35・暴発
ムスタファの結婚話は、浮上したとき同様に唐突に立ち消えた。あちらの使者が、やっぱりムスタファよりも優秀なバルナバスを欲しいと言い出したらしい。フーラウムは拒否し、使者は失意のまま城を去ったそうだ。
なんだか腑に落ちない話だけど、助かった。
「……マリエット。……マリエット」
名前が呼ばれている。
はっとして顔を上げると向かいに座っているクローエさんと目が合った。
「食べないの?」と訊かれる。
「食べます、もちろん」
慌てて手にしていたパンを口に放り込む。
侍女専用食堂。お昼ご飯。
「ぼんやりし過ぎ」と、右となりの侍女もキツメの口調で言う。
「すみません」
「体調が悪いなら休みなさいよ。迷惑だから」
「悪くないです……」
と答えて、はたと気づく。これはもしや、ツンデレで労ってくれているのかな。彼女を見るとそっぽを向かれてしまった。
「魔法の練習に根を詰めすぎているとリーゼルが話していたわね」とクローエさん。
「早く習得したくて。ちょっと魔力不足で疲れているのかもしれません。心配かけてごめんなさい」
「ほどほどにしなさいよ。侍女の仕事のほうが重要でしょ」ととなりの侍女。「あなたが倒れでもしたら、殿下が大騒ぎしそうだから気を付けてよ」
「私は倒れないし、殿下も騒がないですよ。でもありがとうございます」
彼女はふんっと鼻を鳴らした。
私の向かいではクローエさんが微妙な表情をしている。彼女は近頃、よく話しかけてきてくれる。落ち着いた雰囲気の良い人だなと思っていたら、なんと、ヨナスさんの恋人だった。
最近クローエという侍女が仲良くしてくれているとムスタファの私室で話していたら、ヨナスさんがさらりと
「私の恋人です」
と言ったのだ。
隠してはないけど、わざわざ他言もしないというスタンスを貫いているらしい。
今まで彼女はヨナスさんに『マリエットを遠くから見守ってやってあげて』と頼まれていたので、そうしてくれていたそうだ。
それが最近、ルーチェがいなくなった私があんまり淋しそうにしているから、そばにいてくれることにしたらしい。ありがたい。けど、そんなに態度に出ていたかな。
まさか木崎の差し金ではと考えたけど、ちがうらしい。
ちなみに彼女は二十五歳で勤続十年。ヨナスさんよりも王宮生活が長いそうだ。
そんなベテランクローエさんと話をしていると、
「ねえ、聞いた?陛下の体調がだいぶ悪いらしいよ」
という声が耳に入った。
左となりの侍女がその前の侍女に話しかけたようだ。
「どこかが痛いとかではないらしいのだけど、とにかく体がダルくてここ数日は毎日一度、上級魔術師が体力回復の魔法をかけているんだって」
「本当?」
「ホント、ホント」
「それ、私も聞いた!」と、別の侍女が会話に入る。
確かに、ヨナスさんも陛下の体調が芳しくないと言っていた。その時に、不死でも病気になるのだろうかと疑問を感じたたのだった。
侍女たちは楽しそうに、こんな状況なのに王太子を決めないのかななんて話している。
木崎はあの日以来、私室以外での私への態度に細心の注意を払っている。今さら王宮中に広まった噂を消すことはできないけど、これ以上の誤解を生まないようにするためだそうだ。
『ムスタファ様は君をものすごく心配しているんだよ』なんてヨナスさんは言う。でも木崎は私の前ではいつも通りだ。口も悪いし、すぐに喪女だからと見下してくる。そういうときのムスタファは、すごくイヤなヤツだ。
そう。木崎だろうがムスタファだろうが、たまに良いところがあっても基本はイヤなヤツ。──よし。
