14・溺愛ルートのよう
昨日一日降り続いた雨は夜のうちに止み、すっきりとした晴天が気持ちよい。朝イチで預かった書類を手にムスタファの私室を訪れる。
だけど彼は朝食の最中だった。
「失礼致しました。出直します」と一礼する。
「構わない。それはエルノー公爵からだろう」と王子らしく話す木崎のムスタファ。
控えていた侍従がさっとペーパーナイフを用意する。私は一式を王子に手渡し伝言を伝えた。
彼は中身を改めると、侍従に
「今日の予定は変更する」と指示を出して最後に「温かいココアが飲みたい」と付け足した。
侍従はただいまと答えて下がる。
その気配が消えるとムスタファはパンを一切れ取り、
「新作らしい。旨いぞ」
と私に差し出た。ありがとうと受け取り、立ったままモグモグ食べる。
「な?」と木崎。
「うん。美味しい。王族はさ、食事もだけど食器も豪華だね。これ、マイセンそっくり」
私がそう言うと、ムスタファが
「だよな。ていうかお前、よく知っているな」
「ファンタジー系乙女ゲームが好きだったからね。それっぽいアートはチェックしてたの。木崎こそ」
「姉貴がデザイン系の仕事に就いてる。その影響」
それからあの壁紙がどうとか家具がなんとかと、案外話が盛り上がった。
「そうだ。お前、礼拝堂に入ったことはあるか」
「ここの?」
王宮には王族のための礼拝堂がある。うなずくムスタファ。
「ないよ」
「フレスコ画がすごいんだ。よし、朝食と支度を終えたら見に行こう」
「予定は大丈夫なの?」
卓上に置かれたままの手紙と書類を見る。
「午後だから問題はない」とムスタファもそれを見て答えた。「昨日の講義でオーギュストと考えが一致してな。それを知った公爵が、懇意にしている魔石専門の輸送と販売をしている会社の経営者を紹介してくれることになったんだ。が、公爵が急用が入ったから、それは紹介状と相手の資料」と彼は封書を指した。
それから私を見たまま、黙り込む。
「なに、どうしたの?」
居心地が悪くなってそう尋ねると、ムスタファは
「専門家から話を聞くときは必ずヨナスにメモをとってもらっているんだがな。今日、ヨナスはいない。お前、やれよ」
「何で!」
「得意だろ。聞いた話を即座にまとめるの」
確かに前世ではそうだった。だけど……。
「やりたいし、声をかけてもらえて嬉しい。だけど私は専門用語が分からない」
「そこは後で穴埋めすればいい」
「穴だらけかもよ」
ガタンと椅子の音を立ててムスタファが立ち上がった。皿のさくらんぼを手にしたかと思うと、突然私の口に押し当てた。
「ごちゃごちゃうるさい。お前はこれでも食っとけ」
思わずさくらんぼを口に入れてしまう。
もぐもぐしていたら視線を感じた。見ると、開け放されたままの廊下への扉の元に先ほどの侍従が立っていて、目を限界まで見開いていた。その様に、こちらも彼同様に固まる。
それに気づいたムスタファは、しれっと。
「先ほどの外出には彼女を書記として連れて行く。ロッテンブルクに伝えてくれ。それから支度が終わったら礼拝堂に行くから、トイファーを呼ぶように」
その言葉に我に返った侍従は表情を取り繕い、承知しましたと答え運んできたココアを出して、再び去っていった。
「木崎!」
「どうせ三股と噂されているんだ。気にするな。シュヴァルツの好感度だって、これ以上は下がらないだろ」
「私のメンタルダメージが計り知れないのだけど」
「知るかよ。あ、これ」と木崎はココアを私に渡す。「飲んどいて。運ばせておいて飲まないなんて悪いからな。ていうか座れよ」
……ツッコミたいところだらけだけれど、面倒になって諦めた。ココアをいただく間だけねと断ってから、椅子に腰かける。
「お前、しばらくは毎日朝晩通いだからな」とムスタファ。
ヨナスのおばあ様が深夜にお亡くなりになったそうだ。先の大公夫人であるから国葬を営むとのことで、全て終わるまでに数日かかるという。本葬の日はフーラウムとパウリーネが参列するそうだ。
「木崎は行かなくていいの?」
するとムスタファはため息を吐いた。
「転移魔法は甚大な魔力を使う。父たちと付き添いを送るので精一杯だそうだ」
「なるほどね」
「魔王だったら一瞬で行けそうなのに」一瞬ムスタファの顔が曇る。だがすぐに戻った。「だが王子しか出席しないより国王夫妻が出席するほうが、ずっといいからな。ヨナスの貢献も考慮しての国王夫妻列席だそうだ」
「ガマンして偉いね、王子」
「褒美をくれ」
褒美……とは?
