第8話 相棒(一)
ワクは旅を続けました。
一人きりの道行は、時には淋しくもありましたが、出逢ういろんな人との触れ合いを楽しんだり、目の前に大きく広がる世界に改めて心弾ませたり、それは楽しい旅でした。
時には、草原に寝転がって、一日中、ただただ青い空と白い雲を眺めていたり。
「ふーっ、今日は本当に何にもしなかった!」
土砂降りの雨の後、全身ずぶ濡れのままで、遠くの山にかかる大きな虹を見上げたり。
「ああ、生きてるな!」
そして、一年と少しが経った、ある初夏の日。ワクは二十一歳になっていました。
おーい。
夕暮れ迫る森のほとり。
おーい。
何かが聞こえます。人の声でしょうか。
ワクは耳を澄ましました。
おーい、誰かいないかー。
今度ははっきりと聞こえました。誰かが呼んでいる声です。
声は右手の森の中から聞こえてくるようです。森というよりは、山の中なのですが――そちらへ入っていく道が、目の前から延びています。ワクはその道へは入らず、山の脇を通る平地の道を行くつもりでいましたが、呼び声が気になり、立ち止まりました。
ワクは迷いました。こんな日暮れ時から、山道に入っていくなんて。しかし、そうしている間にも、また声は聞こえて来ます。
誰かー、いたら助けてくれー。こっちだー。
が、暗闇で何も見えず、迷い込んでしまうかもしれません。
(そもそも、あれが人間の声とは限らねえな。)
狸が化かそうとしているか、またはこの世のものではない何かが、ワクを取り殺そうとしているのかもしれません。
そんな考えに一瞬背筋がぞくっとしました。
(いやいや、そんなわけはねえか。誰かが困っているんだ。足でも挫いて歩けなくなっているのかも知んねえ。)
ワクは、意を決して山道に足を踏み入れました。
夕暮れ時。ただでさえ辺りは薄暗くなっています。ましてや、山の中。ほどなく真っ暗になるでしょう。
ワクは、拾った枝に火を点け、その明かりを頼りに前へ進みました。
笛を鳴らしてみます。初めての野宿の日にお兄さんからもらった、あの竹笛です。
ピィーーっ!
するとそれに応えるように、
おーい!
声はだいぶ近づいていました。こちらからも大声で呼んでみました。
「おーい。どうしたんだー!」
立ち止まって耳を澄まします。
「おーい、こっちだー、助けてくれー!」
前方に明かりが見えてきました。
大きな車。その手前に、何か大きな動物。車の影に、人が二人いるように見えます。さらに近づくと、動物は牛でした。フウフウと息の音を立てています。右の後輪のところに、二人の男がいます。明かりはその周辺を照らしています。
「どうしたんですか?」
「車輪が窪みにはまって、動けなくなったんです。」
男のひとりが答えました。
ワクは車輪の脇にしゃがみこんで、覗き込みました。たしかに、道の端の溝にはまり込んでいます。が、少し頑張れば抜け出せそうです。下り坂ですし。
「これ、牛車なんだな。初めて見たよ。」
「そんなことよりも、さっさと手を貸してくれ。こっちは急いでいるんだ!」
もう一人の男が、苛立ちを含んだ声で言います。
(なんだ、こいつ。)
ワクは思いましたが、こんな状況ですから気が立っているのでしょう。
「中に、小さな子供がいるんだ。熱を出している。」
「え!」
「だから一刻も早く抜け出して、医者に診せに行かねえと。」
「分かった。」
「地面が湿ってて滑りやすいからな。車輪の下にできるだけ枝を敷いて、滑りにくくするんだ。一緒に来い!」
「あ、ああ。」
ワクは言われるまま、ワクに命令した男について、枝を拾いに行きました。その男は若者でした。ワクと同年代ではないでしょうか。きびきびした無駄のない動きで、道の脇の茂みに分け入って行きます。
「よし、ここらあたりで枝を集めよう。できるだけたくさん拾えよ。」
ワクは黙って、枝を拾い集め始めました。
(なんだ、こいつ。若造のくせに、偉そうに。)
自分自身も間違いなく若造であるワクは、心の中でそう毒づきました。こんな状況でなかったら、文句を言ってやるところなのに。
やがて、それぞれに腕いっぱいに枝を抱えた二人が牛車に戻ると、もう一人の男が、牛車の幌の中から出て来るところでした。
「お嬢ちゃんはどうだい?」
「ええ、まだ熱が高いです。やっぱり早く医者に診せないと。」
男は答えました。こちらは中年男性です。子供はこの男の娘なのでしょう。若者よりもだいぶ年上に見えますが、物腰が丁寧です。二人は一体、どんな関係なのだろうか。非常事態にもかかわらず、ワクは一瞬そんなことを考えました。
ワクと若者の二人で車輪の下に枝をかませ、その周辺にも枝を敷き詰めました。
「よし、後ろから車を押すぞ。」
「あ、ああ。」
中年男性は、前に回って、牛を引きます。
三人で力を合わせて踏ん張ります。なかなか車は動きません。が、少なくとも、車輪がすべるのは防げているようでした。もう少しだ、とワクは思いました。
すると、
「力が足りねえ! もっと力を入れろよ、お前!」
ワクはこの若者の物の言い方にムッとしました。
「なんだと! お前だろ、力が足んねえのは! 腰に力が入ってねえんじゃねえのか?」
「つべこべ言わずにやれよ!」
ワクはこの一言で、気持ちが切れました。
「なんだその言い草は! さっきから聞いてれば、それが助けてもらう態度か!」
若者は一瞬きょとんとしました。ワクの怒りにピンと来ていない様子です。
「やめた。ばかばかしい。お前ら自分たちだけでやれよ!」
ワクは手を離し、牛車の横をすり抜けて、中年男性の横を通り、そのまま道を下って行きました。
「お、おい!」
後ろから若者の声が聞こえます。が、ワクは立ち止まりません。
「待てよ、おい、こら!」
が、ワクはしばらく歩いてから、さすがに立ち止まりました。怒りに任せてあんなことを言ったものの、この状況で彼らを見捨てて下山できるワクではありません。
(くそっ!)