考えたくないことを頭から追い出し気合いを入れると、
「ごちそうさま」と言ってから立ち上がる。
「あら、ちょうど」と左となりの侍女が視線で私を促した。見れば食堂の入り口から綾瀬のレオンが覗いていた。私と目が合うと笑顔になって、
「これから魔法指導ですよね。送ります!」と叫ぶ。
クローエさんに挨拶をして席を離れる。
そういえば最近、四股五股と言われなくなった。世間では『ムスタファ殿下のマリエット』が一般的な説になったかららしい。フェリクスは最近リーゼルとのカップリングで噂されているし、バルナバスにはあまり会わなくなった。カールハインツは毎日会っているけど、特に何も噂されない。レオンに至っては『恋を諦めきれない可哀想な人』扱いだ。
廊下に出ると当のレオンが見えないしっぽをぶんぶん振って待っていた。
「リーゼルは後から広場に行くそうです」
とレオンが言う。今日の魔法指導の付き添いは彼女だ。
「だから僕が広場まで送ります」
廊下を並んで歩きながら、
「まさか、今まで?」とレオンに尋ねる。
王子ムスタファの公式予定だと、午前はレオンによる剣術稽古になっている。そのあとの非公式予定は、こっそり礼拝堂地下探険だ。
「ええ。ダンジョンみたいで、ついつい長引いてしまいました」
レオンが少年みたいな顔になる。地下世界はゲーム好きにはたまらない雰囲気、ということかな。
みんなで礼拝堂探検をしたのは十日ほど前だ。あれ以来フェリクスとリーゼルが頻繁に入って結界や、その他の場所の調査をしている。そしてフェリクスから、ムスタファをはじめとした他の面々は勝手に入るなと厳命されている。必ず自分たちか上級魔術師と共に、ひとりでは何があろうとも絶対ダメ、と。どんな罠があるか分からないからだそうだ。
「先輩も探険を楽しんでいましたよ」
「それは良かった」
「残念ながら目新しい発見はなかったですけどね」
「そうなんだ」
「ところでマリエット。隊長にもらったお守りを失くしていたんですね」
驚いてレオンを見る。そのことは秘密にしてもらっているはずなのだけど。
「見つかりましたよ」とレオン。「探険のあとに殿下のお部屋に行ったんです。地図に書き加えるから」
地図とは地下の見取り図だ。フェリクスとリーゼルが作っている。私も見せてもらったことがある。
「そうしたらへルマンが来て、お守りを掃除メイドが先ほど見つけた、と渡してくれたんです。彼は僕のだと思ったようです。で、先輩がマリエットのだ、と」
そうか。へルマンはムスタファや私が持っているとは知らないからだ。
「どこにあったの?」
「長椅子の背もたれと座面の隙間の奥に入り込んでいたそうですよ」
「奥か!」
隙間も見たけど軽くだった。もしかしたらそれでかえって奥まで入ってしまったのかもしれない。
「どうしたらあんなところに入るのですかね」
レオンを見ると、剣呑な顔をしていた。
「先輩は『しまった』みたいな顔をして僕をさっさと追い出すし、僕に言えないような疚しいことでもあるんじゃないですか」
長椅子にあったということは落としたのはきっと、媚薬チョコに朦朧としていたときだろう。レオンにあの話はしていない。カッコ悪いから。
「別に疚しくはない」
「本当に?」
「本当」
「それなら疚しいのは先輩だけだ。どういうことだろう」
「木崎も疚しくないよ」
「そうかなあ。フェリクス殿下は、隊長から貰ったってことにやけに食いついていたけど」
フェリクス? 木崎に自慢したとき、フェリクスはいなかったのだっけ?
