29・ゲームの強制力?

「考えたな。宮本魂を失っていなかったか」

 髪の手入れをしながら食堂での顛末を話すと、木崎のムスタファは楽しそうに声を上げた。




 昨晩私の部屋に用意されていた媚薬入りチョコ。気の強め侍女チームの前に出し、

「どうです? パートナーがいらっしゃる方は双方了解の上でお使いになってみませんか。捨てるのも申し訳なくて困っているのです」

 と持ちかけた。

 半ば正直に半ば嘘を交えて、パウリーネ妃殿下が勘違いでムスタファ王子と私を恋仲にしようとしていて媚薬入りチョコをくれたのだと説明して、ただし試していないから、本当かどうかは分からないと言い添えた。

 するとチョコはあっという間に売り切れたのだった。




「良かった良かった。侍女たちがちょっとだけ懐柔されてくれたから、私はシュヴァルツ隊長狙いなのにと愚痴りまくったの。そうしたら『マリエットは案外面白いヤツかも』評価になった」

「……面白くねえ」と顔の見えないムスタファが不機嫌な声を出す。

「大丈夫、ムスタファ王子は私に興味はなくて、好みは可愛くてしたたかなタイプだって広めておいた」

「全然大丈夫じゃねえよ、アホ喪女!」

「何で?」


 深いため息が聞こえた。


「世間は俺がお前を好きだと思っている。で、短絡的なヤツらはお前みたいな幼児体型の娘を俺に近づけてくるんだよ。これで次は、したたかなふりをした娘がプラスされる」

「それは考えなしでごめんだけど、幼児体型は言い過ぎじゃない? セクハラ王子」

「その称号はフェリクスのものだろ」

「どちらの王子にも進呈する」

「あ? チャラ王子みたいに腰を抱いてキスしてやろうか?」

「そこまではされてない」


 ムスタファの銀髪は今朝も艶やかで美しい。

「髪は綺麗なのに、口調が乱暴すぎる」

「今さら何を言ってるんだ」

 月光を集めたような髪を丁寧にくしけずる。前世の私だったら、木崎の髪をとかす仕事なんてと腐ったかもしれないけれど、今は結構好きだ。月の王の美しさを保っているという誇りすらある。


 それなのにこの人は、どうしてやりもしないことを言って、私をからかうのだろう。そんなに喪女は悪くてリア充は偉いのだろうか。

 木崎はそんなにたくさんの彼女がいたのだろうか。


「そういう煽りをするから誤判定になるのだと思う」

「違うね」自信満々の口調。

「じゃあ単純にゲームのバグだって言うの? なんで木崎ばっかり。どうせならカールハインツで起きてくれれば良かったのに」


 ルート選択からたった二日で、世界はムスタファルート様式になっている。ここからハピエンを回避して、後にカールハインツを攻略できるよう誤解も解いて、というのはなかなかに骨が折れそうだ。諦めないけど。


「お前は髪を梳かすのは上手いよな。心地好いよ」

「そ、そう。ありがと」

 なんで急なデレなのだ。やっぱり世界が溺愛ルートを進ませようとしているのだろうか。


「ムスタファルートを選んだのは最良の決断だったと絶対に思わせてやる」

「……うん、楽しみにしてる」

 あまりに真剣な口調に、それが正しい返答なのか分からずドキドキする。木崎が急におかしい。最近、絶対におかしい。

 木崎なりに責任を感じていて、気合いが入っているのだろうか。


「俺の専属になった以上、お前がまず覚えることは俺を崇めることだな」

「どうしてよっ」

 ツッコミをいれて、ほっとする。いつもの木崎だ。

「大事だろう、主への尊敬」

「一般的にはね。木崎相手じゃなあ」

「は? 俺よりいい男はいないぞ」

『鏡を見れば』と返しそうになって、すんででムスタファには通用しないと気付く。


 ひょこひょこと視界の端で赤いものが動いた。見ると、開け放したままの扉からフェリクスが入ってきたところだった。

 断りもなくやって来たフェリクス。軽薄な笑みを浮かべながら、

「朝からいちゃつくな。妬けてしまうではないか」なんて言う。

 おはようございますと挨拶する私にムスタファが、

「勝手に入るな」と被せてくる。

「君だって昨日は私の書斎に勝手に入ろうとしたではないか。邪魔をされるのが嫌ならば、扉を閉めておけばいいものを」ニヤニヤ軽薄王子。「結局彼女は君の専属になっているしな。羨ましい」

