15・カミソリ

 会合は無事に終わり、私も任された仕事をきちんとこなせた。気になるのは、私が話を聴きながらまとめた書き付けをムスタファはオーギュストたちに見せて、どういう訳かドヤ顔をしていたこと。なぜお前が自慢気なのだと思ったけど悪い気はしなかった。


 城に戻ってムスタファに次の仕事を言いつけられたけど、講義のノートを書き直すことだった。昨日のものだそうだ。

 ムスタファの私室。長椅子に座りお茶を優雅に飲む王子を横目に、私は朝食に使っていた円卓でその仕事を進める。


 しばらく経つと王子は

「進行具合は?」

 とやって来て、向かいの椅子をくるりと半回転をさせ跨がると、背もたれの上に両腕をのせた。

「その姿勢、王子としてどうなの? 書類は、ぼちぼち」

 これを書いた侍従は一言一句書き漏らさないように頑張ったようだ。速記を頑張りすぎて字が非常に読みづらい。


「なあ、シュヴァルツの報告。詳細を話せよ」

 ペンを止めて王子の顔を見る。

「……詳細?」

 詳細とうなずく王子。人参の承諾を得たことはとうに連絡済みだ。それ以外となると……。


「綾瀬の友達にレオン推しをされた」

「あいつに友達がいるのか。知らねえな」

「うん。良さそうなひとだった」

「つまりシュヴァルツにはまた何かをやらかしたから、話したくないんだな」


 ニヤニヤしている王子。その顔は月の王のイメージを壊しまくっている。が、すごく木崎みはある。


「好感度を上げに行かせてやったのに、何をやっているんだ」

「……まだ何も話してないけど?」

「早く話せよ」

「王子はやることないの?」

「魔術師のヒュッポネンと約束していたんだが、国王夫妻のシュリンゲンジーフ行きで上級魔術師団は総員でその準備になった。剣をやりたくてもヨナスはいない」

「ヴォイトと親しかったんだ」

「親しくはねえけど。魔力ゼロの俺に辛抱強く付き合ってくれるのは彼だけだからな。攻略対象ってのは後で知った。で? いつまで話を反らすんだ?」

「……本当、性格悪い」

「知っているだろ?」


 ふうと息をついて、観念をした。

「そんなたいしたことではないよ。ちょっとばかり生意気に反論しちゃっただけ」

「さすが宮本」ムスタファが楽しそうに笑っている。「何を反論したんだよ」

「『女は近衛になれない』って吐き捨てるように言うから、つい」

「あいつの頭の固さは話にならねえな。いずれ総隊長になるんだろうから、もう少し柔軟になってくれねえと。でもお前もアホ。どう考えても性格が合わないのに、なんでそんなにあいつがいいんだか」

「ひとの好みにケチをつけないでよ。ほら、邪魔しないで」


 再び侍従の文章に目を落とす。

 と、

「失礼していいか」と離れたところから声がした。

 見ると開け放したままの扉の元にフェリクスと、申し訳なさそうな表情の従者が立っていた。

「突然訪ねてくるなんて、失礼ではないか」とムスタファが冷ややかな声で非難する。

「許可を求めたら、拒むだろう?」

 そう返したフェリクスは、非難をまるで気にせずに部屋に入って来た。

 私が立ち上がるとムスタファは構わないから続けろと言う。フェリクスに一礼をして、着席をした。


 二脚の椅子しかないので、フェリクスは立ったままだ。気になりつつも、書き途中だったものを進める。

「ふたりで出掛けたのだって?」とフェリクス。

「侍従もいた」とムスタファ。

「どうして声をかけてくれない」

「遊びに出たわけじゃない」

「だが」と言いかけ私の手元を覗いたチャラ王子は、「マリエットにそんな特技があったのか」と言った。

「特技じゃない。処理能力と言え」とムスタファ。

「今日のムスタファはやけに積極的というか、オープンというか」フェリクスは不思議そうな表情だ。「『マリエットは三股じゃない、私のだ』アピールか?」

「……そこの従者」とムスタファがフェリクスの従者に声をかける。「この恋愛脳の主を連れて帰ってくれ。邪魔だ」

「つれないことを言うな」従者が答えるより早く口を挟んだフェリクス。「手土産もある」


 すると従者が手にしていた小ぶりの壺を主に渡す。そのフタを開いたフェリクスは、

「ラムボンボンだ」と言ってひとつ摘まむと私に差し出した。「マリエット。はい、あーん」


 え?

