ワクのものがたり ~遥かなる山の向こうに~

奥野森路

第一部 憧れは山の彼方に

第1話 旅立ち

少年は十七歳。

やんちゃそうなキラキラ光る瞳に、意志の強そうな眉と口元は父親ゆずり。しなやかで健康な体には、エネルギーが満ち溢れていました。

生まれたときから、親であり一番の友達でもあった父親が、その日、少年に言いました。

「お前ももう大きくなった。自分の今後を決めなさい。自分のやりたいことをよく考えて、な。」


少年の名前は、ワクといいます。

少々珍しい名前ですが、祖父のラク、父のガクとお揃いであると同時に、何事にもワクワクしながら取り組めるように、との願いを込めてつけられた名前でした。

母親は、ワク少年が生まれた直後に亡くなり、彼の日常の世話は、半分、近所に住む祖母が担ってくれました。その祖母も数年前に亡くなり、今は父親との二人暮らしです。


次の日、近所の親しいおじさんが訪ねてきたとき、言いました。

「そうか、お前もそんな歳になったのか。」

「うん。三日で考えろってさ。ああ、どうしようかなー、俺。」

少年は、あっけらかんとそんなことを言います。両手を頭の後ろで組み、ワクワクした表情で天井を見上げながら。

「こればかりは、自分で決めることだからな。俺も、お前の父ちゃんも、そうして来た。」

「どこの家でもそうなの?」

「ああ、だいたいどこでも似たりよったりだ。で、お前の父ちゃんは木工職人を選んだ。俺は大工になることにして、お前の爺ちゃんに弟子入りした。」

「うん。」

ワクはこれまで、自分も大きくなったら大工か木工職人か、それに似た仕事をすることになるのかな、とぼんやり考えていました。今でも、そういう方面でどこかに弟子入りすることを考えると、それはそれで胸が躍ります。が、いざ決めるとなると、そう簡単には答えが出ません。本当にそれでいいのだろうか――。

というのも、ワク少年にはもうひとつ、心を捉えて離さない魅力的な考えがあったからです。

ワクは迷いますが、その迷いさえもやはり、ワクワクの種なのでした。


翌日。

ワクは、従兄弟のイサクと仲良く小川の川べりに並んで座り、釣り糸を垂れています。

真っ青に晴れ上がった空。白い雲。樹々の緑。川べりには、菜の花がいっぱいに並んで咲いています。花と花との間をモンシロチョウが飛び回ります。

頬にあたる風が心地よい、そんな春の日でした。

ワクの隣には、一匹の白い柴犬がうずくまっています。少年と同じ年に生まれて、これまでずっと少年と一緒に暮らしてきたのジロウです。少年と同じ十七歳なので、かなりのお爺さん犬です。そのジロウは、さっきからワクの浮きがピクピクと動くたびに顔を上げますが、それ以外は大儀そうに前脚に頭を乗せ、目をつぶっています。

