19・ムスタファの母

 約三ヶ月ぶりに訪れたベルジュロン公爵邸。

 応接間に通されて一通りの挨拶が済むと王子と夫人が対面に座り、私とヨナスさんは王子の斜め後ろに立った。彼の横顔が少しだけだけど見える位置だ。

ムスタファは物言いたげに私を見たものの、何も口には出すことはなかった。部屋には私たち四人だけ。


「さて、ムスタファ殿下は何をお聞きになりたいのでしょう」

 老齢の公爵夫人は背筋を伸ばし肩を張り、美しい総白髪も上品に結い上げている。威厳も気品も貫禄もある方だ。


 ムスタファは自分の母について、名前しかしらないこと、王宮にいる者に尋ねてもパウリーネに忖度しているのか誰も何も語らないこと、父ですら例外でないことを説明し、母のことならばどんな些細なことでも良いから教えてほしいのだと頼んだ。


「なるほど、そういうことですか。王宮は元より社交界からも遠ざかり、死期が近い私には忖度など必要ありませんからね」


 死期だなんてと、ムスタファが言う。


「老人である事実は覆せませんから、お気になさらずに。むしろ私が生きているうちで良かったと言えるでしょう。あなたのお母様、ファディーラ様のことはよく覚えています。それは美しい方でした」


 ムスタファの表情がさっと変わった。期待に満ちた顔だ。


「身体が弱いうえに人付き合いが苦手だとのことで社交界に顔を出すことはほとんどなく、公式行事ですら欠席することが多々ありました。夜に行われる晩餐会で時おり見かける程度でしたから、『夜の女神』や『月の女神』と呼ばれていましたね」


 殿下とほぼ同じ通り名です、と公爵夫人は微かに笑みを浮かべた。

 だけどファディーラ様が夜しか現れなかったというのは、もしや魔族の習性ゆえではないだろうか。ムスタファの顔もわずかに緊張を帯びたようだ。

「お母様のことを話す前に、お父様のことから始めましょう」



 フーラウムは二代前の国王の末子。母は男爵家の娘で、寵妃という立場だった。その母は出産が原因で死去。王は遺された王子に興味はなく、母親の実家も力がなかったために、フーラウムはぞんざいな扱いを受けており、そのせいなのか彼は内向的で存在感の薄い子供だったという。


 そんなフーラウムを唯一可愛がっていたのが、先代国王である、第一王子のグレゴワール。フーラウムに何かあれば、グレゴワールが必ず助けの手を差しのべていたそうだ。


 そのように大人しいフーラウムがある日突然美しい女性を連れてきて、王子の位は返上しても構わないから彼女と結婚すると言い出した。それがムスタファの母、ファディーラ様だった。

 彼女の出自も、ふたりがどこで出会ったのかも明らかにせず、ただただ自分たちは深く愛し合っている、結婚するとのだと主張するばかりで周囲は困り果てたという。


 えっ、とムスタファは『月の王』らしくない、大きな声を上げた。

「母と父は愛し合っていたのですか?」

 おもむろに夫人はうなずく。


 そこでグレゴワールは懇意の侯爵家にファディーラ様を養女に迎え入れさせ、王子妃として相応しい体裁を整えた。それから半年ほどして結婚。


 ただファディーラ様は人々から距離を置いており、女性貴族からも侍女たちからも敬遠されていた。

 そんな中でひとりだけ、自ら進んで専属になった見習い侍女がいて、それがパウリーネ・ベーデガーだったそうだ。


 パウリーネ・ベーデガーの母親は出自が不確かな平民で、しかも国に属さない魔術師だという。

 当時のベーデガー家は、数代前の当主による事業の失敗から立ち直れておらず、財政は火の車、焦りからなのか領地経営も民のことを考えない愚策続きで、民衆の蜂起がいつ起きても仕方ない状況だった。

