37・危機
王子ムスタファに抱えられて城内移動。
これはまた噂の的になると思ったけれど、予想に反してそれほど騒がれなかった。
翌朝戦々恐々の思いで食堂に行ったけど、杞憂だったのだ。クローエさんによると侍女たちは『またムスタファ殿下の暴走か』と思っているらしい。
侍女たちに囲まれはしたけれど、
「マリエット。いい加減にムスタファ殿下に愛されていると認めなさい」
と諭されておしまい。
なんというか、私は侍女たちに受け入れられている気がする。ゲームだったら苛められているはずなのに。それとも私が王子の恋人となったと知られたら、掌を返されるのだろうか。
パウリーネ妃は、ムスタファが私の魔法指導をオイゲンさんに変えるよう頼んだらあっさり了承したそうだ。彼女は悪気なく口が軽そうだから私たちのことは、瞬く間に城内に知れ渡るだろう。
◇◇
強い日差しのもと、小路を辿り庭師の小屋へ向かう。ずいぶん久しぶりだ。
昼食もそろそろ終わりというころ、食べ終えて立ち上がったカルラ付き侍女が
「しまった!」
と叫んだ。
昼食前に庭師小屋に行ってカルラの部屋に飾る切り花を受けとるはずが、すっかり忘れていたらしい。
彼女は急いでカルラの部屋に戻らなければならないようだったので、私が代わりに庭師小屋に行くと申し出た。午後の最初の予定はカルラとの遊びなのでちょうど良い。
彼女は、庭師小屋周辺は人がいないから私を行かせて大丈夫かと心配してくれたけど、警戒しすぎて侍女としての仕事ができなくなるのは私がイヤだ。用心するからと言って引き受けたのだ。
人の姿のなさにちょっと不安になったものの無事に小屋に着き安堵する。あとは帰りを気を付けるだけ。
「こんにちは」
と、扉を開ける。だけど誰もいない。もう一度こんにちはと声を掛け、床に置かれた水の入った桶に数種類の切り花が浸かっていることに気がついた。すぐそばの台には《カルラ殿下》と書かれたメモがある。
もしかしたらベレノは、侍女が来ないから外仕事に行ってしまったのかもしれない。
それなら花を、と思ったところでパチパチと火がはぜる音が耳に入った。見回すと小屋の奥に小さな暖炉があり、大鍋が火にかかっていた。すぐそばに簡素な木の階段がある。きっと屋根裏が居住スペースだ。
ベレノはそこかなと奥に進む。様々な道具や肥料、土嚢袋、木箱が雑然と置いてある。暖炉脇には大きな水瓶。ちらりと鍋を覗いたら、沼色をしたどろどろだった。食事には見えないから液体肥料でも作っているのかもしれない。
階段下から、
「こんにちは!」
と叫ぶ。手すりすらない階段は一直線で、上の階が少し見える。返事も物音も返って来ない。やはり留守らしい。では花をもらって帰るか。
突然、バタンと音がした。振り返ると開けたままだった扉が閉まっている。風のはずはない。私は何も感じなかった。
と、扉に近い窓に人が現れた。見たことのある令嬢がふたり。私を指差し笑っている。
まさかここで意地悪か。てっきりベレノがいると思っていたから気を抜いてしまっていた。失敗したなと思ったそのとき、令嬢のひとりが両手を指揮者のように動かした。
ガツン!と側頭部に痛みが走る。間髪入れずに背中に。思わずよろける。目に入ったのは、猛スピードで飛んでくる剪定鋏。慌てて避けて尻餅を着く。
窓に目を遣ると、変わらず指揮者の動きをしている令嬢と大笑いをしている令嬢。
なんてことだ私を的に、魔法で物を飛ばしているらしい。
そう考えている間にもシャベルやら肥料やらがぶつかってくる。
どうすると考え、階段を駆け上がる。余程の魔法の使い手でなければ、私の姿が見えなければ的にはできないだろう。