あの日のことは、どうも記憶があやふやだ。色々なことがありすぎた。木崎と口喧嘩したのもあの日だ。お前に優しい口調なんて不毛だと言われたのだ。
──って、なんでそんな些細なことを覚えているのだ私は。
「まあ、いいか。先輩が見つかったことを伝えておけと言ったので、伝えました」とレオン。
「ありがと」
「先輩てば、へルマンの前で見栄を張って。僕だったら恋敵が贈ったものなんて、こっそり処分します」
レオンを見る。
「はいはい、『そんなんじゃない』のですよね」
「それもあるけど。綾瀬って結構性格が悪いんだね」
「どこがですか!」
「なんで木崎なんかを慕っているのか不思議だったんだけど、似た者同士だったんだ」
「僕は先輩の足元にも及びませんよ。前世でも今世でも」
尊敬がこめられた口調。
レオンがちらりと私を見る。
「どうしてマリエットが彼を『木崎』呼びにこだわるか、当てましょうか」
「……それより地下の話をもうちょっと聞きたいかな」
「公の場に出ているときのあの人は」とレオンは私の言葉を無視して話す。「圧倒的な王子のオーラがある。元々の人嫌いと、美しいのに表情のない顔で近寄りがたさは王族イチ。僕たちとはいる階層が違うのだと痛感します。だけど『先輩』と呼んでいるときだけは、同じフィールドにいるつもりになれる」
レオンが私を見る。
「あなたも、そうでしょう?」
◇◇
「体調でも悪いのか」
カールハインツが尋ねる。
近衛広場での魔法指導。レオンは隊に合流していない。
「いいえ、問題ありません」そう答えて、魔法に集中する。
以前ムスタファの前で成功したシールド魔法は毎回成功するようになった。オイゲンさんからはもう少し長い時間張れるようになったら次の段階に進むと言われている。だけどそれがなかなか難しい。今日にいたっては失敗するか、数瞬で終わりかのどちらかというひどい状態だ。
「マリエット。終わりにしましょう。集中できていませんよ」
リーゼルまでそんなことを言う。
「大丈夫です」
私は一日もムダにしたくない。一瞬で張れるシールド魔法を、少しでも早く習得したいのだ。
確かに雑念だらけかもしれない。レオンが余計なことを言うから。本当に性格が悪い。私は話題を変えたのに。
そうだよ、『木崎』と呼んでいないと同じ位置にいられない気がするからだよ。
レオンのバカ。ムスタファのことはあまり考えたくないのに。
木崎とは八年もライバルで犬猿の仲だった。ちょっと異世界転生をして協力関係になったからといって、それ以上はない。私はリアルなカールハインツと結婚するために、過酷な苛めがあると分かっていながら王宮に上がったのであって、ムスタファに出会うためじゃない。
こんなにムスタファのことばかりを考えたくなんてないのに。
ルート選択をしてからの木崎はおかしい。
だけど私も、おかしい。
ムスタファの一挙一動に振り回されてばかり。ゲームの影響だろうがおふざけだろうが、思わせ振りなセリフには心臓は高鳴ってしまうし、手をとられたら緊張する。
私は異性慣れはしてない。それにムスタファは攻略対象キャラで美男だ。だから多少おかしくなるのは仕方ないとは思う。でも──。
もしかしたら木崎は私を好きなのではないかなと考え、次に、いやそれは喪女の勘違いだと思い直しては──胸が痛くなる。
ゲームが心配なのに、不安な場面でムスタファに手を握られれば安心する。逆に距離をとられると落ち着かなくなる。
情緒不安定もいいところだ。
胸が痛いって、どこか病気か。
だからあまりムスタファのことは考えないようにしてきたのだ。
だって、こんなのはまるで。
絶対に認めたくない。
あんなヤツに今世でちょっと親切にされて、意外な頼り甲斐に驚いたからって、私の気持ちが180度変わるとか、あり得ない。木崎にちょろいと鼻で笑われる案件だ。
だいたい木崎の好みは間宮さんで、私みたいなのはイラつく対象なのだ。それを知っていて、もしかしたらなんて考えるのは自意識過剰としか言い様がない。木崎に知られたら、『俺の言動がおかしいのはゲームの影響って言ってるのに、さすが喪女だ』とバカにされるだろう。
あいつにバカにされるのだけはイヤだ。
