第2話 少年と老人(一)
馴染み深い町並みを抜けるまでの間、いろんな人に声をかけられました。
「よう、ワク、どこへ行くんだい?」
「やあ、旅に出ることにしたんだ。」
「そうかそうか、お前さんもそんな歳になったか。するとガクさんがさぞかし淋しがっていることじゃろう。どれ、今夜あたり、賑やかしに行ってやろうかな。」
あるおじさんはそんなことを言いました。聞いたところによると、そのおじさんの息子も、つい先日、巣立っていったばかりだったのです。
何人かの友人や、幼馴染の家にも寄りました。
まだ巣立ちの目処がたっていない者や、自分は家に残ると決めた者は、皆一様に羨ましそうな顔をしました。そして、眩しげに目を細めて、
「おめでとう。」
と言ってくれました。
そうこうしているうちに、少年と犬は、町外れに出て、建物はめっきり減りました。郊外の自然豊かな風景の中を、次の町を目指して進みます。
ワクは、黄色い菜の花と白いひなぎくが咲き並ぶ小川の土手を、大手を振り、胸を張って歩いています。山も、その形の良い姿を、遥か遠くに小さく蒼く見せています。空気が少し埃っぽいものの、空は高く高く澄んで、風は頬に心地よく当たります。お日様の光は地上のあらゆる面に降り注いで、目に入るものすべてが輝いています。
季節は春、真っ盛り。そして少年は若い。自分の体に力がみなぎり、何だって出来るぞという自信、万能感に彼は満たされていました。
途中ですれ違った女の人に、ワクは声を掛けてみました。
「やあ、こんにちは!」
「こんにちは。お坊っちゃん、どこへ行くの?」
「俺、お坊っちゃんじゃねえよ。もう十七だもの。」
「おや、これは失礼。じゃあ、大きいお坊っちゃん。お遣いかい?」
「ちぇっ。俺は、父ちゃんの家から巣立って、旅に出たんだ。」
ワク少年は誇らしげに答えます。
「ああ、そうだったの。偉いのねぇ。」
ワクは、この婦人の、自分をあくまでも子供扱いする態度が不満でした。
「あの山の向こうの楽園へ行って、それから父ちゃんを迎えに来るんだ。楽園で父ちゃんに楽をさせてやるんだ。」
「まあ、山へ。最近、目指す人が増えているそうね。気を付けてね。無事に帰ってきたという人の話を聞いたことがないからね。」
「そりゃ、楽園だもの。誰も帰って来たくなんてないんだよ。俺は特別さ。父ちゃんと約束したんだから。」
「そう。とにかく気を付けてお行き。」
「ああ、ありがとう!」
ワクは胸を張り、満面の笑みでそう答えました。
その後も、道行く人ひとりひとりに声をかけるワク。
「こんにちは、いい天気ですね!」
「やあ、旅に出るんだ。」
気持ちよく返事をしてくれる人。少々戸惑ったように小さく返事を返してくる人。さまざまですが、ワクは会う人みんなに声をかけました。しまいには、菜の花にとまっているモンシロチョウにまで、声をかける始末です。
「やあ、こんにちは!」
そうせずにはいられなかったのです。なにしろ、胸はワクワクし通しでしたから。
やがて、彼らの行く道沿いに、少しずつ建物が増えてきました。どうやら、次の町の入口あたりまでやって来たようです。
「わあ! 見てみろよ、ジロウ。」
ワクにとっては、生まれて初めて見る、故郷の町以外の町です。歩を進めるにつれて、さらに家屋は数多くなります。このあたりが町の中心でしょうか。ワクの故郷の町よりは、規模が幾分大きいようです。
旅をする以上、野宿は避けられません。ワクもいずれ近いうちに野宿に挑戦するつもりではいましたが、今日はさしあたり、町中の宿屋に泊まるつもりでした。でも、その前に――。
(前から入ってみたかったところがあるんだ。)
ワクは心の中でそう思いました。それは、茶店です。
故郷の町の茶店には何度も入ったことがあります。別に子供は立入禁止なわけではないのですが、これまではいつも父親と一緒でした。ワクには、一人で入ることが、なんだか大人になった証のように思えました。
