第6話 大人になる時(一)

高く澄んだ空の下、はるか彼方に、山はぼんやりと見えています。真夏の青々とした、力みなぎる山もいいけれど、今の季節の上品なたたずまいも捨てたものではない、とワクは思いました。

サブロウ一家の家を出てから二年。父親の家を旅立ってからは、二年半ほどの月日が流れていました。

十九歳の秋。さらに少し背が伸びました。

両手で川の水をすくい、ごくごくと喉を鳴らすワク。その腕も、以前より少しだけ逞しくなったようです。

喉が潤うと、体を包むほっこりした陽射しに浮かれて、ワクは鼻唄を歌い出しました。初めは囁くような声だったのが、徐々に調子に乗って大声になります。そのうち、身ぶり手ぶりもついてきて、しまいにはほとんど踊っていました。

無理もありません。爽やかな秋晴れで、周りに誰も見ている人はおらず、そして何より――彼は若かったから。

踊るワクの鼻の頭に、トンボがやってきてとまります。トンボを驚かさないように気を付けながら、やさしく体を揺らして踊ります。トンボが鼻から飛び立つと同時に、トンボを見送るように身体をくるりと一回転。

後ろを向いた拍子にふと気づくと、四、五歳くらいの男の子が立っていました。彼について来ているようです。一旦は知らん顔をし、後ろを意識しながらしばらく歩いていましたが、いつまでたっても帰っていく様子がありません。ついにワクは、男の子に声をかけました。

「おい、坊や。」

男の子は一瞬足を止め、こちらを伺うような目つきをしましたが、ワクが笑いかけると、嬉しそうに駆け寄ってきました。

「踊り子しゃん! 踊り子しゃん!」

オドリコシャンというのが何を意味するのか、ワクには一瞬ピンときませんでしたが、すぐにそれが「踊り子さん」のことだと思い至りました。

(踊り子? 俺が? なんだそりゃ。)

「坊や、うちはどこだ?」

「あっち。」

自分たちがやってきた道の方向を指しますが、近くに家はありません。最後に見た民家がどのあたりにあったか――しばらく民家を見ていない気がします。もうかなりの距離をついて来ていたのでしょうか。

「仕方ねえなあ。お前の家まで戻ろうか。」

男の子はなぜだか嬉しそうに、こくんとうなずきました。

嬉しそうにワクと手をつないで歩く男の子。笑いながらワクをじっと見上げて来ます。ワクが、少々ぎこちない笑顔で笑い返してやると、嬉しそうに、

「踊り子しゃん、踊って!」

とねだってきます。

「いや、おれ、踊り子じゃねえよ。」

「踊って、踊って!」

「し、仕方がねえなぁ。」

さっきは人が見ていないと思ったから、思いつくまま、でたらめに身体を動かしていたのです。言ってみれば、「メチャクチャ踊り」です。改めて踊ってくれと言われると、とても照れるのですが、それでもワクは踊りました。

「お前も踊れよ。」

言われた男の子も、一緒になってメチャクチャに体を動かし始めました。

いつしか二人は、より変な動きを競い合うように踊りながら歩いていました。時々ポンと頭を叩いてやると、男の子は「キャヒン!」と言って嬉しそうにしました。

どれだけ歩いたでしょうか。気づくと、日が少し傾いて、短い秋の日は夕方にさしかかろうとしていました。

(早くこの子の家を見つけなきゃ。)

と思っているところへ、ほどなく一軒の家が見えてきました。先ほどここの前を通った記憶があります。

「あそこか? お前の家は。」

「うん!」

男の子は、にこにこ顔で答えます。もうすっかり仲間気分のようです。


一人の若い娘が、ほうきで家の前を掃いていました。

油断して、踊りながら娘に近づいて行ったワク。娘が顔を上げた瞬間、胸にズキンと衝撃を覚え、思わず娘に見とれて立ちすくみました。同時に、間抜けな踊り姿を見られたと気づいてドギマギ。小柄な娘は、白くて柔らかそうな肌に、つやつやの黒髪で、やや垂れた目尻に黒目がちのつぶらな瞳をしていました。ワクは、自分の顔が熱くなっていくのをはっきりと感じました。