思った通り、上にまでは何も飛んで来ない。だけど彼女たちは諦めきれないのか、階下ではものがぶんぶん飛び交っている。
彼女たちが諦めて去るのを待つのがいいだろうか。
いや、私にはシールド魔法がある。今朝の指導時間では、昨日のことが嘘のように成功の連発だった。しかも張れる時間も伸びた。オイゲンさんには、君の魔法は精神状態にだいぶ左右されるようだねと言われたのだった。
とにかくあれを試すにはいい機会ではないだろうか。ただ魔法が発動するまでの間は攻撃にさらされてしまうのがネックだ。
ガチャン!と響いた音に階下を見遣る。暖炉脇の水瓶が割れていた。流れる出る水。
その水が暖炉に入った途端、大きな炎が上がった。見るみる間に広がる。瓶の中身は水ではなく油だったようだ。火を消さなければ。このままでは火事になる──。
ゾクリと悪寒が走った。
急速に胸が苦しくなる。
体が金縛りにあったかのように動けない。
息が上手く吸えない。
怖い。
私はまた、火事で死ぬ──
逃げなければ。
そう思うのに体が上手く動かない。
動かなければまた死んでしまうと分かっているのに、力が入らず立つことも出来ない。
忘れていたはずの、前世の記憶が生々しくよみがえる。
研修所が火事になったのは、夜だった。酔っぱらって火事に気づかず寝ている人がいるかもしれないと、役職付きが誘導にあたることになった。
私は怖かったのにそれを押し殺して、最上階に行った。
煙と異臭と熱風と。気づけば自分がどの方向に向かって歩いているのか分からなくなった。
苦しくて熱くて、とてつもなく恐ろしかった──
もう、あんな辛いのは嫌だ。
私は木崎の、ムスタファの、そばにいたい。
動かない体を必死に鞭打ち、階段をずるずると這いずるように下る。
最後の数段を落ちて、床に転がる。痛いのかどうかも分からない。早く、逃げなければ──
扉の方を向き、息を飲んだ。既に火が回っている。激しい炎が壁を伝い天井を舐め、扉もごうごうと燃えていた。苦しいのは前世の記憶のせいだけじゃない、煙が立ち込めているからだ。
「木崎……」
嫌だ、死にたくない。ようやく素直になれたのに。好きだと言ってもらえたのに。
これ以上、木崎に心配を掛けたくもない。
逃げるのだ。考えろ。扉。燃えている。他に出口は? 分からない。どうする、どうする。
──窓!
扉近くの窓。火に舐められてはいるけれど、燃えてはいない。あそこから、なんとか。
立て、自分!
恐怖にすくんでいる場合か!
それなのに体は動かない。
「……助けて、木崎」
でもムスタファは出掛けたはずだ。昨日キャンセルしてしまった視察に。だから自分で逃げなければならないのだ。
だけれど恐怖が、私の首を締め上げている。
また死ぬのかもしれない。
そんなのは絶対に嫌だ。あの窓まで行く。火傷をしたって、きっとフェリクスが治してくれる。怖がるな。窓へ──
その窓の向こうに影が見えたと思った瞬間、ガラスを突き破って何かが飛び込んで来た。ごろりと一回転して止まる。
立ち上がり、
「宮本!!」
と叫ぶ。
ムスタファだった。
「宮本!」
ムスタファはすぐに私に気がつき、火の中を駆けよって来る。
「大丈夫か、怪我か」
「分からない。怖くて」
「そうだな」ムスタファは膝をつき、私を抱き寄せる。「安心しろ、俺がいる。絶対に俺が助ける」
「うん」
「外は今、火を消そうとしている。扉も壊す。窓からも出られる」
「うん」
ムスタファの手が私の膝の下に入る。抱き上げてくれるのだ。今度は、助かる。
と、ムスタファが顔を上に向けた。私も見る。
天井全体がメキメキと音を立てて歪んでいた。梁が、折れる──
ムスタファが私に覆い被さった。
やめて、ムスタファが怪我をする!