「悔しがれ」とムスタファ。また溺愛路線を思わせるセリフだ。

「魔道具の在庫確認のときだけでいいから、マリエットは手伝いに来てくれないだろうか」

 急に挟まれた真面目なセリフ。

「構わないが、高くつくぞ」

「お金を取る気?」ツッコむ私。

「まさか。労力だ」


 何故かフェリクスは私を見て、

「ムスタファは君を手放したくないから大変だ」なんて言う。「部屋も隣に移ったのだろう? もし彼に襲われたら私の元へ逃げておいで。こういう紳士ぶった男こそ、思いを拗らせて何を仕出かすか分からない」


 フェリクスの物言いに、思わず手が止まる。それから吹き出してしまった。

「ないです、そんなこと」

「そうかな」

 フェリクスは私の元に来ると、ひょいと手をとった。

 またかと思い手を引こうとしたが、それよりも早くフェリクスの腕を掴む手があった。ムスタファが振り返り、チャラ王子を見上げている。


「おやおや、嫉妬深いことだ」

 フェリクスは笑顔をムスタファに向けて、私の手は離した。

「殿下。そうではないと何度も申し上げていますよね。これ以上、周囲に誤解が広まると本当にまずいのです。ご冗談はお止め下さい」

「そうか。心に留めておこう」


 チャラ王子は軽薄な口調と笑みでそう言って、ムスタファの隣に座った。

「いやはや、君たちの仲はおもしろい。深い信頼で結ばれているかと思えば、深い断絶もある」

「フェリクス」

 ムスタファが静かに名を呼ぶ。

 木崎もいい加減、からかわれるのが面倒になっているのではないだろうか。


「彼女と私にはマリエット、ムスタファとして生まれる前に、別の人間として生きていたときの記憶がある」

 続いた言葉にびっくりして、再び手が止まる。

「国も時代も社会通念もまるで異なる所で、その時の名前が宮本、木崎だった。俺たちには俺たちの関係がある」


 果たしてフェリクスはどう反応するだろう。ドキドキしながら、ムスタファに向けられた横顔を見る。と、彼は私を見た。それからまたムスタファを。


「夢物語か」ようやく出た言葉はそれだった。

 信じてはもらえないかと、がっくりする。

「だが」とフェリクスは続けた。「同じく夢物語と思っていた魔王の話が事実だった。世の中には私の常識では測れないことが多くあるのだろう。それに、その話を信じたほうが、君たちの間柄に納得がいく。人嫌いでろくに城の外に出なかったムスタファが、いつどこで孤児院育ちのマリエットと出会ったのか、不思議だったのだ」