見下されたくない。
私はとなりに立ちたいのだ。立場は王子と侍女でも、仕事面だけではさすが宮本と思われていたい。
だから余計な雑念は追い払って、しっかり自分を保ちたいのに。
ムスタファが私と適切な距離を保とうとすればするほど、淋しいとか。
そんなのはおかしすぎる。
呪文を唱え終わり魔法陣が輝く。だが何か変──
突然、全身に強い衝撃を受けた。
続けてもう一度。
ごほっと、体の中からせり上がってきた空気が口から出る。
体が痛い、気がする。
何が起こったのだろう。
「マリエット。マリエット!」
リーゼルの顔が目の前にある。
「マリエット、大丈夫? しっかり!」
「──わたし?」
「良かった、意識はあるのね。魔法に失敗して、魔力が暴発。あなたは吹き飛ばされたの」
暴発。魔力が。本当にそんな事故があるのか。
「大丈夫なのか」
低い声に目を動かすと視界にカールハインツも入る。
ようやく自分が地面に横たわり空を見上げていることに気づいた。
「ごめんなさい。大丈夫です」
声がかすれているけど、半身を起こす。
「動かないで。ケガをしているかも」
「──いえ」
手を動かしてみる。問題ない。多分、足も。
「ケガはないです」
「本当に?」
困惑顔のリーゼルさんの手を借りて立ち上がる。
「うん、やっぱり大丈夫そうです」
「本当か? だいぶ飛んだぞ」とカールハインツ。
「地面に叩きつけられてはいないです」とリーゼルが隊長に言う。「私が魔法で勢いを殺したので。ただとっさだったから、完全にはムリでした。暴発の衝撃もあったでしょう?」彼女は私を見る。
「はい。でも本当に。助けて下さって、ありがとございます」
「殿下なら完璧にできたはずなのだけど。本当に?」
「本当に大丈夫です」
痛いけど最初より治まっている。
「私より、おふたりは?」
「私たちは離れていたから巻き込まれなかったの」
「良かった!すみません、こんなことになって」
リーゼルは首を横に振った。優しい。叱ってもらったほうが余程楽だ。
「今は事故にあったばかりで混乱している。後からケガや痛みに気づくかもしれない。近衛でもそんなものだ」
カールハインツの言葉に素直にうなずく。
「だが何かあったのか。全く集中できていなかった」
「……すみません」
「相談に乗るぞ」
黒髪黒瞳の堅物騎士が真摯な顔で私を見下ろしている。私は前世で最推しだったこの人と結婚したかったのだ。それなのに近頃は木崎のことばかりを考えている。
目がじわりとした。
認めたくない。私にだってプライドもある。
嘘で『俺に惚れるように』とか、悪ふざけで『溺愛されとけ』なんて言えてしまう、軽薄なヤツのことで頭がいっぱいなんてマヌケもいいところだ。
「レオンと一緒に来たな。あいつに何かされたか」
「ちがいます」
「では殿下とケンカでもしたか」
「いいえ」
言葉と裏腹に、また涙が出た。ぎりぎり瞼で止まっている。
カールハインツが手を伸ばす。
ムスタファの前で『失態』を犯したばかりなのに。
──あの不機嫌な顔も悪ふざけでできる顔なのだろうか。
手が頭に伸びる。一応、避けておこうか。そう思ったとき。
「さわるな!」
そんな声が広場に響いた。振り返ると血相を変えたムスタファが全力で走ってくるのが見えた。
あっという間に駆けつけたムスタファは私の肩に手をまわし自分の胸に引き寄せた。その勢いで涙がこぼれる。下を向き急いで手の甲で拭う。見られただろうかとムスタファの顔を見れば、険しい顔でカールハインツを睨み付けていた。
「次にその汚い手で彼女にさわってみろ。叩き切ってやる」
吐き捨てるかのような口調に黒騎士はすぐさま片膝を地面につき、
「御意にございます」と頭を垂れた。
「指導ももういい。明日からはロッチェだ」
「そのように」
何が何だか分からない。ムスタファは外出する予定だったはず。どうしてここに。それにこれは? 悪ふざけというには唐突すぎる。
「行くぞ」とムスタファが私の手を握りしめる。
「殿下」リーゼルが呼び止めた。「マリエットはつい先ほど魔力が暴発して、吹き飛んだのです。幸いケガはないようですが、安静にしないと」