全身に雷に打たれたかのような衝撃が走る。体が痺れる。ピリピリとした痛み。
──だけどいつまで経っても天井に押し潰されることはなかった。
いつの間にか瞑っていた目を開ける。
「木崎?」
「……ん」
私の上からムスタファが返事をする。
顔を上げる。
私たちの周りには何もない。火も。作業小屋も。青い空のもと遠巻きに、こちらを見ている人々。
「ムスタファ様!」
叫び声と共にヨナスさんが駆けてくる。
何が起こったのか分からないけど、助かったらしい。
ずるりとムスタファが落ちた。
「木崎?」
半身を起こして彼を見るとムスタファは目を閉じてパチパチと明滅する無数の小さな光に覆われていた。
「木崎!」
ムスタファの目が開き、濃い紫色の瞳が私を見る。
「……宮本、大丈夫か」
掠れた声。
「私は大丈夫!」
「……良かった……」
そう言ったムスタファは、再び目を閉じ動かなくなった。
◇◇
服は焼け焦げだらけ、顔も手も無数の傷と煤にまみれたムスタファはピクリとも動かず、担架に乗せられた。
私が見ていたのはそこまでで、気づいたら自室のベッドに寝ていてクローエさんがそばにいた。どうやら私の取り乱しぶりを心配したヨナスさんの依頼で、ヴォイトが魔法で眠らせたらしい。しかもその間に私の傷を女性の上級魔術師が治してくれたという。ぼろぼろの服はクローエさんとロッテンブルクさんが着替えさせてくれたそうだ。
安静にと言われたけれど振り切ってムスタファの部屋に行くと、何人もの上級魔術師や医師、侍従、近衛でいっぱいだった。ヨナスさんがムスタファのガウンを私に掛け、枕元に通してくれる。
ムスタファは脈が弱く、何をしても回復しないという。見た目の傷と火傷はなくなっていたけど、無数の小さな光の明滅にはまだ覆われていて、彼に触れるとパチパチと静電気のような痺れが起こった。
魔術師たちの見立てでは、ムスタファにはなかったはずの魔力が暴発して作業小屋を跡形もなく消し去り、ムスタファ自身は魔力を急激に大量消費したことによる瀕死状態に陥っているという。光の明滅は、ムスタファから流れ出る魔力が何かしらの反応を起こしていると考えられるとかなんとか。彼らにもはっきりとは分からないらしい。
一通りの説明が終わるとヨナスさんが、
「マリエットはまず服を着てきなさい。そんな寝巻き姿でうろうろしているのをムスタファ様が知ったら怒ること間違いなしだ」と言った。
「僕が連れて行きます」と出てきたのはレオンだった。
「頼むよ」とヨナスさん。
クローエさんもいたけれど、レオンに促されて部屋を出た。さっきは気づかなかったが、廊下には多くの人がいた。侍従侍女だけでなく貴族たちの姿もある。だけど近衛が数人立って、ムスタファの部屋に近づかせないようにしている。
「事件の全貌が分からないので、ムスタファ殿下とあなたを警護しています。後程聴取があるでしょう」
レオンの言葉にうなずいた。
すぐに私の部屋に着く。扉を開くレオン。私、クローエさんを通すと、自分も中に入った。クローエさんがちょっと、と抗議するのをレオンは手で制す。
「先輩がちょうど馬車に乗ったところで、そのブルーサファイアが光ったんです」
レオンの視線を辿り胸元を見ると、ムスタファが『防犯ブザー』と呼んだペンダントがあった。すっかり忘れていた。これのおかげで彼は私を助けに来て──。
「一緒にあなたを探し、庭師小屋が火事になっているのをみつけて」と言ったレオンはゴクリと唾を飲みこんだ。「僕は恐怖で動けなくなった。綾瀬として死んだときを思い出したんです。怖くて声すら出なかった。多分先輩も、です。だけど彼は自分で自分の両頬に張り手を食らわせると燃える小屋に突進した」
木崎……。涙が出そうになるけど、踏ん張る。今は泣くときじゃない。
「気をしっかり保って下さい、マリエット。先輩が目覚めたときに不安にならないように」
「分かった。ありがと」
綾瀬の言う通りだ。ムスタファが起きたときに私が憔悴していたら、心配することだろう。
「大丈夫」とレオン。「先輩は同じ失敗は二度しないと常日頃から言っていたし、実際にそうでした。前世と同じ幕の閉じ方はしないでしょう」
「うん」
目がじわりとする。
不吉な言葉を避けてくれた綾瀬の気遣いも胸にくるものがある。
──やっぱりダメだ。
レオンとクローエさんに一言謝ると床に膝をついて頭を布団に突っ込んだ。泣くところは誰にも見られたくない。
自分の不甲斐なさが情けなかった。
◇◇
着替えて髪もいつも通りに結い上げてムスタファの部屋に戻ると、ちょうどロッテンブルクさんも来たところだった。私を見た瞬間顔をくしゃりとさせ、けれどすぐに普段の表情に戻り、
「無事で良かったです」
と言った。その声がわずかに震えていたから、相当心配してくれていたのだろう。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