「信じてくれるのですか」

 フェリクスが私を見る。

「その方が説明がつくことが多い」

 確かヨナスさんもそんな事を言っていた。

「ありがとうございます」


 にこりとしたフェリクスはムスタファに視線を向けた。

「このことをツェルナーに話してもよいだろうか。彼が信頼できることは私が保証する」

「構わない」

 私もうなずく。

「良かった。ありがとう。それで打ち明けてくれた真意は、だから自分たちの間を邪魔するなという牽制かな」

 フェリクスがまた曲解をしている。


「だがそれは君の都合だ」と、こちらが反論する間をなく続けた彼は、私を見た。「マリエット。もしかしたら、きちんと伝えていなかったかもしれない。私は君が好きだ」


 見上げてくる目は真剣で、緑色の瞳の美しさに戸惑った。

 これはきっとおふざけではない。唐突すぎるけれど、真面目な告白なのだ。フェリクスルートではないのに。しっかり答えなければ失礼だ。

「ごめんなさい」

「分かっている。君は私を意識していない。だけどこの先もそうだとは限らない。私の努力次第かもしれないからな。君も心して口説かれてくれ」

「絆されるなよ、喪女」と木崎が私が答えるより先に口を挟む。

「君もマリエットと私の関係に口出ししないでくれるかな」フェリクスはそう言ったが、その口調は柔らかかった。


「そういう事だから、専属となった彼女の仕事についての話し合いには私も参加する。ムスタファのスケジュールからいって、この後にその時間ではないか?」

「……密偵っていうのは恐ろしく気持ち悪いな」木崎が若干引いている。

 ふたりはまた取るに足りない言い争いを始めたが、その様子はほのぼのとしたものだった。


「ところで」とフェリクスが振り向く。「前回の生では、ふたりはどんな関係だったのだ」

「同じ職場で働くライバルです」

「納得だ!」

 チャラ王子は何故か嬉しそうな顔をして、ムスタファの肩を叩いている。うるさそうに振り払う木崎。仲良しだなあ。


「それでその時の彼はどんな風だった」

「自分にも他人にも厳しくて、めちゃくちゃ嫌なヤツでしたよ。仕事は誰よりもできましたけど」

 ふうん、とフェリクスはニヤニヤ顔でムスタファの顔を覗きこんでいる。

「それから殿下以上の女の子好き。恋人をとっかえひっかえ」

「宮本、余計だぞ!」木崎の鋭い声が飛ぶ。

 フェリクスのほうは鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしてから、爆笑した。

「そうか、そうか。全て理解できた」

「そのアホ女は適齢期を過ぎても仕事しか生き甲斐のないようなヤツだったから、アホなんだ」


 木崎め、アホを二回も重ねた。


「なるほど、好意に対して劇的に鈍いのは今に始まったことではないのだな」

 まだ笑っているフェリクスが目尻を拭いながら言う。

「鈍いって、私がですか?」

「そうだよ」

「そうだっ」

 ふたりの王子の声が重なり、フェリクスは再び大笑いする。


 自分のことを思い返してみる。心当たりはひとつある。

「レオンは気付かなくても仕方ないと思うのです」

「ここに来て、近衛君か」とフェリクス。

「すみません、殿下のことでしたか」

「……そうだ」にこりとした彼は正面を向き直り、「これは苦労するな」と言ったのだった。




 髪の手入れが終わり、道具を寝室のキャビネットに片付ける。そもそもはムスタファの身支度は全てこちらでやっていたらしい。髪だけ居室を使っているのはムスタファなりの私への配慮なのだと、準備をしていたときにヨナスさんがこっそり教えてくれた。


