24・チョコレート

 ムスタファの部屋に入る。と、彼はいつもの場所に座っておらず、立って上着の前をパタパタとしていた。私を見て

「お帰り。どうだった」といつもの口調で言ってから、何故かわずかに眉を寄せた。

「聞いて。カールハインツにお守りをもらったの」

 ほら、とお守りを見せる。

「へえ。良い感じになれたのか」

「そこは語ることはなし」

「さすが」

 にやりと嫌味な顔をするムスタファ。


「どうかなさいましたか」とヨナスさんが上着を掴んだままの彼に声をかける。

「カルラが来て遊んでいたらボタンが飛んだようだ。だが見つからなくてな」

「どんな激しい遊びだ」

 フェリクスの声がして振り返ると、開いたままの扉の元に立っていた。

「マリエットが部屋に入ったとツェルナーが言うから」とチャラ王子。

 その後ろで彼の従者が余計なことを言って申し訳ないと頭を下げている。


「私もお出かけ用の可愛い君を見たかったのだが」とフェリクス。「ふわふわ髪型ではないな。聞いていたのと違う」

 ヨナスさんが私を見たけれど、何も言わなかった。

 髪は来る途中でひとつ結びにしてしまった。ルーチェが結ってくれたのを完全に解く時間はなかったから、多少はまだふんわりなのだけど。でももうハーフアップではない。


「まあいい。せっかくだから私もデートの顛末を聞かせてもらおう」

 フェリクスは図々しく部屋に入ってくる。ムスタファの不機嫌な表情もおかまいなしだ。私のそばまで来ると髪に触れ、

「この辺りは名残かな。綺麗な編み込みだ」と言う。

「触らないで下さいね。ルーチェさんに結ってもらったんです」

「彼女はこういうのが上手いな」

 チャラ王子は更に触る。


「ヨナス。彼女にあれを。私は上着を替えてくる。フェリクスには塩を撒け」

 ムスタファはそう言って続き部屋に向かった。


  『あれ』は既に用意されていたようで、ヨナスさんがサイドボードから焼き菓子と冷えたお茶を運んでくる。当然、フェリクスの分はない。

「仕方ないマリエット、後で私の部屋においで」とチャラ王子。

「今日は休日なので、お断りします」

「ムスタファの部屋には来るのにかい?」

「用があるのです」

「座って、マリエット。ああ、そうだ」とヨナスさん。キャビネットに向かい、何やら手にして戻ってきた。

「これも君にだ」


 椅子に座った私の目の前に置かれたのは、掌サイズの可愛い器だった。蓋を取る。中にはピスタチオの乗ったチョコが一粒。

「特別なものなのですか」

「さあ」

 何故だかそれがとても美味しそうに見える。木崎を待たなければと思いながらもつまみ上げ──


「待て!」叫び声と共にムスタファが隣部屋から駆け出て来る。「チョコは食べるな!」

 手の中のそれを見る。一口かじってしまった。

「出せ!吐き出せ!早く!」

 血相を変えたムスタファが突進してくる。訳も分からないまま器を手に取り、中に吐き出した。


「平気か、何ともないか」

 木崎は私の肩を掴み、不安そうに見下ろしている。

「マリエットにではありませんでしたか」珍しくオロオロしたヨナスさんの声。

「そうだがそうじゃない」

「何なのだ、そのチョコは」とフェリクス。

「いや……」言葉を濁す、ムスタファ。


 どくん。

 大きく心臓が脈打った。あっという間に鼓動が早くなり、体が火照る。

「……木崎……暑い」

「っ、大丈夫か!」

「……どうしてだろう、木崎がものすごくイケメンに見える」

「俺はいつだってイケメンだっ」

 視界がフラフラして定まらない。胸が苦しい。高熱が出たのだろうか。急に?


