17・伝説
廊下を進む。窓の外は夜闇の中を強い雨が降っていて、そういえばヨナスさんの代理でムスタファの髪の手入れに初めて行った晩も雨だったなと思い出す。もう二週間ほど前になる。
今晩、ムスタファはヨナスさんにゲームのことと、自分が半魔であることを打ち明ける。実は前世の記憶がよみがえってから血筋のことを話すかを悩んできたそうだ。彼に隠し事をしたくない気持ちと、打ち明けたことで不安にはさせたくないとの思いが拮抗していたという。
だけどついに、腹が決まったそうだ。
そして何故か私も同席しろと言われた。ゲームについては私のほうが詳細に説明できるからだそうだ。
ムスタファの部屋に着く。
私は王子ムスタファが半魔だと最初から知っていたから何も思うところはないけれど、一般的にはどうなのだろう。
ヨナスさんなら大丈夫のはず。木崎だって、そのことについての心配はしていなかった。心配をかける心配をしていただけだもの。
目前の扉をノックする。すぐに開いてムスタファが顔を見せた。
「あれ。ヨナスさんは?」
「いる。入れ」
僅かに緊張を見せるムスタファ。後について中に入ると、長椅子の真ん中にヨナスさんが背筋を伸ばして座っていて、私を見ると笑みを浮かべた。
座れと私に言ったムスタファは、ヨナスさんの向かいの長椅子の、真ん中より外側に座る。これは私にとなりに座れということだろう。けど、なんかヤダ。
円卓の元にある椅子をよいしょと持ち上げて、運ぶ。
「……何をしているんだ」とムスタファ。
「ふたりが見える位置に座りたい」
「今さら」
と呟いたヨナスさんがさっと立ち上がって、椅子をムスタファの左側ヨナスさんの右側、窓を背にする位置に運んでくれた。
よく見たらローテーブルの上には三つのグラスがあり、そのひとつをムスタファがため息混じりに私の前に置く。それから彼はヨナスさんの正面に座り直した。
「それでお話というのは」
にこにこヨナスさん。
「私とマリエットには、他の世界で別の人間として生きていた記憶があると話したな」と、ムスタファ。
私の胸は異常にドキドキしている。
それから彼は、前の世界に存在した架空の物語とこの世界が酷似していること、その物語は恋愛もので、ヒロインの動きによって変わる幾つかの結末があったこと、現在は物語の前半に当たることなどを丁寧に説明した。
コンピューターゲームの概念を、今の世界の人間に理解してもらうのは難しいだろうということで、木崎は架空の物語と説明した。
「──ここまでの理解はできたか?」
とムスタファ。はいと明瞭に答えるヨナスさん。
「それで、だ。肝心のヒロインがマリエットだ」
「……恋愛相手は、カールハインツ・シュヴァルツという訳ですか」
さすがヨナスさん。理解力だけでなく、考察力も高い。
「フェリクスやバルナバス、私も候補に入っている。だが彼女が望むのはシュヴァルツだ」とムスタファ。
するとヨナスさんは大きく息を吐いた。
「あなたから話がある、マリエットも同席すると聞いたとき、私がどう思ったか分かりますか?『ようやく恋人になった報告を受けるのだ』ですよ。ぬか喜びでしたか」
「だから彼女は違うと言っているだろう!」
「はぁっ」わざとらしく、再びため息をつくヨナスさん。「まあ、分かりました。がっかりですけどね」
それからムスタファはゲームについての説明を少しと、レオンである綾瀬はここが物語の世界とは知らないことなどを話した。
ヨナスさんからすれば到底真実とは思えないことだろうに、彼は全てに対して『理解不能ではあるが信じる』と受け入れた。それは恐らく、ムスタファへの信頼によるものだろう。
「それで、この物語における私の設定なのだが、私の母は魔王で私は半魔。マリエットの動き方によっては魔王として覚醒する」
ムスタファが固い声で告げる。
しばらくの間のあと、ヨナスさんは目を見開きポカンと口を開けた。
「魔王というのは、人でないものを統べる王だ」
ムスタファがつけ加える。
痛いほどの緊張を感じる。
「私の半分は人間ではない」
長い沈黙。それから。