 人が入ってくる気配に振り向くと、当のムスタファだった。

「宮本」

「何?」

「手」

「手?」

 自分の両手を見つめる。ひび割れでもあって、ムスタファの髪を引っ掻けたりしただろうか。毎日仕事前にチェックしているのだけど。

 と、その手を包み込むように握られた。


 すぐ目前。息する音も聞こえそうな間際に立つムスタファ。困惑して見上げると、真顔で私を見下ろしている。親指で掌をゆっくりなぞられる。

「木崎?」

「……よく分からねえけど、こうしなきゃいけない気がする。ゲームのせいだな」

「しっかりしてよ!」

 だけど手は離れない。こちらから振り切ろうとしても、がっつり握られている。

「全力で抗って!」

「お前がフェリクスに触られなければ、ゲームも俺にこんなことをさせないんじゃねえの」

「私のせい!?」

「あいつに距離を詰められなきゃいいだろ」

「だって髪を梳かしていたんだよ」

「俺に限っては仕事よりフェリクス回避を優先しろ。あと、綾瀬な。あいつも手が早い」

 掌を撫でる動きは止まらない。くすぐったい、というかぞわぞわする。


「分かった。分かったから、木崎!」

 すっとムスタファの手が離れる。

「すげえ赤面」

「悪いか。免疫がないって言ったよね」

 鼓動が早い。いくら中身が木崎とはいえ、ムスタファはイケメンなんだ。こんな接触は心臓に悪すぎる。

「気を付けろよ。フェリクスにされたことは俺もするみたいだから」

「なんでムスタファルートになったとたんに」

「知らねえよ」


 ふいとムスタファが離れる。と、コホンと咳払いがして、見ると隣部屋との境にヨナスさんが立っていた。いつからそこにいたのだ!


「ムスタファ様。打ち合わせの前にシュヴァルツ隊長からマリエットの指導についての拝謁願いが出ています。いかがなさいますか」

「今すぐ」


 部屋を出ていく気配を背中で感じながら、キャビネットの引き出しに手入れを終えた櫛を入れしまった。

 まだ胸がドキドキしている。ムスタファルートは予想外に罠だらけらしい。


 居室に戻ると、先ほどと変わらない位地に座ったままのフェリクスが半身をひねってこちらを見ていた。


「いちゃいちゃは妬けると言っただろう。ムスタファには手を握らせてずるい」

「覗きか、変態」とムスタファ。フェリクスのとなりに座っている。

「マリエットの叫び声が聞こえたぞ。むっつりめ」


 むっつり? 木崎が?

 おかしくて吹き出す。

 ムスタファはすごい勢いでチャラ王子に顔を向け、

「誰がむっつりだ、訂正しろ!」と迫っている。


「仲良しですね」とヨナスさんに声をかけると彼もうなずいて、

「ツェルナーには目くそ鼻くそと評されたそうだ」

 と言う。

「お前も余計だ、ヨナス」とムスタファ。


 そこへ開け放したままの扉からノック音がして、

「申し訳ありません。こちらに……」とツェルナーさんが顔を出した。「あ、いた」

「見つかった」と肩をすくめるフェリクス。

「またあなたは、邪魔をして。うちの主が空気を読めずに申し訳ありません」

 平身低頭のツェルナーさん。


 昨日と同じメンバーが揃い、ふたりの従者とお茶の用意をすることになった。ムスタファ専属も楽しそうではあると思うのだ。


 ただしこれ以上の誤解と溺愛ルートへのフリはいらない。

 それにしても木崎だ。私だって一応はヒロインなのに、手を握っても表情ひとつ変えないのだから。

 いや、そのほうがゲームに対抗するには良いのだろうか。

 ちらりと目をやると、王子たちはひそひそ話をしながら、小学生男子みたいにじゃれあっていた。


 ◇◇


 太陽の高い昼下がり、近衛用広場に対峙するカールハインツと私……。




「緊張しすぎです」

 外野から声がかかる。ツェルナーさんだ。歩み寄ってきて

「ほら、リラックス」と肩を揉まれる。

 だって憧れの人から直接指導を受けられるのだ。緊張するなというほうが無理だ。それに正面に立つ黒騎士は無表情で何を考えいるのか分からない。もしかしたら不機嫌なのかも。


 近衛隊長によるシールド魔法の指導は最優先、と第一王子は告げた。私はありがたいけどカールハインツはきっと迷惑だろう。それでも王家第一主義の黒騎士は、お任せ下さいと片膝を地面につけた最上の礼をもってして拝命したのだった。


 その場で向こう一週間分のスケジューリングが行われた。それからムスタファとフェリクスが予定表を手に頭を付き合わせて何やら話し合いをしていると思ったら、指導への立ち会い人を決めていた。王子本人のときもあれば従者のときもあり、それでも賄えないときはヘルマンの名前が入れられていた。