「彼女が衝撃を和らげる魔法で助けてくれて」と私が言い添える。
「そう。礼を言う」とムスタファ。
「さすがリーゼルだ」その声はフェリクスだった。いつの間にか彼とヨナスさんもそばにいた。
どうかしたのか、そう聞こうと口を開きかけたところで体がふわりと持ち上がった。ムスタファに横抱きにされている。
「き……」
カールハインツがいるから木崎とは呼べない。
「ヨナス。外出は中止」
「かしこまりました」
「えっと、殿下? ヨナスさんも?」
ムスタファは私には何も答えず、ずんずん歩く。リーゼルたちは動かず、私たちを見送っている。
「どうしたの、木崎!」
声を潜めて尋ねるけれど、ムスタファは険しい顔のままだ。
「歩けるから!」
「ちょっと黙っとけ」
「でも!」
「安静なんだろ」
「その前に説明してよ!」
こんなの。また勘違いをしたくなってしまう。
顔を見られたくなくて、ムスタファの肩に押し付ける。
「説明は難しいんだよ」とすぐそばから声がする。「……泣いてんのか?」
「泣いてない」
ため息が聞こえる。
「人がいないところまで待て。もう少しで中に入るから」
「分かった」
しばらくすると建物内に入り、ひとりの近衛とふたりの侍女とすれ違ったあとに小さな部屋に入って私は長椅子に下ろされた。ムスタファが扉を閉めに行く。戻ってくると私のとなりに座った。
「先に確認させろ」と木崎。「魔力暴発って何だ。怪我は本当にないのか」
「ケガはない。リーゼルがうまく助けてくれたの。暴発は私の不注意。集中力が足りなかった」
「あとで医者に診てもらえ」
「大袈裟だよ」
「今まで暴発したことは?」
「……ない」
「なら大袈裟かどうかなんて分からないだろ」
「分かった」
なんでこんなに過保護なのだ。
「それで説明は?」
なんとなくムスタファの顔を見られず窓の外に目をやる。距離も近すぎるのだ。人のことを考えなしと貶すくせに、自分も喪女への配慮が足りない。私の心臓がどんなにバクバクしているか、考えもしないのだろう。私も全力で何でもない風を装っているけれど。
「聞くなら覚悟を決めろ。どうする?」と木崎が尋ねる。
「もちろん聞く」
「そうか。───シュヴァルツはパウリーネに命じられて、わざと俺を煽るようなことをしている」
思いもよらない説明に思わずムスタファを見た。
「いつからなのかは分からないけどな。フェリクス調べだ。俺の結婚話を知っていたのも恐らくはパウリーネから聞いたのだろう。あれは失言じゃない。お前を焚き付けるためだ」
「頭ぽんも?」
「そう」
「だからまたやろうとしたのか。謝ったばかりなのに、おかしいなとは思ったの」
「……大丈夫か」
「うん」
自分でも驚くほど、ショックは少ない。
「ああ、なるほど。好感度は上がったのに親密度はダメだったのは、きっとそのせいだね。カールハインツにとっては仕事だったからだ」
「かもしれない」
さすがに悲しくはある。だけど今の私はそんなことよりも目の前のムスタファに落ち着かない。なるべく考えないようにしてきたのに、レオンが無理やり突きつけてくるから。
「──私のために怒ってくれてありがと、木崎はさ、懐に入れた人間には優しいよね」
さっと立ち上がり、ムスタファから距離を取る。
「じゃあ医師の所に行ってくる」
足早に扉に向かう。急いで部屋を出るのだ。今はふたりきりはイヤだ。平静な顔を保てそうにない。
ドアノブに手を伸ばしたところで背後に気配を感じた。デジャブだと思った瞬間、ドンと音を立ててムスタファが扉に手をついた。
こんなの、まるで壁ドンみたいではないか。
「宮本」
「まだ何かあるの?」
表情を取り繕いムスタファを見ると、どうしてなのか向こうは顔を歪めている。
カールハインツのことを心配してくれているのだろうか。
「近いよ。離れて」
「──マリエット」
心臓がバクリと跳ね上がる。二人きりのときに今の名前を呼ばれたことなんてない。
「ど、どうしたのよ、きざ」
木崎、と最後まで言えなかった。
言い終える前に、ムスタファにキスをされた。
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