それからムスタファがいつも座っている長椅子で聴取が始まったのだけど、近衛総隊長や侍従長だけでなく、初めて会う伯爵や子爵、フーラウムの近侍にエルノー公爵の遣いという人物もいた。彼らの微に入り細を穿つ質問に答えているうちに今回のことが、私を囮に使った第一王子暗殺未遂ではないかと考えられていることに気づいた。だからムスタファの寝室の中にまで近衛がいるらしい。
返答には細心の注意を払った。下手をしたらカルラの侍女におかしな疑いがかかってしまう。
すべての質問が終わりお偉方が帰ると、ロッテンブルクさんやヨナスさんが労ってくれた。そして、私は第一王子専属だから彼が目覚めるまで看病するようにとの指示が下った。ありがたさに胸がいっぱいになる。
侍女頭がカルラの侍女が申し訳ないと泣いているというので伝言を頼み、ムスタファの看病に集中させてもらう。
居並ぶ近衛たちを見回すと、いつの間にかレオンがいなくなっていた。
静かに眠るムスタファの枕元にヨナスさんと並んで座る。やや離れたところに医師と上級魔術師がひとりずつ待機し、警護の近衛が廊下側と続き部屋側にふたりずつ立っている。見覚えのある顔だし、先ほどレオンもいたからカールハインツ隊だろう。
ヨナスさんの話では、聴取に立ち会った伯爵と子爵が事件直後に暗殺説を唱えたそうだ。健康に問題がある国王が急逝したら、法律に則る限り次の王はムスタファになる。しかもムスタファは近頃王子として人望を集めている。だから反ムスタファ派が暗殺を図ったのだ、と。
反ムスタファ派なんて裏を返せばバルナバス派で、つまりは宰相ベーデガーを犯人と糾弾していることになる。
どうやら国王と宰相の強権に嫌気がさしている一派がいるらしい。近衛がいるのでヨナスさんはぼやかして話したけど、国費の横領の件でエルノー公爵はこの一派を動かすつもりのようだ。
「でもそんなに複雑な話ではありません。私への苛めが大事になってしまっただけで」
ヨナスさんがうなずく。
「あのムスタファ様が燃え盛る小屋に飛び込むなんて誰が考える。しかも窓から。止める間もなかった」
「すみません。私の用心が足りませんでした」
「仕事をやりつつ今以上に用心するとしたら護衛をつけるしかない」
だけど、と思う。カールハインツルートでは苛めで部屋に閉じ込められることがある。ムスタファルートでもあるかもしれないと考えておくべきだったのだ。
「レオンまで疑われてしまってね」
ヨナスさんの言葉に目を上げる。
「防犯用の宝石。総隊長がこれが利用されたのではと言い出した」
「私もこの存在を誰かに話したか問われました。誰にも伝えていませんけど」
「これを知っているのは私たち三人以外ではヒュッポネン殿とレオン、フェリクス殿下たちだけだ」
背中を冷たい汗が流れた。レオンの姿が見えないのは、そのせいなのか。
「多分レオンとヒュッポネン殿も聴取を受けている。だが問題はないはずだ。令嬢たちに話を聞けば疑いは晴れる。ベレノも庭師小屋のほうから慌てて走り去る女性ふたりを見たと証言している。すぐに君を見つけられたのも幸運が重なったのと、ムスタファ様の執念からだ」
静かに眠っているムスタファを見る。顔に血の気はなく呼吸も気をつけて見なければ分からないほどだ。
立ち上がり手を伸ばして頬に触れるとパチリとした。静電気のような感覚。
「この状態でケガを治せたのですか」
「ああ。魔法は効くし、多分だがムスタファ様への影響もないようだ。ただ上級魔術師たちでも初めて目にするケースだから、実際にそうなのかは確信が持てないそうだ」
「フェリクス殿下は? 彼なら何かご存知では!」
良いアイディアと思ったのだが、ヨナスさんは首を横に振った。
「暗殺未遂の可能性があるゆえ他国の王族は会わせてはならないとのお達しだ」
「そんな」
フェリクスとは親友になれそうな仲であるのに。
ヨナスさんとみつめあう。多分お互いに言いたいことは同じだ。
──ムスタファは魔王化なしで魔力を得ることができたのではないか。
だけれど近衛たちがいるから口にはできない。
今度は側頭部を撫でてみる。パチリとして指が痺れる。角が髪に隠れているということもなさそうだ。
さすが木崎。見事に目標達成だ。きっと必死に重ねた努力が実ったのだ。
枕に流れる髪を指でたどると、パチパチが続く。
私は木崎を信じている。すぐに目を開いて起き上がり、
「お前、泣いているのか」と嘲笑う。
絶対に絶対にそうなるはずだ。
だけど私にできることがあるなら、何でもしたい。
「ヨナスさん。ひとつ試したいことがあるのです」
「どうぞ」
ヨナスさんはそれが何かも訊かずに承諾した。近衛の視線が気になるけれど、構っていられない。腰を折り、眠るムスタファの唇に自分のそれを重ねる。パチリとして痺れる。でも、そんなこと──。
離れて様子を見る。
何も変わらない。
「……お姫様は王子のキスで目覚めるものなんです」声が震える。「でもダメみたいです。反対だからか、私がお姫様ではないからなのか」
「おかしいですね。飛び起きて喜びそうなのに」
ヨナスさんの手が背中を撫でる。
「あなたを二度と泣かせないと誓ったばかりでこれとは、困った方です」
そう言うヨナスさんの声も震えていた。
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