「しがみつくなっ」とムスタファ。

 あれ、私は木崎にしがみついているのかな。

「まさか媚薬か」

 珍しい、フェリクスが怒った声を出している。

「宮本、脱ぐなっ!」

 がしりと手を捕まれてはっとする。私は襟元を緩めようとしていたらしい。


「どうすればいい、医師か?」ムスタファの困惑した声に

「魔術師だ」とフェリクスが答える。「だが来るまで耐えられるか。酷い汗だ」


 声は聞こえる。だけど朦朧として考えがまとまらない。

「だから脱ぐなって、宮本!」

 頬をペチペチ叩かれる。

 でも暑いのだ。


「……ヨナスさん、行かなくていいから扉を閉めてもらえますか。それから水をもらいますよ」

「ツェルナー」






 暑い。全身が火照って苦しい。

 と、眉間に氷が当てられた。気持ちがいい。


 目を開くと、グラスを片手に持ったツェルナーさんが私の額に指を当てて、呪文のような言葉を呟いていた。

「はい、これを飲んで」

 グラスを渡される。

「全部だ。残さずね」

 言われた通りに水を飲み干す。

 ツェルナーさんは再び額に指を当て、一言唱え。

「完了」


 体の熱が嘘のように引いていた。

「大丈夫か、宮本」

 ムスタファの木崎が私を見ている。とんでもなく情けない顔だ。

「……多分」

 はぁぁっと深く息を吐く王子。床にひざまずいている。

「悪い。俺の説明が雑だった」

「……何だったの?」

「媚薬。パウリーネが友人に貰ったものをくれた。お前がシュヴァルツに食わせればいいと思ったんだが、ヨナスにまだきちんと説明していなかったんだ」


 ムスタファがツェルナーさんを見た。

「助かった。礼を言う」

「私の主が泣きそうだったので」

 ツェルナーさんの言葉にフェリクスを見ると、確かに泣きそうな顔をしていた。

「すまない、ツェルナー」とチャラ王子。

 首を横に振る従者。

「私の意思ですよ」


「あなたが魔術に長けているなんて、聞いていませんね」

 静かにそう言ったのは、ヨナスさんだった。

「ええ。隠していましたから」ツェルナーさんは事も無げに答えた。「第五王子の苦手分野のサポートをするために、私は彼の従者に無理やりさせられたのです。それと管理兼監督ですね」

 従者は主を見た。

「構いませんよ、打ち明けて。私はもう、陛下に報告しませんから」

「すまない、ツェルナー」

 もう一度そう言ったフェリクスは、ムスタファ、ヨナスさん、私を順に見た。


「私の留学の目的を話す。だから信用してほしい。だがその前にマリエットだ。そのチョコはパウリーネ妃からか」

 そうだとムスタファ。

「ツェルナー、分かることは?」

「かなり強力な媚薬ですね。でも他に変な魔法はかかっていないようですし、彼女はこの手のものは効きにくいみたいです。それがかえって高熱のような症状を引き起こしてしまったのでしょう」ツェルナーが説明をする。「マリエットは媚薬による状態異常だったので、その効果を消す処置を施しました」

「心の底から礼を言う」

 私もありがとうございますと言いながら、ふと気づいた。ムスタファに強く手を握られている。彼のなのか私のなのか、汗がすごい。


「パウリーネ様はこれをご友人様から頂いたのですか」とヨナスが尋ねる。

「私に渡せと言われて貰ったと話していた」

「マリエットに食べさせろ、と?」

 フェリクスが尋ね、ムスタファはうなずく。

「何故そんなことを」とヨナスさん。

「パウリーネには気を付けろと忠告したはずだ」とフェリクス。「彼女は恐らくムスタファが権力を持たないよう、後ろ楯も何もないマリエットと結婚させようと考えている」


 ムスタファはうなずきながらハンカチを取り出したかと思うと、私の額を拭いた。

「……ありがと。自分でできる」

 気恥ずかしくなり、ハンカチを受け取って汗を拭く。

 すぐにヨナスさんが続き部屋に行き、沢山のタオルを持って戻ってきた。


「……悪かったな。大丈夫か」ムスタファがまた謝る。

「木崎のせいじゃないでしょ。一度に二度も謝られるなんて初めてで、怖いよ」

 軽口が返ってくると思ったのに、ムスタファは視線を反らせた。握られたままの手が痛いぐらいだ。


「気が済むまで謝らせてやれ」

 フェリクスはそう言って、私の向かい側に座った。

「ムスタファも座れ。それではマリエットが落ち着かない」

 その言葉に木崎はノロノロと彼らしくない動作で立ち上がり、となりに座った。手が離される。

「苦しかったけど、怒ってないよ」と声をかける。

 木崎のムスタファは、分かってると小さな声で返事をした。他所を向いたまま。


 なんだか、まるで後ろめたく感じているかのようだ。きっと私がカールハインツに渡せなくて、アタフタする様を笑ってやろうと考えていたのだろう。


「そういえばムスタファは時間は平気なのか。今日も予定が立て込んでいると聞いているが。私の話は長くなるぞ」

「皆でここで昼食にするか」とムスタファは言って私を見た。「まだ食べてないだろう?」

 うなずく。だけど食欲はゼロだ。


 ヨナスさんが侍従を呼んで、五人分の昼食をここに運ぶよう頼む。

「フルーツを多く」とムスタファが付け足す。

 私の分かもしれない。悔しいけど木崎は伊達にモテてた訳じゃないと、今なら分かる。


「しんどいか?」と木崎。

「平気」

 本当は体が重い。できれば背もたれに寄りかかりたい。だけど何やら落ち込んでいる様子の木崎の前で、そうはしたくなかった。


 やがて軽食が運びこまれた。


「フェリクス。お前の目的とやらをまずは聞かせてくれ」とムスタファ。

「荒唐無稽な話だ」とどこか諦観の表情のフェリクス。「私、というよりここ数十年の交換留学の目的は、バルシュミーデ一族が隠し持っている不死の妙薬の元を奪うことだ」


 木崎と私、それからヨナスさんは驚き無言で顔を見合せた。


「遥かな昔に、人間を狩ることを楽しむ魔族というものが存在したらしい」

 フェリクスがそう話すと、ヨナスさんがちらりとムスタファを見た。だがふたりとも何も言わない。


「その王を我が国の英雄が倒し、不死となった。どうしてなのかは分からないが、魔族の王によるものであることは確からしい」フェリクスはまるで信じていない顔で淡々と話す。

「やがて魔族は消えてその存在を人間たちが忘れた頃、英雄に関する碑が発掘され不死の伝説が明らかになった。人々は不死を望み、魔族の残党を探し始めた。そうして人間に隠れて生きていた新しい魔族の王をこの国の王子が発見し、魔力を奪い氷漬けにして国に連れ帰った。

 だが彼らはどうやっても不死になる方法が分からなかった。魔族の王本人も知らないらしい。彼らはそれを知ろうと我が国に密偵を送りこんだりしたが、秘密が解き明かされることはなかった。

 一方で我が国は、王を奪おうとこちらに密偵を送った。しかしどれだけ経っても魔族の王はみつからないし、不死になる者も現れない。この話を信じる人間はいなくなり、大使が形だけ密偵を兼ねるようになった。だが祖父は違った。より深くファイグリングの内部に潜り込めるよう、交換留学を始めたのだ」


 ムスタファ、ヨナスさん、私の三人で再び顔を見合せた。


「馬鹿らしい話だろう?」とフェリクス。「だが祖父も父も魔族の王と不死の伝説を信じている。祖父なんて不死の英雄に会ったのだと強硬に主張していたらしくてな。私は魔力が高いことと五番目で使い道がない王子ということで、幼少期から密偵になることが決まっていて、その訓練を受けてきた」

「そのせいでひねくれてしまったようで、この性格です」ツェルナーが言う。「こんな王子の管理なんて出来ないと従者は皆逃げ出しました。私は引きこもりだったのに魔法に優れていたせいで陛下に目をつけられて、この通りです」


「当然だろう。存在するとは思えない不死の妙薬の元を見つけない限り、私は帰国できない。ツェルナーも、だ。彼は日に一度母国に報告を入れている。実家の存続を盾に取られているから、役目は全うしなければならない」

 そう言ったフェリクスの顔が翳った。

「もういいです。秘密を打ち明けたことがあちらに知られないよう、頑張りましょう」とツェルナー。


「無論、私たちは他言しない」

 すかさずムスタファが言う。だけどフェリクスは首を横に振った。

「大使、他にも数人密偵はいる。ああ、そうだ」彼は私を見た。「ラードゥロもだ」

「自称泥棒の?」

 そうとうなずく王子と従者。

「あいつは夜の城で、魔族の王が隠されていそうな場所を探す係だ。そのついでに王族の秘密も見つける。庭で密会している王子と侍女見習いなんかをな」

「そういうことか」とムスタファ。「お前がやけに情報通なのは……」

 フェリクスはうなずいた。

「悪用はしていないぞ。城を追い出される訳にはいかないからな。こんな絵空事にしか思えない話をして、『だから信用してほしい』というのは虫のいい話だとは思う。だがこれが私の秘密で、事実なのだ」


 普段は軽薄に見えるフェリクスが、淋しそうな顔をしている。

 本当に信用してもらいたくて、だけど叶わないだろうと考えているのではないだろうか。


 私はムスタファを見た。ヨナスさんも彼を見ている。

「フェリクス。私はお前を信じる」ムスタファは静かに、だけれど力強い声音で言った。「頼みがある。父王を裏切り、私を助けてほしい」

「ムスタファ様!?」

 ヨナスは驚きの声を上げ、フェリクスは虚を衝かれたような顔で瞬いた。


「私は」とムスタファ。「自身のこと、彼女のこと、国民のことと、やらねばならないことが多くある。だがひとりでこなせることではないし、信頼できる仲間もヨナスと彼女しかいない。フェリクスが力を貸してくれれば大いに助かる。だがそれはお前に父王を裏切らせることになる。その上でなお頼みたい。力を貸してほしい」


「……なるほど」フェリクスは呟き、うつむいた。「なるほど、なるほど」

「殿下?」

 ツェルナーが主の顔を覗きこむ。


 しばらくして顔を上げたチャラ王子は、

「私は喜んで君の手を取ろう」

 晴れ晴れとした顔でそう言って、右手を差し出した。光の加減だろうか、その目が潤んでいるように見える。


「心の底から感謝する」

 ムスタファがフェリクスの手を取り、ふたりは固く握手した。

 木崎に信頼できる友人が増えた。素直に嬉しい。ヨナスさんもそんな表情だ。


「それで私に何をさせたいのだ」とフェリクス。

「お前たちが探している魔族の王は、私の母だ」

  突然の告白。

「ムスタファ様!」ヨナスが椅子から飛び上がる。

 それを木崎は片手で制した。

「私はフェリクスとツェルナーを信用すると決めたのだ」

 一方で異国の主従はポカンとしている。


「魔族の王はもういない。だがその血を受け継ぐ私ならいる。連れて帰国すれば、お前は父王に認められるかもしれない」とムスタファ。

 毅然とした横顔は自信に満ち溢れて美しかった。フェリクスが柔らかな笑みを浮かべる。

「私は君の手を取った。翻意はしない。だから『裏切り』か」

 うなずくムスタファ。

「他言せぬと誓おう」そう言ったフェリクスは傍らの従者を見た。

「私も誓いましょう」とツェルナー。


「私も母のことを知ったのはつい最近、偶然にだ。数百年前に人間に捕まった母が何故突然現れ父と結婚したのか、どこにいたのか、何一つ分からない。だが少しでも多くの事実を知りたい。私の生死に関わる」

「生死?」

「人間ならざるモノとして討伐される可能性がある」


 フェリクスは推し量るようにムスタファを見つめ、だけれど口にした言葉は

「そうか」の一言だった。

「対策を幾つか検討していたのだが」とムスタファは一度ヨナスさんを見た。きっとふたりで話合っていたのだろう。「それを手伝ってもらいたい」


 それから、とムスタファはどんどん話を進めた。

 対策のひとつはファディーラ様が捕らわれていた場所を探すこと。フェリクス側も捜索していたなら、絞りこめるはず。


「任せろ。今までやる気はなかったが、怪しい場所は幾つか分かっている」

「そうなのか」とムスタファ。

「この城は増改築を繰り返しているからな。うちの代々の密偵は探し当てられなかったが、私が見つけてみせよう」

「やはりやる気はなかったのですか……」ツェルナーが呆れ口調で呟く。

「巻き込まれたお前は気の毒だと思うが」

「あなたも巻き込まれているでしょう」

 主の言葉を遮った従者を、フェリクスは見開いた目で見た。

「自分の意志で魔族の王を探しに来たのではないのですから」ツェルナーは重ねて言い、「だから自分の意志で剣に政治にと全力を注ぎ始めたムスタファ殿下に、惹かれたのでしょう?」

「……そうなのか?」

「そうですよ」


 フェリクスがムスタファを見る。

「だそうだ!」

「お前に絡まれて迷惑をしていたがな」

 声を上げて笑うフェリクス。

「すぐに私に感謝するようになる。有能で役に立つし、何より人脈もある。ついでに密偵活動のおかげで、付き合いを控えるべき人間も分かるぞ」


 それから彼は私を見て笑みを浮かべた。

「これからは仲間だ。警戒は解いてくれるな」

「それとこれは別だ」すかさず答えたのは木崎だ。「お前の女グセは信用できない」

「人聞きの悪い。改めてよろしく、マリエット」


 チャラい王子が笑みを浮かべる。いつもの軽薄なものではなく匂いたつような色気がある。まさかこれが、ゲームにおける女たらし枠である彼の、本領だろうか。

 不覚にもトキメキながら、ぺこりと頭を下げる。


「なに赤面してるんだ、喪女が」

 となりに座る男から小突かれる。さっきまでの悠然とした麗しき王子はどこに消えたのだ。

「ようやくマリエットの琴線に触れたかな」とフェリクスがいつもの軽薄口調で言えば、

「やめなさい」とツェルナーさんが諌める。

「取り敢えず、食事にしましょう」とヨナスさん。

 卓上の昼食に誰も手をつけていない。

 ムスタファがそうだなとうなずき、食事が始まった。


 みなで細かい話を打ち合わせている。私といえば体が重く、会話に加わる気力が湧かない。長い話の間、気を張っていたせいか怠さが増してしまった。リンゴのジュースをちびちび飲みながら、適当にうなずく。


「宮本」

 ふと気づくと木崎のムスタファが私の顔を覗き見ていた。

「大丈夫か」

「うん」

「食べてない」

「食欲はないかな」両手で握りしめていたグラスを卓に置く。「でも大丈夫」

「本当にか?」とフェリクス。「あの手のものは摂取しただけでも体力を消費するぞ?」

 もう一度、大丈夫と答えようとしたけどその前に抱き上げられた。ムスタファに


「大丈夫だってば」

「お前が食べないなんて、おかしいだろうが」

 木崎はそう言ってスタスタと続き部屋に向かう。

「休みだろ。ここで寝とけ」

 王子の豪奢な寝台に、意外にも丁寧に下ろされる。

「こんなところを誰かに見つかったら」

「鍵を掛けとくに決まってる」

「着替えが……」

「手伝ってほしいのか?」

 バサリとコンフォーターを掛けられる。

「お休み」


 ムスタファはくるりと背を向ける。

「……木崎」

「黙って寝てろって」

「そうじゃなくて」

 もそもそと服の間に手を入れる。振り向いた彼にそれを差し出した。

「これ」

 掌の上には騎士のお守りがふたつ。

「何?」

「ひとつはカルラの。もうひとつは木崎の」

「……」

「騎士のお守りではちょっと意味合いが違うけど、万が一討伐なんてことになっても勝てるようにと思って」


 ムスタファがまじまじと私を見ている。

「もしかして木崎は験担ぎはしないタイプ?」

「……いや。めちゃくちゃする。ありがとな」

「うん」

 木崎はお守りをひとつ手にした。

「じゃあ、ベッドを借りるね」

 残ったお守りを枕元に置き、瞼を閉じる。


「……あと、信頼できる人が増えて良かった……」

 ふかふかの布団に重い体が沈みこんでいく。

 額にひんやりとした手が触れ、優しく撫でられているような気がした。


 ◇◇


 目覚めたとき、自分がどこにいるのか分からなかった。

 ぼんやりした頭で、また転生したのだろうかと考えて。辺りを見回し、剣と縄跳び、ダンベルが目に入ったところで、ここがムスタファ王子の寝室だということを思い出した。


 跳ね起きる。


 あまりの怠さに寝台を借りてしまったけれど、もう大丈夫。ぐっすり眠って復活した。誰かにみつかる前にさっさと起きて、自室に帰らなければ。


 床に足を着きそばの卓上に、ハンカチを掛けられた軽食と飲み物があることに気がついた。本当によく気の回る男だ。


 ──木崎の彼女は、こんな風に優しくされていたのかな。


 そんな考えが頭をよぎる。

 ハンカチをめくり、グラスを手にする。


 と、コンコンとノック音が続き部屋からして、

「起きたかい」とヨナスさんの声がした。

「はい」と答えると、彼が姿を見せた。体調は、大丈夫、そんな会話を交わす。やはり軽食は木崎が置いたようで、ヨナスさんはやけにそれを強調した。

 そんな木崎のムスタファは外出しているという。


「ヨナスさんなしで?」

「君をひとり残して出かけるはずがないだろう? 彼はへルマンを連れて行ったよ。戻るまでここで待っていてくれ」

「ここで?」

 何のために?

「ムスタファ様は不安なのだ」とヨナスさん。「媚薬の効果がぶり返さないかとね」

「そんなことはないと思いますけど……」

 体も頭もすっきりしている。だけど木崎なりに責任を感じているのかもしれない。やりたいことはあるけれど、ここでもできる。


「分かりました。そうしますね」

 出来るヨナスさんは、既にロッテンブルクさんには適当に話を作って連絡済み。ついでにルーチェはあのあと綾瀬のレオンと昼食を食べに再度外出して、まだ戻っていないそうだ。


 王子の寝室を借りて帰宅を待つなんて、ゲーム判定がまた狂いそうではあるけれど。もう、なるようになれという気持ちもなきにしもあらず、というかなんというか……。


 ◇◇


 隣部屋から話し声が聞こえてきた。木崎が帰ってきたらしい。だけどへルマンの声もするので、気配を消して座ったまま手だけサクサクと動かす。

 それほど待つことはなく、ムスタファがやって来た。

「体調はどうだ」

 第一声がそれか。

「ふかふかベッドのおかげで絶好調。お帰り」


 そばまでやって来た木崎は、卓上に置かれた私の成果に目を見張った。

「ミサンガか」

「そう。手芸店で刺繍糸を見ていて思い出したの。作るのなんて高校ぶりだけど、案外覚えているものだね」

 大会前になると先輩に贈ったり、同学年の子たちと交換したり。職人かってくらい作りまくった。


「俺も山ほどもらったな」と木崎。

「はいはい」

「本当だぞ」

「スゴイネー」

「信じてねえ口調はやめろ。で、なんで幾つもあるんだ?」


 ミサンガは今のところ完成品がふたつ、編みかけがひとつ。

「自分の分でしょ。それからルーチェさん。ちょっと悩むのが、綾瀬」

 作ろうと考えたときは綾瀬も普通に頭数に入っていた。カールハインツとの外出をセッティングしてくれたお礼のつもりで。だけど私にとってはお礼でも、綾瀬はそれ以上に喜んでしまいそうだ。


「綾瀬?」不機嫌な声。「気をもたせるなと言ったよな」

「だから悩んでい……」

「悩む必要はねえだろ、当然なしだ。そんなことも分からねえのかよ、喪女は。三十路のくせに恋愛経験値が低すぎ。天然が可愛いのは高校生までだろ」


 なんだそれは。そんな頭ごなしに貶さなくてもいいじゃないか。


「まさかフェリクスの分もあるんじゃねえだろうな」

 それは、昼間のことから数に入れようかと悩んでいたところだ。

「もっと考えろ。シュヴァルツを攻略するんだろ。あちこち愛想を振り撒いているから好感度が上がらねえんだよ」


「確かにそうかもしれないけど。助けてもらったお礼をするのは普通だよね。誰かさんみたいに付き合う相手を取っ替え引っ替えしたことがないから、機微が分からなくても仕方ないじゃない。そっちこそ、いいトシしてもう少し優しい言い方はできないの?」

「宮本相手にか? 不毛だろ」

「木崎は訳が分からない」


 優しかったり、そうじゃなかったり。昔は常に優しくなかったから、悩むこともなかったのに。

 手芸店の紙袋にミサンガや刺繍糸を詰めて立ち上がる。


「戻るね。今日、カールハインツにね『ムスタファ殿下のマリエット』なんて言われたの。泣くかと思ったよ。自分こそ言動をよく考えて」

 じゃ、と続き部屋を出る。と、眉を下げたヨナスさんがこちらを見て立っていた。雰囲気の悪い会話が聞こえていたのだろう。


「お世話になりました」

「……いや」

 廊下に出る扉へ向かう。きっちりと閉じられている。

「マリエット」

 ヨナスさんに呼び掛けられて、扉に伸ばしかけていた手を止めた。

「明日の朝、ちゃんと来るのだよ」

「もちろん。仕事ですから」


 王子の従者に頭を下げて、部屋を出た。


 ◇◇


 自室に戻り着替えを済ませて気がついた。

 騎士のお守りがカルラの分しかない。カールハインツにもらったものは、区別できるように別のところにしまっておいたのだけど、そこには入っていなかった。

 記憶違いだろうかと服も持ち物も全てひっくり返して探したけれど、みつからなかった。きっとムスタファの部屋に落としてきたのだ。

 

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