第3話 空の花嫁

 それから少しばかり雑談し、セレーネは『そろそろ寝なさい』と妹の背を軽く押した。もう夜遅いと言うのに部屋に帰る気配のない姉の様子に、ステラが不思議そうに振り返る。


「お姉さまはまだ戻りませんの?」


「えぇ、まだ少しお掃除が残っているの」


「今からですか!?もう夜中ですわよ!」


 驚く妹を宥めるように、セレーネはハタキを揺らして軽く笑った。


「大丈夫よ、少しだけだから。それに、明日までに整理が済んでいないと教祖様がお困りになるでしょう?」


 教祖はこのスピカ大聖堂の最高権力者である。不遇なセレーネにも『いつも貴方が頑張っているのはわかっていますよ』と優しい言葉をかけてくれる、理解ある人だ。

 しかしそれをかなり丸くした言葉で伝えれば、ステラはたちまち不機嫌になった。


「お姉さまは騙されてますわ!あいつ悪いやつですわよ!」 


「こらっ、なんてことを言うの!」


 誰かの耳に入ったら叱責だけでは済まないであろう妹の言葉に青ざめたセレーネは慌ててステラの口を押さえた。それから辺りを見回して、人影がない事に安堵する。


「ステラったら、昔からそうやって前触れもなくこういう事を言い出して……。人様を証拠もなく悪し様に言うものではありませんよ。教祖様は立派なお方です」


 だから、大丈夫。渋る妹をそう安心させて、部屋に帰るよう促した。


 父が亡くなったのは物心つく前であった為、ステラは男性と話したことすらほとんど無い。だから男性と言う存在への警戒心が強いのだろう。そう納得しつつ、セレーネは一人書庫へと歩きだした。









 書庫の目と鼻の先は教祖の私室だ、この時間ではもう就寝しているに違いない。だから、極力物音をさせないよう慎重に掃除をしていく。そのせいで余計時間がかかってしまい、普段ならば終わっているであろう時刻に差し掛かったあたりでセレーネの睡魔は限界に達した。

 身体に力が入らず本すら抱えられなくなり、ヨロヨロと床にしゃがみ込む。いつ目を閉じたのかもわからないまま、そこで意識を手放した。


(ーー……っ!いけない、眠ってしまいましたわ。今何時でしょうか……!)


 ほとんど気絶と変わらない形でうたた寝をしたセレーネは、約2時間程した辺りで夜の寒さに叩き起こされた。ハッと覚醒し時計を確かめたセレーネは大慌てで片付けを仕上げたが、部屋に戻ろうとして足を止めてしまう。

 今朝の朝礼にて神父に言われた、『セレーネの深夜帰りで周りが迷惑している』と言う言葉を思い出したのだ。


 そして、この時間に帰ってはまた同室者の迷惑になるだろうと判断したセレーネは、致し方なく勉強部屋の椅子で仮眠を取ることにした。あの辺りならば聖女見習い達の部屋とかなり距離がある為、多少物音がしても大丈夫だろう。

 そう判断し、足音がしないようこっそりと目的地に歩き出す。が、教祖の私室の前を過ぎようとした際、中から話し声がすることに気づいてしまう。そして、耳を掠めたそれが自分と妹の名を呼んでいた為に、つい聞き耳を立ててしまったのだ。


「いよいよ大聖女様の体調が芳しくない。国の安寧の為にも潮時でしょうな……」


「国王陛下、並びに王太子殿下からも、早く次期大聖女を選び王太子妃として公表せよとせっつかれております」


「大聖女は国から逃れられぬよう王族に娶られるのが慣例ですからな、仕方がありますまい」


「となると、空の花嫁も同時に選ばねばなりませんな。大聖女が確定した時点で聖女候補達は解散となってしまいます故」


「そうですな。しかし大聖女に関しては議論する間でもありますまい。現在、容姿、能力、人柄全てに置いてステラの右に出る者は居ないでしょう」


「逆に姉であるセレーネは平均以下で要領も悪く雑用係と化していると言うのに、天も残酷なことをなさいますな。まぁお陰で今年は煩わしい雑務を軒並み任せることが出来て助かっていますよ。劣等生様々ですな」