 なにこの過保護。


 とドン引きしたけど、フェリクスは

「君を恋敵とふたりきりにする筈がないだろう」と当然の顔をして、

 ムスタファは

「嫉妬深さの演出」と嘯いた。意味が分からない。


 もっともヨナスさんの話によると、実際のところは私が無茶をしてケガをしないための立ち会いらしい。


 ツェルナーさんの肩揉みで緊張が和らいだ。顔を引き締め

「本日はご指導をよろしくお願いいたします」

 と近衛隊長に挨拶をする。大切な勤務時間を私にさいてくれるのだから、浮かれていてはダメなのだ。

 うむとうなずいたカールハインツは手にしていた紙ばさみに目を落とした。


 あらかじめ渡されたアンケートに回答したものだ。生活魔法の一覧で、使えるものにチェックをいれた。一覧以外に使えるものを記入する欄もあった。

 ムスタファとヨナスさんと相談して、金属に関する特殊な魔法のことは伏せ、自分では魔力を一般レベルと思っているという姿勢を貫くことにした。


「生活魔法の基本はひととおりできるが、それ以外は習ったことがない」と確認するカールハインツ。

 はいと答えると、彼は困惑の目を私に向けた。

「私は防御魔法は多少使えるが、レベルも教えることもオイゲンのほうが上なのだ」


 カールハインツが自分のことを俺ではなく『私』と呼んだ。どうやら距離は開いてしまったらしい。


「多少拙いところがあるだろうが、ムスタファ殿下のマリエットをお預かりする以上、精一杯指導する。こちらこそよろしく頼む」

 と、侍女見習いにわずかだが頭を下げる近衛隊長。また『ムスタファ殿下のマリエット』なんて言っているし、誤解により私の地位が格上げされたのだろう。


「まずは」とカールハインツは紙を一枚めくる。「防御魔法を教える前に、どの程度能力があるか調べる」

 はいとうなずく。


 オイゲンさんが昨日話していたのだけど、近衛では攻撃と防御の魔法をひととおり習うそうだ。だけど実際に使える者は一握り。その一握りとて多くは常用できるレベルではなくて、万が一の危機に最後の切り札として使えるくらい。本当の本当に難しいらしい。


「最初は風を起こす魔法」とカールハインツ。「うまく使えば、敵の足止めや目眩ましに有効」

 明らかに棒読みだ。見ている紙に書かれているのを読み上げているのかもしれない。たどたどしくて、これはギャップ萌えだぞ。可愛すぎる。


「まずは『つむじ風』。呪文が短くて覚えやすい。まずは私が唱えるからな。これだ」と黒騎士はそれを口にした。


 ふむ。一般的な風魔法は使えるけれど、それ以外はやったことがない。そもそもどんな種類があるかも知らなかった。つむじ風か、とイメージをする。前世ではよくテレビのニュースで見た。運動会中に突如出現したつむじ風の映像とかを。

 そして手を伸ばし、師を真似して呪文を唱えた。


 数メーター先に、人の背丈ほどあるつむじ風が起こる。

「えっ」との叫び声。ツェルナーさんだ。

 思いの外大きい。

「これ、どうすればいいですか」

 と師を見ると、目を大きく開き固まっていた。

「呪文を覚えさせようとしただけなのに」との呟き。


 なんですって。もしかして私、チートってやつなのだろうか。さすがヒロイン。

 参ったなあと照れたのと同時に、つむじ風はすっと消えた。


「マリエット。普通は一度ではできないし、最初は大抵手乗りサイズなのですよ」

 珍しく興奮した様子のツェルナーさん。

 カールハインツも紙ばさみを見ながら うなずく。

「『まずは百回ほどトライさせる』と書いてある」

「もう一度やってみてくれますか」とツェルナーさん。


 私は張り切って手を伸ばした。


 ◇◇


 扉を叩く音がして、ヨナスさんが顔を出す。

「戻ったよ」

「了解です」

 短いやり取りだけで彼は去る。私は刺していた布と針を置いて立ち上がった。

 これはムスタファが晩餐から自室に帰った知らせだ。 

 手早く刺繍セットを片付けて、ムスタファの部屋に行く。本人はすでに浴室に向かっていて、誰もいない。私はムスタファの着替えと入浴は手伝わなくてよいことになっている。


 私がすることは今のうちに髪の手入れセットと寝酒の用意。今日から夜の手入れも私がすることになった。そして寝酒の相手も。ヨナスさんがしていたことを私が奪ってしまう形だから、大丈夫か、淋しくないかと尋ねたのだけど、彼は嬉しそうに笑みを浮かべたのだった。


