第7話 大人になる時(二)
ある日の帰宅後、着替えなどをしながら、なんとなくナズナの姿を目で探すと、彼女は窓の外、裏手の畑にいました。
裏戸口から出て、
「た、ただいま。」
ぎこちなく声をかけるワク。顔が火照るのが自分で分かります。
「あ、お帰りなさい。今日もご苦労さま。」
「あ、ああ。」
ぶっきらぼうに、それだけ答えて下を向くワク。
「どう? 仕事には慣れた?」
「ああ。」
「親方は優しく教えてくれるの?」
「ああ、とっても丁寧に教えてくれるよ。」
「そう、良かったわね。」
ナズナはワクよりも年上です。何となく、弟を心配するような口調になります。
「お、俺、手伝うよ。」
「いいのよ、疲れているでしょう。」
「いいや、全然。」
ナズナは目じりを下げて優しく笑い、
「じゃ、お願いしようかしら。」
ワクは、目の前がぱあっと明るくなったような気分になり、それからいそいそと、ナズナに指図されるままに作業を手伝いました。
彼女はほぼ毎日、その時間帯に、何かしらの作物を摘んでいるのです。夕食のおかずの食材や調味料として使うためです。
それから毎日、ワクは仕事から帰ると裏庭に行きました。頼まれもしないのに何となく手伝いをしながら、慣れてくると一転して、その日の屋根作業のことやその他の出来事を、喜々として話すようになりました。話の内容は取るに足らないことが多いのに、ナズナはいつも、にこにこしながら聞いてくれます。時にはお姉さんらしく、たしなめられることもありましたが、そんな時も含めて、ワクは幸せでした。
少しでも自分の話を聞いてくれれば幸せ。いや、一緒にいるだけで幸せ。いやいや、少しでも自分の活躍を聞いて欲しい。感心して欲しい。ワクの気持ちは、もうナズナのことでいっぱいでした。
でも、ナズナの方はこれほど自分のことを想ってくれているわけではないのだろう、自分はまだまだ子供なんだから、彼女に釣り合うような人間ではない。時にワクは悲観し、切なくなり、落ち込み、自分を卑下します。
恋心を経験することにより、ワクは相手の目を通して自分を意識し、見つめるようになったのでした。もっともそれは多分に主観的で、皮相的で、かつ感傷的な見つめ方ではありましたが。
作物を摘んでいるナズナの手を見ているうちに、ワクは彼女の手が、日々の労働で大変荒れていることに気づきました。それ以来、一緒に畑にいるときは、ワクは自分が作物を摘み、ナズナにはそれをさせないようにしました。彼女が他にもたくさんしている労働を考えれば、そんなことは焼け石に水だということは分かっていましたが、そうせずにはいられませんでした。
そう、ナズナの仕事は家事だけではありませんでした。もうひとつ、草履作りもナズナの主な仕事でした。
「亡くなった奥さんが中心にやってらしたの。私は奥さんに習ったのだけれど、奥さんが亡くなってからは、私ひとりで細々とやっているのよ。」
「俺もやるよ。教えてくれ。」
「何を言っているの。あなたはお昼間の仕事で疲れているの。無理をしてはいけません。」
「ナズナだってそうじゃねえか。」
「私は慣れているから。」
「俺だって慣れるから大丈夫だ。」
ナズナは、聞かん気の弟を見るような目でワクを見て、かすかに微笑みながらうなずきました。
毎日一時間だけ、という条件でワクは草履作りに参加することとなりました。実際のところ、ナズナに教えてもらいながらの作業ですから、果たして手伝いになっているのかどうか――かえって迷惑なだけだったのかもしれません。が、それは楽しいひとときでした。少なくともワクにとっては、永遠に続いて欲しいと思うような。
一方でワクは、ユキ坊やともますます親しくなりました。坊やは相変わらずワクのことを「踊り子しゃん」と呼びます。違う、名前はワクだと言うと、「ワクの踊り子しゃん」と言います。踊り子ではない、と言うと、悲しげな顔になり、しまいには泣き出します。何度かそんなやりとりを繰り返した後、ワクは諦めました。それどころか、「踊り子しゃん」と呼ばれたら、笑顔で「メチャクチャ踊り」を披露するようにしました。ユキ坊やは飽きもせず、毎回手を叩いて喜び、時には自分も踊りました。親方によると、母親が亡くなって以来
三月初め。
厳しい冬を越え、季節は春になりかかっていました。
ある夕方、仕事から帰ると、客室から男性の声が聞こえます。今日は親方に大事な用があるからと、ワクはひとりで仕事に行っていたのでした。
その親方が、ひとりの知らない男性と話しているようです。
「いままで散々お世話になりまして、本当に、何と言ってよいか…。」
「いやいや、この子は本当に働き者で、こちらはずいぶん助かっているんで。」
「そうですか。」
「最近はもう、こんな言い方しちゃあお前さんに失礼だが、自分の娘みたいに思えてましてな、淋しいこってす。」
「よかったな、ナズナ。こんなに可愛がっていただいて。」
男性は少し涙声になっているようにも聞こえました。
ナズナの声は聞こえません。
男性はナズナの父親でしょうか。これまでワクは会ったことがありません。それよりも――。
(ナズナがいなくなる?)