「それでお前、どうするんだ?」

「まだ分からねえ。」

「三日間で決めるんだろ?」

「ああ。…でも、山へ行こうかな、と思ってる。」

「山か。昔から目指す人はいたらしいけど、最近は特に流行っているらしいな。…叔父さんみたいに、木工の職人とか、やらねえのか?」

「うん。やるなら大工かな。」

「なんで?」

「高いところが好きだから。」

「なんだそれ? そんな理由かよ。」

イサクは呆れ顔です。

「ああ。」

とワクは笑って、

「でも俺、何でか分かんねえけど、山に惹かれるんだ。小さい頃から憧れている。」

「え、まさかそれも、高いところが好きだからか?」

「違うよ。」

「山の向こうには楽園がある、って言われているからだろう?」

「ああ、まあな。」

それからしばらく、二人は無言でした。イサクは何かを考えこんでいるのかと思いきや、一言ぽつりと、

「しかし、釣れねえな。」

とぼやきました。

やがて日が暮れかかり、ワクが、

「そろそろ帰ろうか。」

と言うと、イサクはあからさまに元気がなくなりました。魚が一匹も釣れていなかったからです。ワクは、元気をなくした従兄弟に言いました。

「これ、やるよ。」

自分のバケツの魚を指さします。彼だって、この一匹しか釣れていないのですが。この従兄弟の家では、魚を釣らずに帰るとひどく叱られることを知っていたからです。

「え? いや、悪いよ。」

「いいよ。」

「悪いな。」

イサクは努めて何気ない顔をしようとしていますが、明らかに安堵している様子でした。

「ただいま!」

「おう、お帰り。」

帰宅すると、父親は木を削る手を止め、ワクのバケツをのぞき込みに来ました。バケツが空なのを見て取ると、

「なんだ、一匹も釣れなかったのか?」

笑いながら言いました。

ワクは、わざわざ本当のことを言うのが照れくさい気持ちでしたので、簡単に、

「うん。」

とだけ言いました。

すると父親は、ワクの顔とバケツを交互に見つめた後、目で笑い、

「違うだろ。」

と言いました。

「釣った魚に逃げられたか…。いや、きっと、一匹も釣れなかったイサクに、お前、自分の釣ったやつをやったんだろう?」

「! なんで分かるんだ?」

「バケツの水が汚れている。いったん魚を入れたようなにごり具合だからな。」

「すごいや。」

「まあ、お前らしいな。」

「ごめん。今晩のおかずが一品減っちゃった。」

「いいさ。その魚は、お前よりもイサクの方が何倍も必要としていたんだ。あいつは今頃、親父に叱られずにすんで、ほっとしているんだろう。お前のしたことは正しい。」

「へへへ。…さあ、じゃ俺、急いで晩飯の支度するよ。」

台所で食事の準備をする息子の、一人前の大人よりはまだ少しだけ華奢な肩を見て、父親は目を細めました。


翌朝は、三日目の朝でした。

ワク少年は、父親に決心を告げました。

「決めたよ。俺、山の向こうの楽園を目指して、旅に出る。」

父親は、一瞬淋しそうな顔をした後、笑顔で言いました。

「そう言うのではないかと思っていたよ。行きなさい。行って大いに楽しんできなさい。お前なら、きっと望むものを見つけられる。」

「向こうで住む場所を見つけたら、きっと迎えに来るよ。待っていて。」

父親はかすかに微笑んだだけで、返事をしませんでした。

それから、少年は、

「ジロウを連れて行ってもいい?」

と父親に尋ねました。

父親は、

「でも…。」

と何か言いかけた後、

「ああ、いいよ。」

とだけ言いました。


旅立ちは一週間後と決めました。

その一週間の間、ワクは、自分の生まれ育った家や周辺の景色の隅から隅までを目に焼き付けるようにしながら過ごしました。

彼の育った町は、小さな町です。家の表玄関を出ると商店街の一角ですが、裏庭へ出ると、田んぼや畑が広がり、さらにその向こうに森や林が広がる、田舎風景でした。その風景の片隅、はるか遠くに小さく、山が見えます。ワクがこれから目指して旅をする、その山です。愛する故郷をあとにする寂寥感に、遥かなる山への憧れによる高揚感が加わり、彼はそわそわと落ち着かない気持ちでした。が、それは決して不快な気持ちではありません。やはり心はワクワクしていました。

「なあ、ジロウ。俺たちはあの山へ行くんだぞ。そして山を越えて、その向こうの楽園へ行くんだ。それはきっと素晴らしいところだぞ。そこで夢のような暮らしをするんだ。楽しみだなあ。」

「クウン。」

ジロウは頭を上げて静かに返事をした後、頭を下げて目をつぶりました。ジロウは歳のせいか、最近はめっきり覇気がなくなっています。

「ちぇっ、こいつ。あんまり楽しみにしてるって感じじゃあないな。」

若さではちきれそうになっているワク少年には、その気持ちはまだまだ分かりませんが、それは無理もないことでした。


一週間後。

少年は旅立ちました。

大好きな父親には、いったん別れを告げますが、楽園を見つけたら帰って来るのです。そして今度は、父親を連れて楽園に移り住むのです。少年の胸は、未来への希望ではちきれんばかりでした。

彼は戸口を出ると、くるりと父親の方へ向き直りました。

「じゃ、行ってくるよ。楽園へ着いて、向こうに住むところを見つけたら迎えにくるから。それまでここで待っていてくれよ。」

父親は無言で、ワクをぎゅっと抱き締めました。

父親が目にうっすらと涙を浮かべていることには、少年は気づきませんでした。これからのことで、胸がいっぱいだったのです。


少年は、期待に胸を膨らませて、家を出ました。足元には、親友でもある愛犬。

季節は春、五月。

ある晴れた日、お日様の光が目に痛いほどに、空気がキラキラ輝いている、そんな日でした。

さあて、ワクワクを見つけに行こうか!

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