 だからパウリーネの父、ベンノが怪しげな娘と結婚したのは、彼女の魔術で民衆から身を守るためとも、錬金術で金稼ぎをするためとも噂されていたそうだ。


 そのような状況だからベーデガー家は社交界に居場所はなく、当然パウリーネの縁談もまとまらなかったらしい。

 侍女見習いとして王宮に上がったパウリーネはファディーラ様の専属になり、すぐにふたりは主従の域を越えた気のおけない間柄となったそうだ。



「母とパウリーネは仲が良かったのですか!」

 ムスタファが前のめりになって尋ねる。

「そう。あまり人前に出てくることのないふたりでしたが、ファディーラ様がいるところには必ずパウリーネが控えていて、ふたりの間には笑いが耐えないという話でしたし、私もその様子を何度か見かけました」


 ムスタファが振り向いてヨナスさんを見る。複雑な表情だ。ヨナスさんのほうも戸惑った顔をしている。



 フーラウムとファディーラ様は幸せな日々を送っていたが、妊娠したファディーラ様の産み月が近づくにつれ、フーラウムの様子がおかしくなっていったという。

 そうしてついには、

「ファディーラはとんでもない悪人であった。すっかり騙されていた。離婚する」

 と騒ぎ始めたのそうだ。

 ファディーラ様も兄王のグレゴワールも彼の豹変の理由が分からず困惑し、パウリーネは原因を知らないまま、ふたりの仲をなんとかとりもとうとしていたという。


 そんなパウリーネをフーラウムは健気だ、愛おしいと言い出す始末。間もなくファディーラ様はムスタファを産み、その一週間ほどのちに、ベッドで誰にも看取られずにお亡くなりになっているのが見つかったそうだ。


 医師の診断によると、産後の肥立ちが悪かったことによる衰弱死だという。



「そうそう。『ムスタファ』というお名前はまだ仲の良かったころに、夫婦で相談してお決めになったそうですよ」

 公爵夫人がやや表情を緩めた。



 ファディーラ様の葬儀が済んですぐに、フーラウムはパウリーネと結婚すると言い出し、当初は反対していたグレゴワールもやがて根負けして、許可を出した。それまでパウリーネは乗り気ではないようだったのに、許可が降りたとたんにふたりは結婚し、仲睦まじいおしどり夫婦となったという。


 当然すぐに、パウリーネがファディーラ様から夫を略奪したのだという噂が立った。

 だが夫婦を批判した者たちが立て続けに病死し、いつのまにかあの夫婦に楯突いてはならないという風潮になったそうだ。



 語り終えた夫人は卓上のカップを手に取り、お茶をこくりと上品に飲んだ。

「こんなに喋ったのは、久しぶりです」

「……ありがとうございます」


 ムスタファが礼を言う。だけどやはり声も沈んでいるようだ。


「思うところは、色々とおありでしょう」と公爵夫人。「ただ、これは殿下のご両親の過去にしか過ぎず、あなたにはあなたの現在と未来があります。どちらに重きを置くべきか、お分かりになりますね」


 分かります、とうなずくムスタファ。

「しかし故あって、私は母のルーツを知らねばならないのです。一体どこから来たのか、そしてどのようにして父と知り合ったのか」

 なるほどと答えた夫人は目をつむり、しばし沈黙した。


 ややあってから目を開いた彼女は、

「知る者がいるとすれば、やはりフーラウムとパウリーネでしょう。ファディーラ様が親しくしていたのは、他にいません。当時のフーラウムの従者もとうに辞めているはずですし、彼に友人はいませんでした。ファディーラ様が養女に入った侯爵家は存続していますが、現在の当主は平民になっていた遠縁の者なので事情は知らないでしょう」


 ムスタファがうなずく。ヨナスさんがそちらにはかつて問い合わせたが何も分からなかったと、先日話していた。


「力になれずに申し訳ありません」と夫人。

「とんでもない。貴重なお話、大変にありがたく拝聴させていただきました」

「他にお聞きになりたいことは?」


 ムスタファは少し考えてから

「母の魔力がどうだったか、お分かりになりますか」と尋ねた。

 ふたたび目をつむる夫人。


 しばらくして、

「……記憶にありません」と答えた。「ただ、彼女には美貌以外に取り柄がないと嘲笑する者がいましたから、一般より優れていたという可能性は低いのではないでしょうか」


 だけれどファディーラが嘲笑を敢えて受け入れ、その実、魔族としての力を隠していたということもありうるだろう。


 結局、ムスタファの母君は、よく分からない人だということが改めて分かっただけであった。


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