腰を下ろす格好になり、コハルはくずれた横すわりの姿勢になりました。そのままお互いを見つめ合います。一秒、二秒、三秒。ワクを見つめるコハルの瞳は、涙をまぶした宝石のように柔らかく光っています。
ワクは左手をコハルの肩から背中に回し、右手で腰を抱き、自然にコハルに口づけながら、ゆっくりと押し倒しました。鼓動が激しく高鳴り、切ないほどの幸福感、高揚感で全身が震えます。震える手でコハルの帯を解いてゆきます。コハルは抵抗しませんでした。
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