第10話 相棒(三)

それから二か月ほど後。

真夏の昼下がり。

ギラギラと照りつける太陽の下、セミの声が空気に充満する中、ワクとセンタは汗を拭い拭い、トボトボと歩を進めます。しかも、道は山道に差しかかり、微妙な登り坂が続いています。時々、道端の木が大きくせり出した場所を見つけると、砂漠でオアシスを見つけたかのように、その木陰へ駆け込みます。しばらく休んではまた歩き出す。そんなことを今日は幾度となく繰り返しています。宿を発った直後は饒舌だった二人も、今はほとんど口を利きません。

「ああ! もう無理! もう俺、無理だー!」

センタがわめきます。

「ああ、俺も。今日はほどほどにして、どこか泊まるところを見つけたら早めに休もうか。」

「そうだな。」

「それにしても、ずいぶん山奥に入ってきたなぁ。」

「ああ、この山越えるまでに、まだずいぶん歩きそうだぜ。」

ワクはうんざりしました。旅に出て以来、夏は何度も経験して来ましたが、こんなに暑いのは初めてではないでしょうか。それがこのあたりの気候なのかもしれません。

すると、ワクの視界の端に、何か動くものがありました。砂埃を上げながら走って行きます。

「あ、鹿!」

「うお、ホントだ!」

二人は迷わず、同時に立ち上がり、鹿を追って駆け出します。さっきまで暑さでヘトヘトだったはずの二人は、すでに全力疾走です。

鹿はピョンピョンと跳ねるように軽快に走り、しまいに右手の木の茂みの中へ入っていきました。

「ちっきしょう! 入って行きやがった。」

センタは悔しがります。が、次の瞬間には二人は笑っていました。別に鹿を捕まえたかったわけではありません。むしろ、暑さに辟易しているところへちょっとした珍事で、気が沸き立ちました。

さらに次の瞬間、二人は同時に、

「おお!」

と声を上げていました。

茂みのすぐ横、二人の目の前に、木々に囲まれた小さな湖があるではありませんか。

近づくと、湖水は、底まで見通せそうなほど透き通っています。湖のほとりは、心なしか空気が涼しいように感じられます。気づくと、右手の茂みから、さきほどの鹿が――鹿の顔なんて見分けがつきませんが――顔を出しています。見ていると、湖面に口をつけて水を飲み始めました。

二人は再度声を合わせて、

「おお!」

と言い、顔を見合わせると、それ以上何も言わずに、手荷物を地面に置き、服を脱ぎ始めました。下穿き一枚になったところで、またお互いに顔を見合わせ、ニタッと笑うと、下穿きもさっさと脱ぎすてました。

生まれたままの姿になった二人は、我先に湖へ飛び込みます。水を飲んでいた鹿が、何事かと言うように顔を上げました。

二人はしばらく、小さな子供のように、水中で暴れ、水をかけ合い、ケタケタと笑い合いました。湖上を吹き抜ける風も心地よく、今朝からの暑さがこれで十分に埋め合わされた気分です。いや、今朝からの暑さはこのためだったのかとすら思えてきました。

鹿は水を飲み終わった後も、しばらくの間、二人を慈しむかのように見ていました。頭上では小鳥がチュンチュンとさえずっていました。

ひとしきり水と戯れて十分に涼をとった後、二人は下穿き一枚の姿で湖畔に並んで腰を下ろしました。

「あー気持ちよかったなー。」

「ああ、最高だった。」

「俺が行こうとしている楽園も、こんな感じのところかなぁ。いや、きっともっと素晴らしいところなのだろうな!」

そこでワクは立ち上がって、

「待ってろよー! すぐに行くからなー!」

センタも立ち上がり、

「俺も行くぞー!」

二人は再び腰を下ろしました。それから少しの沈黙のあと、センタは大きなため息をついて、

「俺が目指すのは、どんなところなんだろう…。」

「?」

「いや、理想の場所を見つけてそこで暮らす、というのが俺の夢なんだ。」

「知っている。」

「お前は、山の向こうの楽園に行く、という具体的な目標があるじゃないか。俺はまだ、目的の地がどんな場所なのか、イメージが湧かないんだよな。」

「俺だって、自分の目指している楽園が実際どんなところかなんて、知らねえけどな。行ったことねえし。でも、きっとすごいところに違いない。」

「すごいところって?」

ワクはしばらく黙ってから、答えました。

「ゆうべ、楽園に着いた夢を見た。」

「ほう。」

「森があって、川が流れてて、小鳥が鳴いてて、花がたくさん咲いてた。ああこれが楽園か、と思って。」

「それ、楽園なのか?」

「さあ、夢だから知らねえけどよ。なんでだ?」

「だって、人がいねえじゃねえか。」

「人?」

「ああ。ただきれいな景色ってだけじゃあな。それじゃまるで、楽園じゃなくて、あの世だ。」

なるほど。ワクには、センタの言いたいことが分かる気がしました。

「それで、楽園に着いたらどうするつもりなんだ?」

「うん…とりあえずは、親父を迎えに来て連れていく。」

「それから?」

「それから、って?」

「それから、さ。」

「さあ、幸せに暮らすだろう。」

「幸せって?」

「尋問みたいだな。幸せってのはな…そうだな、偉くなって親父を喜ばせてやりたい!」

ワクにはもちろん、山の向こうの楽園にたどり着くという大きな目標があります。ですが、その楽園に着いた後にどんな暮らしをするかは、あまりよく考えたことがありませんでした。ただ漠然と、素晴らしい暮らしが待っているだろうと期待しているのでした。

「お前は能天気だな。いつでも、自分は絶対に成功するという根拠のない自信に溢れている。もう少し、先のことを具体的に考えたらどうなんだ、あ?」

「お前に言われたかねえよ。」

二人は顔を見合わせてニタっと笑い、ワクはセンタの頭をクシャクシャっとかき回しました。

二人は立ち上がって、下穿き一枚のまま、服と手荷物を持って歩き始めました。

気づくと鹿は、まださっきの場所にいて、二人の方を見ています。まるでずっと二人を見守っていたかのようでした。ワクには、鹿が自分たちの将来を約束してくれているように思えました。

それにしても、暑い! 再び歩き出したとたんに汗が吹き出し、せっかく水浴びをしたのに元の木阿弥です。


ワクとセンタはごく気が合い、物事に同時に同じ反応を示すことがよくありました。

例えば、団子屋で二人並んで、名物の団子を口にした瞬間に、

「うめえ!」

と顔を見合わせ、

「おやっさん、これどうやってつくったの?」

と、声をそろえることなどは、珍しくありませんでした。

また、町中で目についた若い女性に二人してじっと見入っているかと思うと、顔を見合わせて同時に、

「目とうなじ。」

とつぶやき、笑いました。

ですが、ずっと一緒にいるだけに、やはり時には喧嘩をすることもありました。

夏の終わり。

少しだけ、暑さが引いてきたようです。ワクとセンタは再び元気を取り戻し、せっせと歩き続けます。

二人は、人でにぎわう町中をいくつも通りましたが、そのたびにセンタは、鋭い勘で、ここぞという店に入り、これぞと言う人に声をかけ、たちまち仲良くなって色々な情報を聞き出します。それはもう、見事なものでした。決して小ずるく立ち回るわけではなく、初対面の相手のふところに素直にするっと入って、打ち解け、相手に彼を助けてあげたいという気持ちを起こさせるのです。

知り合った当初から、人に対して愛想がいいことは感じていたのですが、よく知るにつれ、これは一種の交渉能力だと、ワクはますます感心するとともに、軽い気後れも感じるようになっていました。ワクだって人付き合いは苦手ではありません。道を聞いたり、行きずりの人と仲良くなったりするのは好きです。が、その点ではいつでも、センタの方が一歩先を行っている感じでした。そんな姿を見せつけられるたびに、ワクは自分のことが、センタに一方的に頼っている情けない奴のように思えてくるのでした。

ある時、センタはまたある店に入って行き、何やら楽しそうに話し込んでいた後、団子を六本ほどもらってきました。店の人はセンタの背中に向かってまだ手を振っています。

「戦利品、戦利品! 見ろよ、こないだ食って、うまかったあれだぜ。焦がし胡麻団子。どうだうまそうだろ! ひとり三本ずつだぞ。」

その口調に軽くイラっとしたワクは、

「いいよ、俺はいらない。」

「なんで?」

「この団子はあまり好きじゃない。」

「嘘をつきやがれ、こないだうまいうまいって食ったじゃねえか。」

「腹が減ってない。」

「昼飯前だぜ?」

「うるせえな。お前がもらったんだ。お前が一人で食えよ。」

「…。」

瞬間のセンタの淋しそうな顔。ワクは下を向いていて気づきませんでした。そこでやめればいいものを、ついつい勢いにのって、さらに一言、

「人にものをねだるのが得意だからな。」

言ってしまってから、ワクはしまった、と思いました。

「なんだと、このやろう!」

まずい、謝ろう。ワクの頭をその思いがよぎりましたが、口に出たのは違う言葉でした。

「だって本当のことじゃないか。」

「お、お前が! お前が偉そうに構えてちっとも動かねえから、俺が世話を焼いてやってるんだろうがよ! くそっ!」

センタは涙ぐんでいました。

「なんだと!」

謝る気持ちは吹っ飛び、いよいよ腹を立てるワク。センタに痛いところを突かれたような気がしたのです。激しい言葉を口にしているわりにセンタが悲しそうな顔をしていることに、ワクは気づく余裕がありません。

二人はしばらく黙ったまま歩き続けました。

夜。

野宿の焚火も、何となく少し離れたところで、ばらばらにしています。

ワクは、すぐそこの小さな茂みの向こうに見える、センタの焚火の明かりの方をチラチラと見ながら、自分の釣った魚を焼いています。向こうは向こうで、やはり自分の釣った魚を焼いているはずです。その釣りも、つかず離れずの感じで、少しだけ離れた場所でそれぞれにおこなったのでした。

魚を焼いているうちに、うまく焦がし気味に焼くことに夢中になったワクは、思わず言いました。

「見ろよ、ほら、こんなにいい具合に焼けたぜ。」

言ってしまってから、

(あ、別々なんだった…。)

センタが隣にいないことに改めて気づくワク。

すると、向こうから、

「あっ、あーっ!」

と声が聞こえました。

ワクは思わず立ち上がり、センタがいる茂みの向こうへ駆け寄り、

「どうした、大丈夫か!」

「いや、何でもねえ。」

見ると、センタの魚は地面に落ちていました。手を滑らせたのでしょう。

「お前が、何かブツブツ独り言を言っているから、気になって落としちまったじゃねえかよ!」

そのまま二人は顔を見合わせて――次の瞬間、笑っていました。

「来いよ。俺のもう一匹のやつを食えよ。」

「ああ。くそっ!」

無言で一緒に魚を食べる二人。

ワクは、仄暗い焚火に照らされたセンタの顔をチラリと見て、目を背けながら、

「さっきは…悪かった。」

センタは何も答えません。居心地が悪そうに、目を泳がせています。

「なあ、悪かったよ。俺が。…俺は、お前に嫉妬していたんだ。」

「え。」

センタは真に意外そうな顔をしました。

「お前の、人とすぐ仲良くなる力、俺には真似できねえもの。」

センタは今度は、何とも複雑な表情になりました。

少し間を置いて、センタが言いました。

「お、俺も、お前に引け目を感じることがある。」

「え。」

「お前のその、自信たっぷりなところ。何が根拠か分からねえが、何が起こってもどっしり構えてよ。お前といると俺は安心するんだよな。大船に乗ってる感じがする。お前はきっと、大きなことを成し遂げるよ。」

「…。」

自分のことをそんな風に考えたことがなかったワクは、心底驚きました。まあ、サブロウにも同じようなことを言われましたが。いつでも自信満々だと。もっともそれが長所なのかどうか、ワクには疑問でした。

「そんなこと、立派でも何でもねえ。お前の方がずっとすげえよ。」

「いや、お前の方が…。」

「いや…。」

二人は顔を見合わせて吹き出しました。

なんだ、お互い様かよ。まだ少しシコリを感じながらも、だんだんと心が温まっていきます。この温もりは、やっぱりこの相手であればこそだ。二人ともそう感じていました。

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