私にあげられるものなんてないし、本当に欲しがっているとも思えない。脳内を『頭をよしよしする』がよぎったけれど、それはなんだか私がいたたまれない。
結局、廊下の気配を伺ってからさくらんぼをつまんで、先ほどの仕返しを兼ねて
「はい、あーん」
とムスタファに向けた。
ふざけんな、と反応されると思ったのだが。
ムスタファは私の手首を掴んだかと思うと、ぱくりとそれを食べた。そして
「赤面してるぞ、詰めが甘いな喪女は」
ともぐもぐしながら笑い飛ばす。
「くっ。羞恥心がないの!?」
指先に、一瞬触れた感触が生々しすぎる。
「あるわけねえだろ。これはフェリクスにならマウントとれるな」
「私を使わないでよ。ねだられたらどうするの!」
「断れよ。マウントなんだから」
「マリーとムスタファお兄様は仲良しなの?」
突如聞こえた声に私も木崎も小さく叫び声を上げた。カルラが一体いつ入りこんだのか、チェストの陰からこちらを見ている。寝巻きにガウンという姿だ。
「いつからそこにいる」とムスタファが妹に尋ねた。
「んと。お母さまとお父さまが何かに出るお話。マリーの声がしたから……」
カルラは怒られると思ったのか、段々と声が細くなった。上目遣いで兄を見ている。
「怒っていないから、こちらへおいで」とムスタファは王子の顔になって言った。
私は立ち上がって椅子にカルラを座らせる。
「怒ってはいないが」とムスタファ。「私とマリエットが仲良しなのはヒミツだ。そうしないと彼女が叱られるかもしれない」
「わかった!」
パッとカルラの表情が明るくなる。嬉しそうにニマニマしているから、もしかしたら『ヒミツ』という言葉が気に入ったのかもしれない。
「お兄様はマリーと仲良しなのね」とカルラ。「それならムスタファお兄様はイヤな人じゃないんだ!」
「……なんだその理論は」
「だってマリーはシュヴァごっこを一緒にしてくれるもの。悪いヤツがうまいんだよ」
「そうか。それは面白そうだ」とムスタファ。
と、廊下から
「カルラ様ぁ!」
と彼女を呼ぶ声がした。とたんにカルラは首をすくめる。
ムスタファは立ち上がると扉を閉めて、また席に戻った。
「それで朝から逃亡しているのはなぜだね」
「だって、ひどいの!」またパッとカルラの表情が変わり、今度は怒り顔だ。「絶対ににんじんは出さないでって言っているのに、朝ごはんがにんじんのポタージュだったの!」
ムスタファの視線が空のスープ皿に向く。
「美味しかったが、そうか、カルラは人参が嫌いなのか」
「そう! あんなものはニンゲンは食べてはいけないの! 食べていいのはウサギだけよ」とカルラ。
可愛くて、にやけそうになってしまう。
「それではシュヴァルツ隊長のようになることは諦めたのだな」とムスタファ。
カルラは目をぱちくりする。「なんで?」
「おや、知らなかったか? 隊長は無類の人参好きだ。彼の強さのヒミツは人参だという」
カルラの顔は真っ白になり、口元がはわわと震えている。
「ほら、小さな姫君は可愛らしくフルーツを食べているといい」とムスタファはそれが盛られた皿をカルラの前に置いた。
「……フルーツじゃシュヴァになれない?」とカルラ。
「一般の近衛兵程度ではないかな」とムスタファ。