最初に目に入った茶店の、屋外の席に、そっと腰を掛けてみます。ワクの席のすぐ近くには、せっせと団子を焼いている、恰幅のいい、頭の少々薄い主人がいます。
すぐ横に座った男性が、主人に叫びます。
「おやっさん、冷やし饅頭ひとつね!」
「はい、まいど!」
そんな自然なやりとりをしようと思うと、かえって緊張してしまうワクでした。
「す、すいません、あの…。」
主人は、聞こえなかったのか、こちらを向いてくれません。
「すいません!」
「あ、はい。おお、坊っちゃん、何にしようか?」
ワクはここではさすがに、坊っちゃんではない、と言い返す勇気はありませんでしたので、その点は受け流し、
「ひ、冷やし饅頭ひとつ…ね。」
と言いました。
主人は、可愛い子供だ、とでも言うように、にっと笑うと、
「へい、まいど!」
と威勢よく答えてくれました。ワクは大満悦でした。
ワク少年は、主人から手渡された冷やし饅頭をほおばりながら、周囲を見渡してみました。老若男女、いろんな人たちが楽しそうに談笑しています。茶店は町民の社交場、人々の一番の楽しみの場、といったところでした。
小さな子供を連れた親子連れ、一人で座っているご隠居風の老人、女性ばかりの友人同士と思われる三人組、何やら紙に書きつけたものを真剣に読んでいる男性もいます。みんなが、その場を楽しんでいる様子でした。
向こうに座っている中年の夫婦らしい男女は、なにやら口論を始めています。
「…大変なんだから。あんた、ちょっとは考えたらどうなのよ!」
「なんだと! 俺は忙しいんだよ。子供のことはお前の仕事だろうがよ!」
あちらの親子連れは、終始笑顔で、幼子の話をうん、うんと聞いています。
「あのねー、よっちゃんねー、あのねー…。」
きっとようやく話ができるようになったばかりなのでしょう。内容はよく聞き取れませんが、両親は揃って、幸せそうな顔をしています。
すると、先ほどの夫婦は喧嘩がおさまったらしく、仲良く腕を組んで店を出ていきます。
(あれま、さっきの喧嘩は何だったんだ? でもみんな楽しそうだな。)
ワクは自然と笑顔が浮かんできました。
「なあ、ジロウ。」
足元のジロウに、饅頭を少し手でちぎって与えます。
「クウン。」
ジロウは饅頭を二、三度、ワクの手ごと舐めて、それきり食べようとはしませんでした。
茶店で大人気分を満喫したワクは、ジロウを連れて往来に出ました。
町並みのあちらこちらにきょろきょろと目をやり、時々立ち止まりながら、ワクは進みます。
通りには、さまざまな人が行き交っています。急ぎ足の人、立ち止まって空を見上げる人、お互いの顔を見てげらげら笑い合う若い二人組、なぜだかニヤニヤしている人、道端にしゃがみこんだ老人と話している中年女性――なんだかみんな楽しそうです。
ワクには、春の暖かい陽射しの中で、みんなが輝いているように見えました。
さらに行くと、宿屋が見えてきました。
「ごめんください!」
「はいー!」
奥から女性が出てきます。
「今晩、部屋はありますか?」
「はい、ありますとも。何名様で? 坊っちゃん、ご両親と一緒?」
「いいや、俺ひとりだよ。」
「あらそうでしたか。失礼しました。よござんす。一人にちょうど良い部屋をご用意いたしましょう。」
「あの…犬は?」
「犬?」
「ああ、一緒に旅をしている親友なんだ。」
「ほっ。親友、ねぇ。」
女性は少々呆れたような、それでいて同情するような顔で、ワクとジロウを見比べます。
「ぼく、犬は宿屋には泊まれないのよ。」
「え? じゃ、どうしたら…?」
「まあ、動物を連れている旅の人は、野宿をすることが多いけどねぇ。ぼく、野宿はしたことあるの?」
「いや、まだだけど…。でも、やればできるさ!」
「まあいいさ。今夜はおばさんが何とかしたげるよ。」
「何とかって?」
「外にこの子の寝場所を作ったげる。」
「本当? ありがとう、おばさん!」