「いっそ空の花嫁はセレーネにしては如何です、せめて一度位は人の役に立つ役割を与えてやれば多少報われるでしょう」


「同感です。教祖様としてはいかがお考えですかな?」


 自身をせせら笑う声に耐えかね後ずさっていたセレーネの足がその言葉に止まる。しばし考えるような間を置いたあと、聞き慣れた声が淡々と告げた。


「そうだな、良いのでは無いだろうか?」


「おや、よろしいので?教祖様はセレーネを少々気にかけていたように見えましたが」 


「何を馬鹿な事を。使い勝手の良い道具を長持ちさせるには最低限の管理が必要だろう?」


(そんな……、ーっ!いけない……っ!!)


 聞くんでは無かった。そう後悔するより早く、ショックに耐えかねた身体が体勢を崩す。手を着くことすら出来ないままセレーネが倒れたその物音で、下衆な話をしていた聖職者達が教祖の部屋から出て来てしまった。 

 面食らった様子の彼等を倒れたまま見上げ、セレーネはその虚ろな眼差しを年若い教祖へと移す。

 そんなセレーネを見据え、教祖はその麗しい相貌に似つかわしくない冷たい笑みを浮かべた。


「おやおや、深夜徘徊に上官の会話を盗み聞きとは、いけない娘だ」


「違、教祖様、私はただ、お掃除、を……」


「それは単に君の存在意義がその程度だから雑務しかやらされないんだよ。気づいていたかい?どんなに努力していようが座学だけ成績が良かろうが、君にはそれ以前にあまりにも役立たずでどうしようもない面が多過ぎるんだ。あり過ぎて指摘する気も起きない」


 その心無い物言いに、かろうじて絞り出していた抵抗の声も、弱りきっていた心までも握りつぶされた。

 音もなく涙を流すセレーネに、不自然なまでに笑ったまま教祖は続ける。


「現に、君が努力している面を知っている人間すら君を優遇はしてくれないだろう?セレーネ、それが答えだよ。神がお決めになったんだ。君は生粋の役立たずだとね」


 冷笑に似合わぬ穏やかな声で、教祖はどこまでもセレーネの心を痛めつけていく。冷たい手が、涙で濡れたセレーネの頬を覆った。


「だが安心しなさい。存在自体が迷惑でしかないまま逝くのは可哀想だからね。最期の慈悲に我々が君に役割を与えようじゃないか。連れて行け」


 その教祖の言葉で、控えていた小間使いの女性達が暗い表情でセレーネを囲う。彼女達の腕にある教会の紋章が刺繍された純白の装束に、死にかけていた思考が一気に覚醒した。


「お止め下さい……っ!空の花嫁の選定には任命式と儀式前の禊が必要な筈です。それをこんな……っ!!」


 抵抗虚しく、セレーネは上着を脱がされ、元から纏っていた修道着の上から花嫁装束を羽織らされてしまった。そのまま手足も拘束され、数人がかりで抱えあげられる。


「嫌です、離してください!せめて、せめて行く前に妹に会わせて……ーっ!」


 ガンっと、鈍い音と共にセレーネの抵抗が止んだ。セレーネの唇からついた血が滲む手をスカーフで拭い、教祖が囁く。


「妹は君と違い、この国で最も高貴な方から必要とされている。案じずとも幸せになれるさ。君が、余計な真似さえしなければね?」


 妹の幸せを願うなら、大人しく生贄となれ。


 その脅しに今度こそ動かなくなったセレーネは物のように馬車で運ばれ、国境の山岳の廃教会へと放り込まれたのだった。

 






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