話の内容からすると、どうもそのように思えて仕方がありません。でも、こんなに急に――。
ナズナの父親と思われる男性は、ほどなくして帰って行きました。
その夜、寝る前までの間、親方にもナズナにも特別変わった様子はありませんでした。ワクは自分の勘違いかもしれない、とも思いましたが、その夜はよく眠れず、何度も目を覚ましました。
翌朝、少し眠い目をこすりこすり起きて、朝食の卓につくと、ナズナの姿が見えません。聞くと、用事があって、今日は朝から実家に行っている、とのこと。ワクは再び胸騒ぎに襲われました。
夕方、仕事を終えて帰宅したときに、親方に呼ばれました。
「お前、ちょっとここへ座れ。」
「なんだい、親方。」
親方の少々こわばった表情を見て、ワクは一瞬、仕事で何かヘマをしたのかと思いました。が、親方は、予測に反して、こう切り出しました。
「お前は、ナズナのことをどう思っているんだ?」
「え?」
心臓が口から飛び出しそう、というのはこういうことかもしれません。ワクは瞬間、まずい! と思いました。何がまずいのか自分でもよく分かりません。
「いや、聞くまでもねえか。お前の気持ちはよく分かっている。」
「え?」
相変わらず、まともな返事が返せません。
「分かってはいるんだがなぁ。なあ、お前はまだまだガキだ。これは仕方のないことだ。」
「何が? さっきから何なんだ、親方? ナズナがどこかに行くのか?」
ようやく意味のある返事ができました。が、心臓が高鳴って苦しくなります。
「ナズナはな…もらわれていくことになった。」
「ほ、奉公先を変わるのかい?」
「ばか、違うよ。」
「?」
「嫁ぎ先が決まったんだ。」
その瞬間に誰かに頭を殴られたに違いないと思いました。その後のことは、記憶がぼんやりして、よく覚えていません。おそらく、表面上、何事もなかったかのように、普段どおり飯を食い、風呂に入り、寝床に入ったのでしょう。
四月。
春になり、畑には作物と同時に、雑草も生い茂るようになりました。
ワクは畑で、ナズナと向き合って立っています。作物や雑草に隠れて、家の中からは二人の姿は見えません。
さっきまで二人はいつも通りに畑作業をしていました。結婚の話が決まった後も、ナズナの態度は特に変わらず、ワクもその話題には触れず、これまでと同じ生活を続けてきたのでした。が、六月にはナズナが嫁いで行ってしまうことも、ワクはもう知っています。
「春になって野菜も草も生い茂ってきたな。草なんて、いくら刈っても追いつきやしない。」
「そうね、毎年草抜きは大変だけど、今年はワクがいてくれるから大助かりね。六月になったらエンドウもキュウリも収穫できるわ。」
六月──。瞬間、ワクの体に熱いものが走りました。
どうしようもなく、ナズナを引き寄せ、抱き締めました。いけないことだと思っても、腕に力が入り、身体が言うことをききません。
するとナズナは、自分の方から背伸びをして、唇をワクに近づけ、軽く――ほんの軽く――ワクの唇に触れました。
ほんの一瞬でした。二人はすぐに離れ、立ったままお互いを見つめました。
やがて、ナズナはゆっくりと体を回して後ろを向き、家の方へ歩き出しました。その背中に、ワクはたまらず叫びました。
「ナズナー! 大好きだ!」
ナズナは振り返り、これまでに見た中で最高の笑顔を見せてくれた後、戸口から家の中へ入っていきました。
ワクはとっさに、家とは反対の方角へ走り、小高い丘の上の茂みに隠れて、おいおいと泣きました。涙はいつまで経っても枯れず、頬を撫でる生暖かい風に切なさをそそられるのに任せ、いつまでも泣き続けました。まるで小さな子供に戻ったかのように。
五月。
ワクは、ナズナの結婚より一足先に、親方の家をおいとましようとしていました。ナズナの件に加え、彼は本来の目標を、再認識したのです。ユキ坊も落ち着いてきた様子で、ここらが潮時でした。
出発前に、親方、ナズナ、ユキ坊は、もうすぐ二十歳になるワクに、ささやかな成人祝いを催してくれました。
「ワクよ、成人おめでとうさん!」
親方の掛け声で乾杯。
ワクは、酒というものをこの時初めて飲みました。苦くて深い、大人の味です。
ナズナとユキ坊は、野の花で作った首飾りをワクの首にかけてくれました。
ワクとユキ坊は、興に乗って「メチャクチャ踊り」を一緒に踊りました。今日は特別に心を込めて。
ワクはこの日を、自分が大人になった日として、一生忘れないだろうと思いました。
数日後。表玄関の前。
親方、ナズナ、ユキ坊やが見送りに出ていました。
「元気でな。お前とナズナがほとんどいっぺんにいなくなるからな。俺は淋しいよ。」
「すいません、さんざん世話になっておいて、何にも恩が返せねえ。」
「なに、十分働いてくれたさ。」
「踊り子しゃん、踊り子しゃん。また帰ってくる? いつ帰ってくる?」
「そうだな…ユキ坊が今よりずっと踊りが上手くなったころかなあ。」
坊やはこくんとうなずきました。希望と不安が入り混じったような顔で。
ナズナは一言、潤んだ目で、
「ありがとう。」
と。
「幸せになれよな。」
「もちろん…ワクもよ。」
「うん。」
ワクはまた、夢に向かって歩き始めました。きりっと前を見据えるその表情は、また少し大人びたように見えます。
五月の陽光。
彼を取り巻くのは、すべての事物が光り輝いている、まるで天国からそのまま降りてきたような世界でした。
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