ワクはくるりと向きを変え、牛車まで戻りました。
牛車では、戸惑っていた二人が、ほっとした表情でワクを迎えました。
「言っとくけどな、お前のためじゃないぞ! お嬢ちゃんのためだからな!」
ワクのその言葉に、若者は意外なことに、鋭い目つきのままで、口元にかすかな笑いを浮かべました。
それから三人は力を合わせ、何とか牛車を動かすことが出来ました。溝から抜け出したときには、三人がそろって歓声を上げました。が、ゆっくりはしていられません。早く医者に連れて行かなければ。ぐずぐずしていると夜中になってしまいます。
「おっちゃんは、お嬢ちゃんについててやりな。牛車は俺たちで進めるから。」
「ああ、ありがとう。」
やがて、一行はふもとの医者を見つけ、子供を診せて、ひと段落つきました。子供は、風邪をこじらせて重症化しているので、数日間ゆっくり寝かせるように、とのことでした。
診察室の廊下で、子供の父親は、二人の若者に、涙目で礼を言います。
「ありがとう、君たち、本当にありがとう。」
「いやあ。よかったすね。お嬢ちゃん。大変な病気じゃなくて。」
「ああ。それにしても、山の中で牛車が足を取られて、本当にどうしようかと思ったよ。君たちが通りかからなければ、俺ひとりでは…最悪、牛舎を捨ててあの子をおぶって下山することになったかも知れない。」
若者は、照れたように、にっと笑います。
「え?」
ワクは口を挟みました。
「お前も通りすがりだったのか?」
「あ? ああ、そうだけど?」
どうしてそんな当たり前のことを聞くんだ? という顔。
てっきり父娘の身内だと思っていたこの若者。助けてもらう立場のくせに横柄な。ワクはそう思っていたのです。そうじゃなかった。こいつも、行きずりの遭難者を助けようと、必死になっていたんだ――。
「よかったよ、お前が通りかかってくれて。俺一人では牛車を動かすには力が足りなかったぜ。助かったよ。」
若者はにっこり笑いました。
こいつ――、思ったほど嫌な奴じゃないかもしれない。ワクは今さらながら、そんなことを思いました。
その晩は、診療所の布団を借りて一泊し、翌朝、子供の具合が良くなるまで診療所に留まる父娘を残し、ワクと若者は出発しました。
「お前はどこへ行くんだ?」
二人で並んで歩きながら、ワクは若者に尋ねました。
「俺は、どこか住みやすい理想の地を探して旅をしている。この世のどこかに、そんな場所がきっとあるに違いない。」
「へー。」
「お前もか?」
「俺は、俺も似たようなもんだが…ほら、あの山を目指しているんだ。」
ワクは前方遥かにうっすらと見えている山を指さして言いました。
「あの山の向こうには、楽園があるんだぜ。」
「本当か?」
「ああ、たぶんな。」
「何だよ、たぶんって。」
若者はキラキラ光る目で、いたずらっぽく笑いました。笑うと色白の顔がクシャっとなって、少年のように見えます。背丈はワクと同じくらい。ワクよりも少し細身ですが、俊敏そうな身体つきです。事実、昨晩の動きも俊敏でした。
昨日の、山へ入って行く道との分岐点で、二人は別れました。若者は山の方へ行きます。ワクは平地を行きます。
「じゃあな。」
軽く手を振って、あっさりと離れていく若者の背中を見ながら、ワクはなぜか、この若者とはまたどこかで会うような気がしていました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます