第3話 少年と老人(二)

得体の知れない鳴き声に思わず身体を固くするワク。

するとその時、かすかに人の声のようなものが聞こえました。

「…じゃないか。」

「ああ…まって…か。」

「はははは!」

その方へ目をやると、ぼんやりと明るい場所があるではありませんか。

ワクは心底ほっとして、そちらへ駆け寄りました。

明かりは案の定、焚火でした。若い男性と初老の男性が、焚火に当たって、焼いた肉を食べながら話しています。

「なんだ、おめえ?」

「あ、俺、俺…。」

「なんだ、子供じゃねえか。どうしたんだ、こんなところで? 迷子になったか?」

「いや、俺は、旅人だ!」

「旅人だと? 子供のくせに。」

「子供じゃねえ。もう大きくなったから、父ちゃんの家から旅立ったんだ。」

「へえ。こりゃおったまげた。最近流行ってるとは聞いてたが、本物は初めて見た。どれ、こっち来い。ここへ来て、めんこい顔見せてみろ。」

ワクは二人に近づいて行きました。安心して急に全身の力が抜けました。

それから二人は、ワクの寝ようとしている場所――ジロウの待っている場所――まで行き、野宿について何かと教えてくれました。

「いいか、火を起こすにはな、火打ち金というやつを使うもんだ。石をこの金に打ち付けるんだ。今度の町で買っておくといい。」

「火花で火をつけるにはな、麻ひもをほぐしたやつが一番だ。そこへ火花を当てるのさ。」

「薪は大、中、小の三種類。まずは麻ひもから、小の薪に火をつけて、中、大と順番にな。」

「動物には気をつけろ。熊はな、朝と夕方の沢にいる。それと、笹薮にいることが多いからな。寝るときに食料が残っている場合は、自分から少し離れたところに置いておくんだ。」

「熊に会っても熊の方が避けてくれるように、音を出すのがいいんだ。鈴か笛がいいが…ほら、これをやるよ。吹いてみな。」

若い方の男が、竹で作った笛をくれました。

ピーっ。

気持ちよく甲高い音がします。ワクは調子にのって、勢い良く吹きます。

ピィーーーーっ!

思わず笑顔がこぼれました。

「ありがとう、おっちゃん!」

「こら、お兄ちゃんと言えよ。」

「あ、ああ、お兄ちゃん。」

「よしよし。」

男はワクの頭をポンポンと叩きました。

「ところで、その犬は、だいぶ年寄りなのか?」

「うん、俺と同い年だから、十七だ。」

「そうか。この先もこいつと一緒に行くつもりか?」

「うん。なんで?」

「いや、こいつは…。いや、何でもねえ。」

その晩は、すぐ近くに人がいるという安心感に包まれて眠ることができました。ワクはずっと、ジロウの首を抱きしめていました。


翌朝、早くに起きた男性二人は、ワクのところへ声をかけに来てくれました。

「俺たちはもう行くからよ。」

「ああ、おじちゃんたち、ありがとう!」

「おじちゃんじゃねえったら。」

「お、おじちゃんとお兄ちゃん…。」

「気を付けて行きなよ。無事に山へたどり着けるといいな。あ、それから、そいつを大事にしてやれよ。」

最後の一言は、ジロウを指さしての発言です。


ジロウは、一晩ゆっくり寝たせいか、昨日よりは元気に見えます。ワクとジロウは、身の回りの整理をして、また歩き始めました。

次の集落まで、どのくらいあるのか分かりませんが、とりあえず目に入るのは、山や林、小川、田や畑といった、相変わらずの田舎風景です。時々、建物がありますが、人が住む民家なのか、それとも物置小屋なのか――。

昼になったところで、昨日焼いておいた魚の残りを食べました。十分な量ではありませんが、他に食べるものがないので、仕方がありません。

「悪いな、これだけしかないんだよ。」

「クウン。」

ジロウの返事はいつでもクウン、ですが、ワクにはそのときどきのジロウの気持ちが分かるつもりです。この時は、いいんだよ、と言っているように感じられました。


午後もたけなわの時刻になりました。そろそろ次の集落に近づいているでしょうか。このまま何とか町にたどり着けるかな――。

「なあジロウ、今夜はどうしようかな。」

そう話しかけたワクは、そのとき初めて、ジロウがかなり遅れて後ろの方を歩いていることに気づきました。息が荒く、いかにも苦しそうです。

ワクは慌ててジロウに駆け寄ります。

「どうしたんだ? 大丈夫か?」

クウン、とジロウは鼻先で鳴きます。大丈夫、心配しないで、とでも言うように。が、それとは裏腹に、ジロウは力尽きたように、その場にへたり込んでしまいました。

「ジロウ!」

ここは、道行く人もまばらな郊外です。実際、目に入る範囲に人の姿はありませんでした。

ワクはジロウの首を強く抱き締めて、しばらくじっとしていました。人間ならば医者に連れていくべきところかもしれません。が、動物を診てくれる医者などいるでしょうか。そもそもジロウには、この先の町中まで歩いて行く元気はなさそうです。