「あら、坊ちゃん、どこへいらしてたの? お父さんがお探しだったのよ。」

「踊り子しゃん! ねえちゃん、これ、踊り子しゃん。」

「はぁ?」

そこで娘は初めてワクに目を向けました。珍しいものでも見るようにワクを見つめて、

「旅芸人の方ですか?」

「! い、いや、ち、ちが!」

ワクは混乱し、まともな言葉を発することができません。耳まで真っ赤にして、男の子の頭を思わずポカン、と叩くと、強すぎたのか、男の子は泣き出します。

「あ、あ、ごめ…。」

ワクにはもはや収拾がつきません。絶望的な気持ちに陥りました。

すると娘はあろうことか、口に手を当てて笑い出しました。

「おほほほ!」


その後、この坊ちゃんの父親が、戸口での騒ぎを聞きつけ、ワクを家へ招き入れてくれました。土間の囲炉裏端で、ワクはいきさつを話しました。

「そうかそうか、坊主が世話になったな。」

「まあ、世話っていうか、ただこいつが…この子がついて来ちまうので、家まで送ろうと思っただけで。」

「それはえらい迷惑をかけちまったな。」

「いや、迷惑ってこともないけど…。」

と、ちらりと娘の方を見るワク。

「わたしはてっきり、旅芸人の方かと思ったわ。」

娘はまたワクたちの踊りを思い出したのか、口に手を当てて笑いをこらえている様子です。

ワクは恥ずかしくて恥ずかしくて、いたたまれない気持ちで、赤い顔をうつむけます。

「それはそうと、もう日が暮れかかっているが、おまえさん、今晩はどうするね? ここへ泊まっていってもええぞ。」

「泊まる? 踊り子しゃん、泊まる?」

坊やは大変うれしそうです。

「いいんですか、泊っても?」

「ああ、ええよ。坊主が世話になったしな。」

「じゃ、遠慮なく。」

と、また娘をちらりと見るワク。

娘は涼しい顔で、黙って下を向いていました。


娘の名前はナズナ。ワクより二つ年上の二十一歳でした。この家の娘ではなく、知り合いの家から、泊まり込みでお手伝いに来ている身ですが、小さな子供の時分からだそうで、主人はナズナのことを、なかば本当の娘のように可愛がっている様子でした。

坊やは四歳で、ユキといいました。つい昨年、母親を亡くしており、その母親は踊りが上手で、結婚前には踊り子をしていたとのことでした。

次の朝、ワクが礼を言って出発しようとすると、ユキ坊やがぐずり始めました。

ワクの着物の裾を引っ張り、おいおいと泣きます。ただただ悲しそうに、涙を流して声を上げます。

「…。」

「悪いな。もう一日泊って行ってくれんか。」

「俺は全然構わねえけど。いいんですか?」

「ああ、お願いするよ。」

ワクも、滞在を延ばすにやぶさかではありませんでした。ユキ坊のことも可愛かったのですが、それ以上に、ナズナが気になっていたからです。

「ユキはお前さんのことを踊り子だと思って、それで母親の仲間のように感じているのかもしれんの。」

「ふーん。」


それから、ワクは出発をずるずると一日延ばしにしていきました。主人からの要望で泊っているとはいえ、ただ飯を食らうのは気が引けるため、宿代を支払うことを申し出ましたが、主人は断りました。

「なら、何か仕事させてくれよ、おっちゃん。ただ飯と寝床を恵んでもらっているだけじゃあ、なんだかな。」

「そうか。じゃあ、お前さん、俺の仕事を手伝わんか。それで宿代はタダ。逆に給金もやれるぞ。少しならな。」

「仕事って、おっちゃんのやっている、屋根の修理か?」

「ああ、そうだ。」

屋根の修理というのは、茅葺屋根の修復作業です。

そうしてワクは、しばらくの間、この家に寝泊まりすることになったのですが――それが、少しばかり心が乱される原因になったのです。

彼はナズナを初めて見た時から、自分の中に奇妙な、これまで経験したことのないものを感じていましたが、日が経つにつれ、それは大きくなっていきました。

朝起きるとすぐに、ナズナの顔を思い浮かべます。顔を合わせて、

「おはよう。」

と言葉を交わすのが、一大事。彼女の姿が目に入ると心臓が歓喜にビクンと飛び跳ねますが、同時に何だか厄介ごとを背負い込んでしまったような、落ち着かない気持ちに。そんな腫物のような心を隠して、何でもない態度をとろうとする。たいそう疲れ、さらには自分が情けなくなり、軽蔑されているに違いないと思い込み、どっぷりと落ち込みます。なんだか自分がとても弱くなってしまったように感じます。普段の強気な彼には似つかわしくありません。

ときにはそんな気持ちが、態度に表れてしまいます。

ある朝、

「おはよう、ワク。」

と声をかけてきたナズナがまじまじとワクを見て、問いかけました。

「どうしたの? 機嫌が悪いみたい。よく眠れなかったの?」

「い、いや、別に。」

顔が火照っているのを相手に悟られまいと、横を向きます。なぜか少々乱暴な気分になり、洗面所の戸を閉める手に力が入って大きな音を立てました。ナズナにはそれがやっぱり不機嫌の証のように見えて、ちょっと悲しそうな顔をしました。


茅葺屋根の修復作業の方は、やってみると意外と重労働です。高いところでの作業ですが、彼はその点は平気でした。怖いどころか、名前のとおり、ワクワクします。力が必要である一方で、繊細な作業もあり、神経を遣いますが、きれいに仕上がった部分を見ると気持ちが沸き立ちます。これはこれで面白い! とワクは夢中になりました。

いつしか、主人のことを「親方」と呼んで慕うようになりました。

秋空の下、修復の仕上がった屋根の上で風を浴びていると、なんとも言えない充実感に満たされます。仕事を終えて帰宅する家には、好きな女性が待っている。こんな人生も悪くないな、と思わずにいられないワクでした。

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