「いいんだよ。おかげで私は早く上がれるようになる。しかもマリエットが担当してくれるのならば、心置きなく私は恋人と過ごせるからね」

 どうやらヨナスさんの彼女は城内にいるらしい。一緒にいられる時間が増えるとふたりで喜んでいるそうだ。


 手入れセットを並べたワゴンをいつもの位置に起き、キャビネットの上にはヨナスさんに指示された寝酒セットを用意。お酒。多めのおつまみ。グラスはふたつ……。

 寝酒か、これ。マリエットお相伴セットではないだろうか。だって私の好きなチーズがあるし。ありがたいけど、やっぱり強制的に溺愛ルートに引っ張りこまれているような気しかしない。


 支度が終わり手持ち無沙汰になったので、どこで待っていればいいかを考えることにした。何しろ部屋は薄暗い。隅にいたらお化けのように見えそうだ。


 燭台のそばがいいかと、複数あるそれを順番に回ってみる。途中で鏡が目に入ったから身だしなみチェックをする。今までひとりきりで王族を部屋で待つなんてことをしたことがなかったから、どうも落ち着かない。


 ぷっと吹き出すような音がした。振り返ると閉めておいたはずの廊下への扉が開いていて、ガウン姿のムスタファがうつむいて肩をふるわせていた。

 扉が開閉する音は聞こえなかった。絶対にわざとこっそり開けたのだ。


「まるで初めて彼氏を部屋に招く女みてえ」

 ぷくくくと笑う木崎。

「さすが木崎、性格悪いっ」

 立ち位置が決まらずうろうろしているところをみられたのかと思うと、恥ずかしい。顔が熱い。


「自分こそ、一番お気に入りのガウンですけどね。ローズオイルは増し増しで入れてますし」

 ヨナスさんがムスタファのとなりで言う。すかさず

「勝手なことを言うな」と木崎が反論する。「ガウンはローテーションだし、オイルを入れているのはお前だろう」

「そうだったでしょうか」しれっとヨナスさん。「ではマリエット。あとをよろしく頼みます」

 主従コントに気を取られていたので、慌てて『はい』と返事をする。


 ヨナスさんは更なる主の抗議を受け流し、就寝の挨拶をするとあっさり行ってしまった。

「浮かれすぎ」と木崎。「このあとは恋人といちゃいちゃタイムなんだぞ、あいつ」

「木崎が彼女持ちを羨ましがる日が来るとはねえ」

「羨ましくはない」

 意地っ張り王子はツカツカとやって来て、定位置に座った。

「侍女見習い、髪をやれ」

「はいはい」


 ムスタファの背後に周り、髪を包んでいたタオルを外す。濡れた銀髪を見るのは久しぶりだ。艶かしく美しい。まずはオイル。

 丁寧に塗り込んでいると、ムスタファが

「あ」と低い声を上げた。

「どうかした?」

「お前、今日はかなりつむじ風魔法の練習をしたのだろう」

 指導については、既に詳しく話してある。

「髪を乾かす魔力は残っているのか」


 投げ掛けられた質問に手が止まった。

「……前世だったら確実に、体力ゼロでも絞り出せと言ったよね」

「今は前世じゃねえ」

 前世ではない。宮本と呼ばれていても私はマリエットで侍女見習いだ。


「魔力は問題ないよ。だいぶ時間は経っているもの。十分に回復している」

「それなら、いい」

「ムスタファ殿下の専属といってもろくに仕事をしていないもの。このぐらいは、例え疲れていたとしても張り切ってやるよ」

「一般的な侍女路線を外れたな」

「その気があれば、いつでも路線変更できる。有能な侍女頭も手助けしてくれると言ってくれてるしね」

「ロッテンブルクに憧れるのはいいが、お前が侍女頭ってお局感しかねえよ」