 戸惑い見上げると、フェリクスは良い笑顔を浮かべている。


 手で受け取ろう、そう考えついたとき、ムスタファがさっと動いたかと思うとフェリクスの手首をがしりと掴んで引き寄せて、私にしたのと同じように摘ままれたチョコを口に含んだ。


「美味だな」と平然としているムスタファ。

 対してフェリクスは目を見開いて相手を凝視していたけれど、やがて笑いだした。

「君がそうくるとはな。これは楽しい」

「そうか。楽しんだなら、そろそろ帰れ」

「いやだね」

 フェリクスは従者に指示をして、離れた場所の椅子を運ばせる。


「外出は昨日の講義に関連するものだったのだろう? 私も聴きたかった」

 フェリクスがそんなことを言い出して、ふたりの王子は王子らしい真面目な会話を始めた。

 結局私は、フェリクスが帰るまで休憩とムスタファに言われた。客人にお茶を淹れようにも余分なカップはないし、ムスタファは必要ないと言う。


「ムスタファは君とのひとときを邪魔されて立腹なのだな」とからかい口調のフェリクス。

「ああ、そうだな。さっさと帰れ」

 反論を諦めたらしい木崎のムスタファは、うんざり口調だ。


「マリエットはボンボンを食べていてくれ。酒が好きなのだろう? ムスタファと飲んでいるようだし」と書き付けに目を落としたままのフェリクスが言う。

「フェリクス。お前はストーカーか。気持ち悪いぞ」

 ムスタファがどん引きの顔をしている。私もうなずく。

 フェリクスの従者が吹き出した。慌てて、失礼致しましたと取り繕っている。

「どうやらお前の従者も賛成のようだ」

「ツェルナーは私に厳しいのだ。しかし酷い言い草だな」


 ムスタファは私に壺を指して、食べてやれと言う。ひとついただく。

 苦いチョコと豊潤なラム酒が口の中に広がる。

「美味しい!」

 フェリクスが目を上げて、そうかと嬉しそうな顔をする。

「お前は酒なら何でも旨いのだろう」と木崎のムスタファ。

「ちがいます。苦手なものも」

『ある』と続けようとして、思わず言葉を飲んでしまった。苦手なのは日本酒だ。この世界には存在しないだろうから、フェリクスに何かと訊かれたら答えられない。

 それを敏感に察したらしい木崎のムスタファは、ニヤリとした。

「仲良しアピールはいらないぞ」とフェリクス。「私とも仲良しになろう、マリエット」

「遠慮いたします」

「私にもムスタファと同じぐらいに警戒を解いてくれないか」

「諦めるのだな」と勝ち誇った顔のムスタファ。

 なぜ木崎がその表情なのだとツッコミたいけどガマンして、その通りとうなずく。


 フェリクスは私を見た。

「諦めてほしいか?」

「はい」

「では交換条件」とにっこりするチャラ王子。「チョコを食べさせてもらおうか」

「はい?」

「ムスタファにはさくらんぼを食べさせてやったのだろう?」

「っ!?」


 木崎を見ると、気にするなとでも言いたそうな顔をしている。いったいいつの間に話したのだ。本気でこんなことでマウントを取るつもりだったのか。どれだけフェリクスに勝ちたいんだ。