「いいや、でも、今後のことは考えないとね。」
「うん。」
女性は、宿屋の建物の裏に隣接している小屋の一角に、藁を敷いて小さな寝床を作ってくれました。
「今夜はここで大人しくおしよ。」
ワクが自分の部屋へ入って行こうとするとき、ジロウは一瞬、とても不安そうな顔をしました。
「じゃ、ジロウ、また明日の朝な。ここでゆっくり休んで疲れを取るんだぞ。」
「クウン。」
ジロウは、ワクが入って行った裏戸口を、その後も長い間、じっと見つめていました。
翌朝。
ワクは引き続き、ワクワク気分で宿をあとにします。
今日も天気は上々。朝の光が燦燦と降り注ぎます。
「さあジロウ、行こうか!」
「クウン」
ジロウは、ひとりにされた昨夜の不安感から解放され、ほっとしているようでもありましたが、それ以上に、疲れた様子でした。が、ワクはそのことに気づいていませんでした。
(野宿、か。)
ワクの頭には、昨日、宿屋の女将に言われた言葉が残っていました。
――動物を連れている旅の人は、野宿をすることが多いけどねぇ。――
(そうだよな。よし、今夜は野宿だ! それならジロウと一緒に寝られるしな。これからだってその方がいいんだから。)
そう決心すると、ワクはまた一段とワクワクしてきました。
ワクは午前中いっぱい、町中をうろうろと見て回りました。太陽が頭の真上に来た頃、ようやく町中の見物にきりをつけ、町はずれに出ました。道端の長いすに座って、宿で持たせてもらったおにぎりを、ジロウと一緒に食べ、それからジロウと二人でてくてくと歩きます。
ワクは、今夜の野宿のことを考え始めました。さすがに楽天的な彼も、何かしら準備がいるだろうとは思いましたが、何しろ初めてですので、想像の域を出ません。
(寝るのは草の上でいいや。ええと、食べるものが欲しいな。それと…焚火をするんだよな。)
焚火は木を拾ってきて、石で火を起こせばよいでしょう。食べ物は、魚を釣ることにしよう。
幸い、近くに川が見えてきました。ワクは釣りをしようとして、釣り竿も餌も何もないことに、今さらながら気づきました。
少し離れたところに林で、ちょうどよさそうな枝を拾い、手持ちの糸をつけ、餌として、土を掘ってミミズを採り――。意外に手間と時間がかかります。
釣れた魚の入れ物も必要です。今回は荷物袋にそのまま入れてしまうことにして、近いうちに町中で袋を買おうと思いました。
苦労して三匹ほど魚が釣れた時点で、そろそろ夕暮れが迫りつつありました。今度は、寝る場所を探さなければなりません。
幸い、道端から少しだけ引っ込んだところに、小さな木立があります。地面は緑の下草で覆われて、寝るにはちょうどよさそうです。ワクはその木立の一番端のあたりに寝ることを心に決め、薪を拾いに行きます。
「お前はここで待っていろよ。」
「クウン。」
ジロウを置いて、木立の奥の方角へ少し分け入って行き、枝を両手いっぱいに拾って、ジロウのもとへ戻りました。
「さあ、これで暖かい火を起こしてやるぞ! 見てろよ!」
ワクは勢い込んで、あたりの石を二つ拾い、お互いに打ち付けます。
カチッ、カチッ。
「これで火がつくんだぞ。これで…火が…つかないな。おかしいなあ。」
ワクは何度も打ち付けてみますが、かろうじて小さな火花は散るものの、火はつきません。
「ちぇっ、おかしいな。」
火がつかないことには焚火ができません。春とはいえ、夜は少々肌寒いですし、第一、魚が焼けません。
そうこうしているうちに、あたりはかなり薄暗くなってきました。じきに真っ暗になります。ワクは焦りを感じました。
そこへ――。
キーッ、キーッ!
クウオーン、クウオーン!
得体の知れない鳴き声が聞こえてきます。ワクは思わず動きを止めて、緊張しながら耳をそばだてました。
ドキドキドキドキ――。
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