「……ご存知だったのですか」
ヨナスさんははっきりと、そう言った。
ヨナスさんの言葉に私たちが仰天した。
「お前、知っていたのか? どういうことだ。まさか魔王化に関係あるのか」
ムスタファが前のめりになって早口でまくし立てる。
「あ、いえ」とこちらも慌てた様子のヨナスさん。「あなたが魔王として覚醒なんて初耳です。てっきり、ほぼ人間なのだと思っていました。私が知っているのは、あなたのお母様ファディーラ様のことです」
ええと、とヨナスさん。
「『半魔』とは魔族と人の間に生まれた者を指しているのでしょうか」
うなずくムスタファ。それを受けてヨナスさんも首を縦に振った。
「ですならば、あなたの兄にあたる半魔が、シュリンゲンジーフ家の始祖なのです」
何から話しましょうと、しばし考えていたヨナスさんは、
「長くなりますが、やはり最初から」
と言ってシュリンゲンジーフ家に伝わる伝説を語り初めた。
◇◇
かつて地上には人族と魔族がいた。
魔族の外見は人族とほぼ変わらなかったけれどひとつだけ違いがあって、それは頭部に生えた、羊のものによく似た一対の角だった。
見た目の違いはそれだけだったが、性質はまるで異なった。
魔族は人族の何倍にもなる強い魔力を持ち、それにより高度な文明を誇っていた。けれど彼らの力の源は月で、日の出から日の入りまでの時間は眠り活動するのは夜だけ。更に新月の日は魔力が消えたのだった。
不便さはあったものの、魔族は月の光で育つ穀物や野菜を育て、家畜を飼って生活をし、時には人族と交易もしていた。そうして長い間、魔族と人とはつかず離れずの距離で共存をしていた。
ところが魔族の力は角に宿っており、それをすりつぶしたものは人族のあらゆる病を治す万能薬だという噂が人族界に広まったのだ。人は魔族を狩り始めた。魔族が目を覚まさない時間、魔力のない朔月に襲撃をしては殺戮を繰り返す。瞬く間に魔族の数は半減した。
ついには魔族の王が民を守るために人族に宣戦布告をし、戦が始まった。しかし魔族の魔力は強かったものの、元来は戦う力ではなかったこと、活動できない時間があったこと、数で圧倒的に劣っていたことにより、敗北。
魔王は人族の勇者に倒され、魔族のほとんどが殺された。
難を逃れた魔王の子と僅かな生存者のみが血まみれの国から逃げ出して、人族にみつからない安息の地にたどり着いたのだった。
◇◇
「このときの勇者がバルバーリッシュ国の初代国王と伝わっています」
とヨナスさん。
「フェリクスの先祖ということか」
ムスタファの言葉にヨナスさんがうなずいた。
バルバーリッシュは隣国でフェリクスの国だ。
「今では人族は、この伝説はおろか、かつて魔族がいたことすら忘れています」
「ああ。知らなかった」とムスタファ。
「そうして今を遡ること数百年前、バルバーリッシュの古い遺跡から、初代国王に関することが書かれた石碑が見つかりました」
『魔王を倒した勇者は奇跡の源を譲り受け、膨大な魔力を持ち不死となった。
だが死ぬことのない彼を、人はみな恐れ敬遠するようになった。
やがて孤独にさいなまれた王は、その位を息子に譲り、逃げのびた魔族を探す旅に出た。新たな魔王に人に戻してもらうため』
それが石碑の内容だったという。
「この時代ですでに魔族のことは忘れ去られていました。だけれどバルバーリッシュの王は、すぐに新魔王を探し始めたのです。自分も不死になるために」
バルバーリッシュの王は兵に世界中を探させたが、魔族はみつからず、やがて死んだ。次の王もまた、探索を指示した。
やがて魔王が人を不死にしてくれる噂は広まり、各国の王、野心家、冒険者が魔族探しに血眼になったのという。
そうしてついに人族は、山あいの秘境でひっそりと暮らす魔族を見つけた。
彼らはためらうことなく襲撃したが、ことごとく反撃にあう。
そんな中ひとり、ファイグリング国の王子は注意深く彼らを観察し、新月の晩は魔族は魔法を使えないことを突き止めた。また、統率者は王の娘と呼ばれている女性で、出産したばかり。彼女は赤子をことのほか可愛がっていた。
「この女性が最後の魔王で、あなたの母上ファディーラ様です」とヨナス。「人族全てが悪人ではない。彼女の夫は人間で、赤子はあなたの言い方では半魔でした。王子は新月の晩に来襲し、魔族の半分を殺し、魔王の夫も妻の目前で殺して、赤子を人質にとった。そうして『奇跡の源』を要求したのです。ファディーラ様は残った民と赤子の命と引き換えに、自ら角を切断して王子に差し出した。だけど、角では王子は不死にならなかった」
「奇跡の源は角ではない?」とムスタファ。
「そのようです。怒った王子は残った魔族を皆殺しにし、ファディーラ様を氷り漬けにして連れ去った。ただ、赤子だけは人族である父親の妹が機転をきかせて逃がすことに成功したのです」
それから王子は『奇跡の源』が何を指すのか、古文書をあたったり、勇者伝説を採取しようとしたようだという。
一方で生き延びた赤子は角を隠してひっそりと暮らしていたが、長じると父と叔母の故郷シュリンゲンジーフのために力を尽くしやがては領主となり、その息子の代で国家として独立した。
「初代が魔族の血を引いているとはいえ」とヨナス。「混血が進み、私たちに魔族の特徴はありません。だけど初代の悲願、母であるファディーラ様を取り返すという思いだけは、脈々と受け継がれてきました」
ムスタファの顔が強ばっている。
主従の顔を見比べて、私は静かに立ち上がるとムスタファのとなりに座り、その手を握りしめた。ちらりと寄越される視線。だけど言葉はなかった。
「シュリンゲンジーフにはこれらを詳しく記した書物があったのです。が、火事によりそれらは全て消失してしまい、以来、口伝で伝えられてきました。その火事のとき、当主が命がけで守りぬいたものが、ファディーラ様の肖像画です」
「母の肖像画があるのか!」
今度お見せいたします、とヨナスさん。「ただそれは、両親の顔を知らない赤子を不憫に思った叔母が描いたものなので、信憑性は低かったのですが、あなたに会って驚きました。瓜二つでした」
私の手の中で、ムスタファのそれが強ばったのが分かった。
「誤解しないで下さい」
ヨナスさんが柔らかい笑みを浮かべる。
「私があなたに仕えたのは、単純にあなたをお守りしたいと思ったからです。ファディーラ様のお子だからでも、シュリンゲンジーフ家の悲願のためでもない。父がすんなりと許可してくれたのは、そのためですけどね」
「……本当か?」
「当たり前です」強い口調できっぱりと言うヨナスさん。「我が家の悲願との思いは強いですが、私とて公子。他人に仕えるなんて、普通ならば考えません。あなただからですよ」
ムスタファがほっと息をついた。表情も和らいでいる。
「母は何百年もここで氷り漬けになっていたのか」とムスタファ。
「分かりません。シュリンゲンジーフの密偵が何度となくこの城を探索しているのですが、手がかりは見つかりませんでした。恐らくはこの国の者もファディーラ様の存在を忘れていると思われます」
それがなぜ突然解放され、王子妃となったのか。もしや誰かが不死となったのか。彼女の死はそれと関係があるのか。
ヨナスさんは密かに調べたけれど、何も分からなかったという。
そしてムスタファに角も夜行性の特徴もないから、人間に近いのだと考えていたのだそうだ。
ムスタファが私を見た。
「魔王化した俺って……」
「うん、角がある」
「あるのですか!」ヨナスさんが声を上げる。
この機会にちょっと恥ずかしくなってきた手をムスタファから離そうとしたら、握り返されてしまった。視線は合わない。
木崎らしくないけど、まだ心細いらしい。黙ってされるままにしておく。
「物語だと、とある契機で彼が覚醒して魔王になるエピソードがあるのです」ヨナスさんに向かって話す。「そうするとこの世界は滅んで闇の世界になるのです」
「ヨナスの話では、魔王にそこまでの力があるようには思えないな」とムスタファ。
「魔族の真の力は誰にも分かりません」とヨナスさん。
ううむと三人で考えこむ。
「とにかく」とムスタファがまとめるように口を開いた。「私は半魔で魔王になる可能性がある、それをヨナスに伝えたかったのだ」