「失礼だな。私は後輩にも親切丁寧を心掛けていたよ。誰かさんと違って」

「……」


 反論にすぐ応じられるよう身構えたものの、返ってくる言葉はない。まさか急に寝てしまったのだろうか。


「木崎?」小さな声で呼び掛ける。

「お前って、本当に鈍感だよ」

「え。まさか私、後輩に嫌われていた?」

「んなことねえだろ。しょっちゅう相談を受けていたじゃねえか」

「だよね。良かった。髪を乾かすよ」


 片手で風魔法を当てながら、もう片手で銀の絹糸のような髪をすいて風が満遍なく当たるようにする。


 昼間の指導を思い出す。

 結局。最初に大きなつむじ風を起こせたのはビギナーズラックだったみたいだ。そのあとは出来たりできなかったり。時間いっぱい練習したけれど、成功してもサイズは一定しなかった。でも十分にすごいことらしい。


「……で、指導はどうだったんだ」

 ムスタファの声に目を向ける。といっても顔は見えない。見えるのは頭頂部だけ。

 指導内容についてはとっくに話した。ならばこの質問は……。


「シュヴァルツを攻略してきたのか」

 やっぱり。またネタにする気だ。

「教えてもらう時間だもん。いち生徒として真面目にやってる」

 ふうんと木崎は言って、また黙った。


 そのまま沈黙は続き、手入れは終わった。もしかしたらムスタファは眠いのかもしれない。

「もう寝る?」と訊くと

「飲む」との返事。

 手をきれいにしてから寝酒セットを卓に運び、私は片付けをしに寝室に向かった。


 キャビネット前で櫛の手入れをしていると、自然と朝のことを思い出した。

 恥ずかしさによる怒りが湧いてくる。何度も言うけど、中身が誰であろうともムスタファはイケメンで私は久しく恋愛ごとから遠ざかっているのだ。木崎にはたいしたことでなくても、こっちは心臓に悪すぎる。

 今だってやたら良い香りがするし。


 ぶんぶんと頭を左右に振って雑念を追い払う。私までムスタファルートの影響を受けてしまいそうだ。


 ◇◇


 普段どおりにお酒を飲み、一日にあったことを話してお開きとなった。朝のようなことは何も起きず、平和なひとときでほっとしたような、肩透かしのような。

 しかも王子の就寝を見届けるつもりだったのに、結局今夜も見送られることになった。そうなるだろうとは思っていたけど。


 廊下に続く扉の取っ手に手を伸ばす。と、その手を背後から伸びてきた手に握られた。

 お酒が入っているせいで、余計に心臓の働きがいい。でも大丈夫。今回は多少の心構えをしておいた。

「またゲームの影響を受けているよ」

「……だな」

 あっさりと離れていく手。


 振り返るとムスタファは真顔で私を見下ろしていた。朝とそっくりの状況だ。


「やべえな。『おやすみのキス』と言いそうだった」

「気をしっかりね」

「イケメン王子にモテているんだぞ。嬉しくねえの」

「ゲームの強制力ではね」


 今度こそ取っ手を掴み、扉を開いた。

「おやすみ、木崎」

「ああ。おやすみ」


 歩いて数秒の自室に帰る。部屋に入る前に王子を見て会釈をし、中に入った。鍵を掛ける。


 どっと力が抜け顔が熱くなる。

 背後からなんて、卑怯だ。あんなの好きシチュエーションすぎる。

「カ、カールハインツで補正しておこう」

 よし、今夜はその夢が見られるよう妄想に励むのだ。

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