「食べさせてくれないと、諦めないぞ」と脅しをかけてくるフェリクス。

 するとムスタファがボンボンを摘まんでチャラ王子に差し出した。

「はい、あーん」

 フェリクスが瞬く。

「あなたは『誰に』とは言ってませんからね」と従者が主を見て言う。


「ほら、さっさと食べろ」とムスタファ。

「断る。私はマリエットがよい」

「あまり侍女を困らせると、ロッテンブルクが本国に素行不良の知らせを送るぞ」

 フェリクスは降参したかのように吐息した。「分かった。それは困る」

「さっさと帰れ。彼女は仕事中だ」

「分かった、分かった」


 フェリクスは渋々といったていで立ち上がると、またなと私にウインクをして去って行った。従者が邪魔をしたことを丁寧に詫びて後を追う。


 ムスタファは手にしたままのボンボンを口に放り込んだ。

「本当にフェリクスに話したのね!」

 声をひそめて抗議をする。

「あいつを悔しがらせたいし」としれっと言う木崎。

「私を巻き込まないでってば」

「仕方ないだろ。他で勝てるところがねえんだもん」


 素直に拗ねるムスタファ。

 ……なんだか可愛く見える。

 これの中身は木崎なのに。


「……でも、まあ。フォローはしてくれたから、その感謝はする」

「当然」と木崎。

「それと」

 馬車でのことを考えて、むず痒い気持ちになる。木崎に親切にされるのは、居心地が悪い。だけどちゃんとお礼を言わないと。機会がなくて、まだ言っていない。


「馬車ではありがとう。おかげで気分を持ち直せました」

 座ったままだけど、手を膝の上で揃えて頭を下げる。


「当たり前だろ。きちんと仕事をしてくれねえと、お前を連れて行くと決めた俺の評価が下がる」

「うん。書記にしてくれたことも、ありがとう」

「宮本をアゴで指図できるのは気持ちがいいな」


 前世ならば反発するところだけれど、書記の仕事は楽しかったので言い返さなかった。ただ、気になるのは今日一日が、まるで溺愛ルートにでもいるかのようなことだ。


 きっとまた好感度と親密度が上がっているのだろう。


 ◇◇


 仕事を上がる許可が出た。もう、それなりに遅い時間だ。

 実に長い一日だった。ほとんどの仕事時間を木崎と過ごしていた気がする。カールハインツに会ったのが今日とは思えないくらいだ。


 自室に入ると窓の外には満月に近い月があり、明るかった。灯りを灯すこともないなと、真っ直ぐに衣装箪笥の元へ行き、床に膝をついて引き出しを開けた。入浴に持って行く下着とタオルがそこに入っている。すっかり遅くったから、急がないと浴場に鍵をかけられてしまう。


 逸る気持ちと疲れで無造作にタオルを掴んだ瞬間、右手の指に痛みが走った。反射的にタオルを離す。

 見ると人差し、中、薬の三本の指の腹から血が溢れだしていた。

 視認したとたんに、激しい痛みがやってくる。


 ボタボタと垂れる血。

 取り落としたタオルにカミソリの刃が刺さっている。

 別のタオルをそっとつまみ高く掲げた。痛みと迂闊さに泣きそうなのをこらえて、よく見る。これは何もついていないようだ。

 傷に当てて、握りしめる。

 まだ医師は診てくれるだろうか。

 気合いを振り絞り、立ち上がった。


 今日はまるで溺愛ルートにいるみたいだと感じたのに。どうして用心しなかったんだ、と自分を呪う。

 ずっと苛めの程度が軽いものだったから気を抜きすぎた。


 泣きそうだ。


 ◇◇


 王宮には医務室がある。以前私が顔をケガしたときに診てくれたのはここの医師だ。

 幸い見回りの近衛ぐらいにしか合うことなく、医務室にたどり着いた。扉が開いていて、中から声が漏れている。医師がまだ在室していてくれたようで、ほっとする。

 聞こえてくる会話の声には覚えがあると思いながら歩みより、扉の代わりに壁を左手でノックした。

「申し訳ありません。診ていただけるでしょうか」

 呼び掛けると中で立ち話をしていたふたりが振り返った。ひとりは医師。もうひとりは攻略対象の魔術師ヴォイトだった。


「どうした」と医師。「手をケガか」

「はい」

 医師はため息をついた。

「診せろ」

 そばにより、右手を差し出しタオルを取る。

「酷いな。何で切った」

「カミソリです」

「ぱっくりいってる。縫うしかないぞ。そこに」と診察用の椅子を示す。「座って待っていろ。支度をするから」

 はいと答えながら、この世界って麻酔はあるのだっけと考える。なかったら、痛みに耐えられるだろうか。


 医師は続き部屋に消え、私は椅子に座る。と、右手を取られたと思ったら、ヴォイトだった。

「どうしたらこんな怪我をするのだ」

「……ちょっとぼんやりしていて」

 ヴォイトは両手で私の右手を包みこむと、何やら呪文を唱えた。

 それが終わると、痛みが消えた。

「麻痺魔法だ。縫う間も痛みは感じない。二時間程度しかもたないが」

「ありがとうございます」


 それからヴォイトは隣室の医師に声を掛けて去った。

 体を縫うなんて初めてだ。

 左の手に水差しを入れた洗面器、右の手にはあれこれ載った銀のトレイを持ってやって来た医師は、私を見て言った。

「……誰か、付き添いを呼ぶか」


 見慣れた顔が浮かぶ。が、ふるふると頭を振ってそれを追い出す。

「大丈夫です」

 医師は大きなため息をついた。


 ◇◇


 包帯でぐるぐる巻きになった手で自室に戻ると、当然ながら箪笥の引き出しは出しっぱなしでその前の床には血が垂れた跡があった。

 入浴どころか手を洗うこともできないし、侍女の仕事も無理だ。明日の朝一番でロッテンブルクさんに報告をしなければならない。


 なにもする気力が起きずに、ベッドに座り込む。


 木崎にも知られたくない。隠し通せるだろうか。いや、無理だ。髪の手入れがある。オイルを触れないから誰かに変わってもらわなければならない。


 一瞬、フェリクスが浮かぶ。彼なら治してくれるだろうか。いや、あれだけ冷たく接しておきながら、どの口で頼むのだ。最低な行いだ。


 なんて私はバカなんだ。

 用心を怠るなんて。

 泣きたい気持ちをぐっとこらえる。


 突然、扉が叩かれた。苛立たしげに早く。びくりとして体が強ばる。

 再びノック音。

 こんな時間に誰。


「俺だ、ムスタファだ」

 やはり苛立たしげな早口で、いつもの声がした。

 なんだか分からない感情が湧き上がって、顔を見たい気持ちと手を見せられない事実がせめぎあう。

 居留守を使おう。それがいい。


「さっさと開けないと、クビにして孤児院に送り返すぞ」と木崎。

 それは困る。木崎だってゲームやり直しは面倒と言っていたのに。


 仕方なしなのかほっとしているのか、立ち上がり狭い部屋を横切って、解錠して扉を細く開ける。すると木崎のムスタファは憤怒の形相だった。私は一体何をやらかしたのだ?


「どうしたの?」

「『どうしたの』じゃない」

 木崎はそう言って扉を押し開くと、後ろ手に隠していた私の右手を掴んだ。

「それはこっちのセリフだ。何があった」

 包帯ぐるぐるの手が目前に晒される。

「どうして知っているの?」

「ヒュッポネンが知らせてくれた!」と木崎。

「なんで!?」

「どうでもいいだろう、それは。なんだよ、この手は」

「察するに、箪笥の衣服の間にカミソリが隠されていたというところか」

 横から声がしたかと思ったら、チャラ王子が部屋の中を覗いていた。

「フェリクス殿下まで!」

「今ごろ気がついたのか」とフェリクス。


 ムスタファは私の手を離して部屋の奥にずかずか入ると、開けっ放しの引き出しを見た。そこにはまだカミソリが残っているし、中のタオルにも血痕がある。チャラ王子の推理を否定しようがない。


「ムスタファが」とフェリクスと従者も入って来る。「君が酷い怪我を負ったらしいから治してやってくれと、血相を変えて泣きついてきたのだ」

「泣きついてはいない」と背を向けたままの木崎。「……俺のせいか? 身の回りの世話に指名したり外出に連れて行ったから」


 ちがうよと答えようとしたけれど、それよりも早く木崎は

「下らない質問だった。お前がそうだと答えるはずがない」と言った。

 よく見たらムスタファはシャツ一枚の薄着だ。慌てて来たのかもしれない。

 不思議なことにあれほど混乱していたのに、今は落ち着いている。


「ふざけんな」とムスタファ。彼はタオルを摘まんでいた。「カミソリが固定されているぞ」

「悪質極まりないな」

 フェリクスはそう答えると、失礼と一言私の右手を取った。

「痛み止めは何を使った?」

「魔術師のヒュッポネン様が麻痺魔法というのを掛けて下さいました」

「どのくらい?」

「二時間」

「なるほど。ちょっとばかり痛みに耐えられるか?」

 はいとうなずくのと、ムスタファが不機嫌に何故だと問うのが重なった。


 ◇◇


 フェリクスと従者は出で行き、部屋にはムスタファとふたり。ベッドに並んで腰かけている。

 ムスタファは私の部屋を訪れたときからずっと、怖い顔のままだ。口数も少ない。

「愚かな木崎に念のために言っておくけど」

 手を見つめたままそう切り出すと、

「は? 誰が愚かだ」と即座に反論される。

「だってあなたのせいじゃないのに、深刻ぶって『俺のせいか』って。アホじゃないの? 誰のせいかなんて決まっているじゃない。カミソリを入れたヤツのせいだよ」

 となりから盛大なため息が聞こえた。

「忘れろ。優雅な王子の生活じゃ血なんて見ねえから、取り乱した」

「優雅じゃなくて引きこもり王子でしょ」

「引きこもりは卒業した」

 またため息。

「……だがな、宮本」

「なに」

「軽く流せる件じゃないぞ」

 苛立ちを含んだ声だ。

「流すつもりはないよ。仕事に支障が出ることだからね。ロッテンブルクさんには正直に報告するつもりだった」

「……そう」

「ありがと」

 木崎が来ていなかったら、惨めさと迂闊さでさすがに泣いていたと思う。

「フェリクスに治癒魔法を頼んでくれたことも」

「あいつの話を真に受けるなよ」

「分かってるよ。適当なことばかり言うひとだもん」

「頼んだのは、ヨナスが戻るまできっちり仕事をしてもらうためだからな。魔術師たちはそれどころじゃないから、仕方なくフェリクスを頼るしかなかった」

「分かっているって」


 だとしてもプライドがずば抜けて高い木崎が、あんなに負けを認めたくないフェリクスに頼んでくれたのだ。

 ありがたいとか、そんな一言では到底言い表せない。


 木崎がいてくれて良かった。


 それが一番、しっくりくる言葉だ。

 けれど口にするのは、憚れる。木崎なんかに言うのは恥ずかしい。


 ガチャリと扉が開いた。分厚い書物を持ったフェリクスと、山のような荷物を持った従者が入ってくる。

「いや、参った。本格的な魔術なんて、久しくやっていないから用意するのも一苦労だ」とフェリクスが言えば

「あなたは何もしていないではないですか」と従者がツッコむ。

「ついでにムスタファの部屋に勝手に入らせてもらったぞ」とフェリクスは別の壺を手に取り、私に差し出した。「マリエットはこれを食べて待っていてくれ」

 それは昼間のラムボンボンだった。


「それで、犯人を探すというのはどうやるのだ?」とムスタファが尋ねる。

 フェリクスが自分の魔術で見つけられる可能性があると言う。ケガの治療はその後だそうだ。

「まあ、黙って見ていろ。マリエットは私に惚れ直すこと、間違いなしだ」


 そしてフェリクスは書物を開いて床に置き、チョークのようなものを手にした。従者は荷物から四つの香炉を取り出して、先ほどの壺の中身を移す。


 床に魔方陣でも描くのかなと思ったら、フェリクスはなんと壁に描き始めた。中心は鏡だ。衣装箪笥の向かいの壁にある。

「まさか、あれに犯人を映すのか」とムスタファ。

「その通り」とフェリクス。「私を待っている間に君たちはキスとかそれ以上とかしていないだろうな。みなに晒すことになる」

「するか!」と木崎。

「なんだ、つまらん」とフェリクス。

「もう少し遅くくれば良かったですね」と従者。

「漫才かよ」と木崎。

「本当だ」思わず笑いがこぼれる。

 振り返ったフェリクスが、優しそうな笑みを浮かべていた。


 ◇◇


 私の狭い部屋はかつてない過密状態になった。私、ムスタファ、フェリクス、従者だけでいっぱい感があったところに、ロッテンブルクさん、侍従長、夜勤中の近衛部隊長、ルーチェが来たのだ。

 ムスタファが事の経緯と、フェリクスが犯人捜しをすることを説明した。


 とりあえずベッドの縁にムスタファ、私、ルーチェが座り、ロッテンブルクさんと侍従長、従者、隊長が鏡の向かい側と扉側に並んだ。

 部屋には従者が持ってきた魔石のランプがいくつも灯され、四つの角に置かれた香炉からは煙と共に独特の香りが立ち上っている。


 ひとり余裕のある空間で、長い時間をかけて呪文を唱えていたフェリクスは、それをピタリとやめると手で鏡を指し示した。


 そして最後に短い呪文を唱える。

 すると暗かった鏡にチョークを手にしたフェリクスが映った。おおっとどよめきが起きる。それがあり得ない速さで動いたと思ったら、今度はムスタファと私だ。後ろ向きに動いている。


「時間を遡って、鏡に映ったものが見られる魔法です」従者が言う。「早送り魔法もかけています。このままお待ち下さい」


 鏡の隅で、私がケガをする。と、ルーチェが私のスカートをきゅっと握りしめた。

 それからしばらくは誰も映らず、鏡の中は昼間になった。そして──。


 あっ、という複数の声が上がると共にフェリクスの右手が動き、鏡の中に映ったふたりの動作も緩慢になった。

 それは普段から私にいやがらせをする侍女たちだった。箪笥の引き出しを開けて何やらしている。手元は見えないけれど顔を見合わせていやらしく笑っているのがよく分かる。


 そこで鏡の動画は止まった。


「カミソリを仕込んだのは、このふたりの可能性が高いな」とムスタファ。

 フェリクスが無言でうなずく。


「ふたりを連れて来ましょう」とロッテンブルクさん。珍しく声に怒りがにじみ出ている。「これを見せれば、こちらが何も言わずとも震え上がるでしょう」

「そうだな。着替えさせなくていい。すぐに呼べ」とムスタファ。


 侍女頭と侍従長が一礼をして出ていく。残った近衛部隊長が

「牢に入れますか」と尋ねた。

 木崎が私を見る。首を横に振ってやめてほしいと伝えると彼は

「ひとまず蟄居だ」と答えた。


 ◇◇


 全てが終わり私の部屋に残ったのは、ムスタファ、フェリクス、従者とルーチェだった。


 ふたりの侍女は寝巻きにガウンという格好でやって来て、ふたりの王子と近衛部隊長、更には鏡に映った自分たちの姿を見て崩れ落ちて泣いた。ちょっとしたいたずらのつもりだったそうだ。

 彼女たちは三人の長に連れられて行った。


 従者とルーチェが香炉や灯りを片付ける中、となりに座ったフェリクスが丁寧に私の手の包帯を解く。

 ヴォイトにかけてもらった麻痺魔法はすでに解けかかっていて、かなり痛い。見るのも怖いので目は反らしている。


 いつの間にか立ち上がったムスタファがそれを見下ろしていたが、すっと手を伸ばしてケガの近くに軽く触れた。

「こんな怪我をさせておいて、よく『ちょっとしたいたずら』なんて言える。頼む、フェリクス。治してやってくれ」と言った。

 うなずくフェリクス。


「殿下。よろしいのでしょうか。私はあなたに失礼な態度しかとっていないのに」

「前にも言ったはずだ。私が治したいから治すのだ」

 にこりとしたフェリクスにいつもの軽薄さはない。

「ありがとうございます」

「だけど犯人捜しのほうは報酬がほしい。頬にキスがいい。先に断っておくが、マリエットから私にだ。ムスタファは邪魔をするなよ」

「後出しでそんな報酬を要求するなんて卑怯ですよ。どうしてあなたは、自ら嫌われることをするのでしょうね」と従者が言う。「マリエット。キスの代わりにボンボンでも食べさせてやって下さい。それで十分ですから」

「うるさいぞ、ツェルナー」


「主従漫才」ぼそりと木崎が呟く。

「なんだって?」とフェリクス。

「いいから早くやれ。報酬は私がやる。たんまりと、薬草でも」と木崎。

「ちっとも嬉しくないのだが」

 フェリクスはそう言いながらも両手で私の右手指を包み込んだ。以前と同じように、温かさが流れ込んでくる感覚がした。


「完了」

 かなりの時間が経ったあと、フェリクスはそう言って手を離した。傷があったとは思えない、きれいな指が現れた。痛みもない。

「ありがとうございます」

「ああ」とうなずいたフェリクスは再び私の手をとって、ちゅっとキスをした。

「良かった。包帯に口づけするのは味気ないからな」


 従者に『どうして自ら嫌われることをするのか』と言われたばかりなのにと考えたら、なんだかおかしくなって。思わずふふっと笑ってしまった。


 と、バタン!と激しい音を立てて扉が開き、男が飛び込んできた。

「大丈夫ですかっ!……って、あれ?」


 皆が呆然とする中で、目を丸くしているのは私服姿のレオンだった。

「どうした、非番だろう?」とムスタファ。

「マリエットが怪我をしたらしいって夜勤のヤツから連絡をもらって。違うのですか?」

「私が治したところだ。感謝したまえ」とフェリクス。


 くすくすと笑い声。ルーチェだった。

「見事な三股、揃い踏み!」

「ですね」と従者。

「明日のトップニュースね。『渦中のマリエットの部屋で睨みあう三人!』」

「ルーチェさん!」

「冗談よ」

 彼女の楽しそうな声に、つられて笑ってしまうのだった。

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