「しかと伝わりました」にこりとするヨナス。
「私は魔王になりたくないし、闇の世界も望まない」
「ええ。それが一番です」
ヨナスさんの言葉に、ムスタファの顔が一層和らいだ。
良かった。
「実はですね」
ヨナスさんは少しだけバツの悪そうな顔だ。
「ファディーラ様一連の件に、パウリーネ様が何か噛んでいるのかと、疑ったことがあります」
パウリーネが、と繰り返すムスタファ。
「ええ。不死とは違いますが、外見が全くお年を召さないので」
「あ、それは」
思わず口をはさむと、ヨナスさんは分かっているというかのようにうなずいた。
「ご実家秘伝の秘薬があるそうですね。ロッテンブルク殿も分けてもらっているとか。貴重な薬草を大量に使うので、少量しか作れない。薬草はこの辺りで生育しないものだから、庭師ベレノが温室で育てている」
「だからパウリーネは温室に他人を入れたがらないのか」とムスタファ。
「ええ。彼女は薬草を盗られる心配をしているようですね。ちなみにこれはトップシークレットです。とは言っても」ヨナスさんの顔に苦笑が浮かぶ。「あのような性格の方ですから。親しいご夫人たちはみな知っていらっしゃいます」
ヨナス調べによると、どうやらパウリーネの母親の両親どちらかがフリーの魔術師だったらしい。
「王妃の母の両親のことなのに、どちらが魔術師か分からないのか?」とムスタファ。
「はい。貴族ではなかったので記録がないようです。妃殿下はご存知かもしれませんがね」
パウリーネはファディーラ様の御逝去時に城にいたし、外見はいつまでも若いままだから、ヨナスさんは疑いを持ち、調べたのだそうだ。
不死かどうかを確かめる術はなく、外見は秘伝魔法と努力の賜物。奇跡の源を譲り受けていたら膨大な魔力を持つはずだが、彼女は一般的なレベルしかない。
ということで、ヨナスさんは疑いを解いたそうだ。
そしてファディーラ様については何もわからないまま、今にいたるという。彼が勤続四十年の侍従長に尋ねたときの返答は、
「パウリーネ妃に忖度して口をつぐんでいる部分もあるが、彼女については本当に分からないことばかりなのだ」
だったそうだ。
「そうか。……まあ、母のことはいい」とムスタファ。「それよりもヨナスは私に訊きたいことはあるか」
「ええ。魔王に覚醒する原因は何なのでしょう」
その質問は私が一番避けたいものだった。
木崎のムスタファが、
「要因はいくつかあって、ひとつは母の件。きっかけになるのはマリエットだ。彼女が酷い目に遭い、私が激怒する」
と答えて私を見た。
「だよな?」
うなずく私。
「酷い目とは?」とヨナスさん。
「言いがかりをつけられて、窓から突き落とされる」ムスタファが答える。
うん、だいたいそんな感じ。
「言いがかりって、どんな?」とヨナス。
「そうだな、どんな風にだ? 俺も詳しく知らない」とムスタファ。「起こることはないだろうが、万が一俺ルートになったときに備えておいたほうがいいよな」
ふたりの目が私を見る。なんとなく木崎には話したくなかったのだけど、しょうがない。
「バージョンアップ後だと『孤児風情が、ムスタファ殿下の寵愛を受けるなんて』と貴族のご令嬢に言われる」
「なんだよ、バージョンアップ後って」
「最初のシナリオは違ったらしいの。全年齢対象ゲームのセリフとして良くないからって、すぐに変えたみたい」
「元のセリフは?」
「『孤児風情が、ムスタファ殿下のお子を授かるなんて』という……」
「は!?」
私が最後まで話さないうちに木崎のムスタファが声をあげた。
「言いがかりにしても、あり得ない」
「私に文句を言われても」
ずっと握られていた手が離れる。
「そんな噂が流れる原因はムスタファの溺愛が激しいからだよ」
「俺はお前を溺愛なんてしねえし」
「知ってるよ」
「それで」ヨナスの静かな声がした。「突き落とされて、マリエットはケガをしないのですか?」
「……するから、私が怒る」木崎から王子に戻るムスタファ。
「どの程度?」
また二対の目が私を見た。