ワクは、ジロウを抱いて町中まで運ぼうと思いました。力が抜けて重く感じられるジロウの身体を持ち上げようとしますが、なぜかジロウはその場で抵抗して体を揺らし、なかなか持ち上げさせてくれません。それはまるで、どこへも行かなくていいから、このまま自分を抱いていて、とでも言っているかのようでした。

ワクは仕方なく、しばらくじっとジロウを抱き締めていました。その間もジロウは、苦しげにハッハッと荒い息をしています。

空は青く、高く、爽やかに澄んでいるというのに、その空の下で、愛するジロウが苦しんでいる。ワクにはその事実が、悲しくもあり、同時に納得の行かない気持ちでした。


夕暮れどきまで、そうやってジロウを抱いていました。ジロウはやがて、目も半眼になり、息遣いも少しずつ弱まっていくようでした。

「ジロウ、頑張れ、ジロウ、ジロウ…。」

すると次の瞬間、ジロウは急に、ワクの顔をところ構わず激しく舐め始めました。まるで、大好きだよ、大好きだよ、という気持ちを押さえきれず、そうしないではいられない、といった風情でした。

「ジロウ!」

元気が出たように見えるジロウに、ワクは嬉しくなり、笑い声を上げました。

「くすぐったい、くすぐったいからやめろよ。あははは!」

ジロウはしばらくの間、狂ったようにワクの顔を舐め続けていましたが、やがて、舐め始めた時と同じように急に、ぱたりと舐めるのをやめて、ぐったりしました。

息の音はもう聞こえませんでした――。

ワク少年は、最初、何が起こったか分かりませんでした。が、やがて状況を理解しました。

「ジロウ!」

涙が次々と溢れ、声を限りに泣きました。

「ごめんよ、ごめんよ。俺が無理に連れ出したばっかりに…。」

いつまでもいつまでも泣き続けました。涙が枯れてもなお、泣き続けました。


どれだけの時間が経ったのでしょう。

泣き疲れて顔を上げたワクが気づくと、目の前に、ひとりのお爺さんが立っていました。もうほとんど日が暮れた、薄暗闇の中、老人の白髪が、ぼうっと浮かび上がっているようでした。顔ははっきり見えません。

老人はしばらく少年を見つめた後、とても柔らかな優しい声で、話しかけてきました。

「何を泣いているんだね?」

ワクはじっと老人を見返しました。初めて会ったはずなのに、なぜかとても懐かしい感じがしました。しばらく老人を見つめた後、

「ジロウが死んじまった。」

と言いました。

老人が誰なのかは知りませんが、とにかく誰でも良いので話を聞いてほしい、という気持ちもありました。同時に、不思議とこの人になら何でも話せる、と強く感じるものがありました。

それから、老人に向かって、ジロウとは生まれたときからずっと一緒だったことや、いかに大切な存在であるかということを、泣きながら一生懸命話しました。老人は不思議なことに、それほど驚きもしないで話を聞いていました。まるで、少年の話す内容をすべてとうに承知しているかのように。そして終いに、老人はこう言いました。

「生き物にはそれぞれ、与えられた寿命があるのだよ。生きられる期間がどれだけなのかは、誰にも分からない。まして、聞けば君の犬は、十七年も生きたのだろう? 大往生だよ。けれど、肝心なのは生きる時間の長さではない。大切なのは、いかに楽しんで――または苦しんでもいいが――濃い、充実したときを過ごすか、ということだ。

君の犬は君に生涯愛されて、楽しい思いをたくさんしたはずだ。

幸せだったんだよ。

君と過ごした十七年間は、犬くんにとってはかけがえのない宝なんだ。

君が旅に出るとき、迷わずついてきたんだろう? 年老いて、体はきつかったはずだ。それでもジロウは、君と一緒に来ることを選んだ。最後の最後まで、幸せだっただろうな。」

老人の一言一言は、すべてワクの心にすとんと違和感なく入って来ました。

ワクは改めてジロウを抱き締めました。もう泣いてはいませんでした。

しばらくして顔を上げると、老人の姿はもうどこにも見えませんでした。身を隠せるようなところもないような一本道なのに、一体どこへ行ってしまったのでしょう。もしかすると、夢だったのでしょうか。


その晩は、その場でジロウを抱いたまま、一晩中うつらうつらとして過ごしました。

夜明けの光とともに、ワクは近くの小高い丘に登り、ジロウを丁寧に埋葬して、大きめの石と、近くで摘んだ菜の花を上に置きました。その際に、ジロウの首についていた革の首輪を外し、自分の荷物袋につけました。それはワクの父親が以前、ジロウのために作ったものでした。

朝の光が射す中、かなり長い間、目をつぶって手を合わせていたワクは、やがてすっくと立ち上がりました。

そう、ワク少年には目指す場所があるのです。ここにいつまでもいるわけにはいきません。ジロウも分かってくれることでしょう。

少年は、泣き腫らした瞼と、涙の跡で汚れた頬をそのままに、振り返らず歩き出しました。

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