どうするか迷い、溺愛ルートはないのだから、と正直に話すことにした。
「……お腹を串刺し」
「串刺し!?」とふたりが声を揃えて叫ぶ。
私が窓から落ちた先に、槍を持った彫刻があるのだ。私はそれに串刺しになる。中空でその状態にある私を、誰も助けない。
というか魔法でなければ助けられないのだと思う。実際にその彫刻を見たら、かなり高さがあるし、周りにある植木などの関係から脚立を置くのも難しい。
とにかくも、槍にお腹を貫かれ苦しむ瀕死のマリエット。人々は見ているだけ。母親の死について何かを知り、ショックを受けたばかりだったムスタファは、怒りを爆発させる。
それがゲームにおける、ムスタファ魔王覚醒の流れのはずだ。
話を聞き終えたムスタファの顔は、蒼白だった。以前だったら何故と不思議だっただろうけど、今は分かる。心配してくれているのだ。
「大丈夫だよ。ムスタファは絶対に選択しないから」
「その事態は避けられるのか」ヨナスさんが訊く。
「はい。物語には幾つものバージョンがあるのです。彼が魔王化するのは沢山あるバージョンのひとつに過ぎないですし、私がそれを選ばなければいいのです」
「……なるほど。それともうひとつ。質問があります」とヨナスさんはムスタファを見る。
「あなたが魔法を諦めないのは、魔王として覚醒することをご存知だったからですか」
「そうだ。魔王化なしで魔法を使えるようになりたい」
「しかし、どうして今は魔力も角もないのでしょう」ヨナスが首をひねる。「ファディーラ様があなたをお産みになられたとき、角はなかった。だからあなたにも角はなく、夜行性でもなく、人に近いのだと考えていたのです」
何故だろうと三人で考える。が、
「考えたとて、正解がわかるはずがない。自力で何とかするまでだ」とムスタファ。
「そうですけど。あなたは全てに全力だから心配です。少しでいいからやり方を変えていただきたい」
「……考えておく」
ふうん。ムスタファはヨナスさんの言葉は聞くのだな。私にはムリと断言するだろうに。
「今の疑問はこれぐらいですね」
ヨナスさんはそう言って、立ち上がった。
「失礼して茶の用意をしてきます。ふたりとも、温かいものを飲みたい気分ではありませんか?」
茶器を取って参りますと、ヨナスさんは部屋を出ていった。
平静に見えるけど、もしかしたらひとりになって落ち着きたかったのだろうか。
ちらりと木崎のムスタファを見ると、ちょうど向こうも私を見たところだった。
「……ヨナス。予想外だった」ムスタファがぽつりと言った。
「そうだね。まさかムスタファの血筋を知っているなんて思わなかった」と私。
それどころか、詳しい魔族の歴史まで。
「俺が覚醒する一因。さっき聞かされた話もあるだろうな」
「そうだね」
胸が痛くなる話だった。魔族も、ムスタファの母君も。
「お母様のこと、調べてみよう」思いきって言う。
ゲームだと彼女の死の真相をムスタファは知る。つまりどこかには、それを知る人物が存在しているのだ。彼女のことを詳しく知っている可能性だってある。
「本当は気になるのでしょう? どんな人だったのかとか、自分のことを大切に思ってくれていたのかとか。だって私も平気なふりをしているけど、本当は自分のお母さんのこと、すごく知りたい」
ムスタファの紫色の瞳が私を見ている。
「前は関わらないほうがいいって言っちゃったけど、撤回する。調べたぐらいで木崎は魔王化しない。絶対。だから、調べよう」
しばらく私をじっと見ていたムスタファは、
「平気なふりをしているんだ」
と言った。カッと顔に熱が集まる。
「そうだよ。私、ずっといつかお母さんが迎えに来てくれるって信じていた。だって手紙にそう書いてあったもん」
込み上げる苦い思いを飲み込む。
「私のことは、いいから。あなたのお母様の話」
ムスタファが腕を上げた。
と思ったら、抱き寄せられた。
「木崎!?」
背中を優しくポンポンされる。
「淋しいな」声まで優しい。
「……うん」
私は素直に答えた。
「俺も淋しかった。ずっと。パウリーネに愛されているバルナバスが羨ましくてしょうがなかった。なんで俺の母親はいないんだって思っていたよ。ヨナスに会って、淋しさは和らいだけど」
「うん」
私も背中に手を回して、ポンポンした。
だけどムスタファはすぐに離れた。
「よし。俺とお前の母親、どちらについても調べよう」
「う……」
うんと答えかけて、それはまずいのではと気がついた。私が侍女になった本当の理由は口外してはならない約束だ。
調べるならば木崎にきちんと話したい。話すならば後援者の承諾を得るべきだろう。
「宮本?」
私を不思議そうに見ているムスタファ。
「あ、ええと」
まずはロッテンブルクさんに話して、後援者に連絡を取ってもらわないといけない。表向きに繋がりのある公爵夫人にも話すべきだろうか。あの老齢のご夫人がどこまで関わっているのか、判然とはしないのだけど、一応……。
「あ」
と思わず、声が出た。
「私を侍女に推薦してくれた公爵夫人。あの人はパウリーネ様に忖度しないかもしれない」
老齢の公爵夫人。二十年前に夫とひとり息子を流行り病で立て続けに亡くして以来、社交界から遠ざかっていると聞いている。だから私の件に協力してもらうのにちょうど良いのだと、子爵が話していた。
私のことは抜きにして説明をすると、木崎は
「そうだ。ヨナスも社交界に出ていないからどんな夫人なのか、誰も知らないと話していた」
「ん? それはいつ?」
「……お前の身上書を見たとき。悪い」
「別に、怒ってないよ」
夫人は表向きは推薦人であるから、定期的に手紙を送っている。返事は来ないけど、読んでくれてはいるらしい。一度だけ執事から、夫人が楽しみにしているようだから、今の頻度で手紙を頼むと連絡が来た。
「連絡してみる。少し時間はかかると思うけど」
「頼む。お前の母親は、どこから手につけるかな。まずは孤児院の職員に聞き取りか?」
「私のお母さんは後でいい。私はそんなに自由時間ないし。まずはムスタファのお母様のことに時間を使おう」
ムスタファの顔が明らかに不満気になった。
「自由時間か。お前が俺の専属になればいいのか?」
「いや、それは」
ふうと王子はため息をついた。
「分かってる。カールハインツ攻略にはマイナスだから、やらねえよ」
それに、と言って木崎は更に大きなため息をついた。
「さっきの、お前が俺の子を、って言いがかり。絶対にパウリーネのせい」
「へ?」
思わぬ言葉に素っ頓狂な声が出た。木崎が小さく笑う。
「あいつ、完全に勘違いしてる上に、ひとの話を聞かねない。お前がカミソリでケガをしただろ? あの犯人に、マリエットは俺の大切な娘だから手出しするなと言ったらしい」
「何それ!」
「しかもパウリーネ、俺にマリエットは俺の愛人だと宣言したほうがいいなんて勧めた。俺が女に興味を持ったと安堵しているとかで、完全に浮かれている。だから言いがかりの元凶は彼女に違いない」
確かにあの、のんびりほのぼのパウリーネなら良かれと思って悪気なく余計なことをしそうだ。それに孤児風情が王子にまとわりつくなと怒ることはなさそうだし、むしろ
「あら。お幸せにね」
と言いそうな雰囲気はある。とは言え、愛人宣言だなんて。
「……ご理解のあるお義母様だねとしか、フォローが思い付かない」
「必要ねえ。時間の確保はヨナスと考える。そういえば、あいつ遅いな」
そうだねと答えながら立ち上がり、元の椅子に座り直した。
……木崎は女の子を抱き寄せるのなんて慣れているだろう。でも私は違う。単純に励ましてくれただけと分かっていても、なんというか、恥ずかしい。私も背中に手を回しちゃったし。
手を握りしめたのも、心配だったからものすごく勇気をふりしぼってやったんだけど。やっぱり、恥ずかしい。
ヨナスさん、早く戻って来ないかな。
するとタイミングよく扉が開き、大きな銀の盆を持ったヨナスが帰ってきた。
「お待たせしました。お茶を飲んで落ち着きましょう」
その安心感のある声にほっとした。
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