カルラはぴょこんと椅子から降りた。
「……帰る」
「そうか」と笑顔のムスタファ。
私は先回りをして扉を開ける。左右を見ると廊下の先にカルラの乳母がいたので、小さな姫君を引き渡した。
王子の部屋に戻ると木崎のムスタファは残っていたフルーツを優雅に食べていた。
「宮本も食えば?」
「遠慮する。子供の扱いがうまいね」
「甥っ子がふたりいるからな。家も近いから頻繁に会っていたし」
だからこの前、カルラ捜索に加わったのかなと考える。
それから急にムスタファは澄ました顔になった。
「侍女見習いに仕事を申し付ける。礼拝堂のあと、シュヴァルツの元に行って口裏合わせを頼むように」
木崎はニヤリとした。
「これは貸しだぞ。うまく好感度なり親密度なりを上げて来い」
◇◇
礼拝堂は王宮の地階の一隅にある。絢爛きらびやかな城の中でここへ入る扉だけはシンプルだから、かなり目をひく。上部がアーチ型両開きのそれは恐らくは一枚板で、装飾は何本か縦に細いラインが入っているだけ。取っ手は頑丈そうな鉄製だ。
かつては閂があったようで、閂かすがいだけが四つ残っている。かなり大きいから、閂も相当なサイズだったのだろう。
今は鍵はかかっていないけれど、シンプル故に神聖な雰囲気があって誰も近づかないようだ。
「近衛でも入ったことがある者は少ないらしいですよ。隊長もないと言っていました」
どこか浮かれた調子で話すのは綾瀬のレオンだ。どうやらヨナスが留守中の主の護衛を近衛に頼んだらしい。
木崎は王子、レオンは護衛。ならば扉を開けるのは私かなと考えて前に進み出て、片方の鉄の取っ手を両手で握りしめた。ひんやりとしている。それを手前に引いて……。
引いて……。
「あれっ?」
引いても引いても、重くてぴくりとも動かない。
「鍵、かかっているんじゃない?」
ぶふっと吹き出す木崎。
「僕に任せて下さい」
綾瀬に場所を譲って下がる。
「あれ」と取っ手を持った綾瀬が声を上げた。「確かに重い。見た目よりかなり」
そして、よっと声を出して力いっぱいに引く。少しばかり動く。綾瀬はさらに、「んんっ!」
と気合いを入れて、扉を開いた。そのまま目一杯まで引くと、自然に止まる。
扉を観察すると分厚い上に、内側には全面に、植物模様のレリーフが美しい青銅が張られていた。
「これじゃ重いはずだ」と綾瀬。
「ご苦労」と木崎がわざと澄ました顔をして綾瀬を労ったあとに私を見て、ほら、と顔の動きで礼拝堂の中を示した。
自然と高まった胸で、中を覗く。そこは小さいながら、完全に王宮とは別世界だった。
奥に向かって縦長の室内は右側に明かり取りの窓が並び、奥の主祭壇の真上からも光が入っている。造りは扉同様にシンプルで壁の大部分は漆喰が塗られていて白というかクリーム色。床は花崗岩のような石のタイル。三人掛けの参列席が左右に五列ずつ。
主祭壇の背後の壁には、シンプルな木の十字架がかかっていた。
この世界はカトリックによく似た宗教が主流なのだ。
ムスタファが私の脇を通り抜けて、スタスタと中に入る。左の壁を見て、
「このフレスコ画」
と言った。私、レオンと続けて入る。
左側の壁は四角い柱が三本あり、それを区切りとして小さなみっつのフレスコ画があった。一本目の柱から入り口側が磔刑、一本目と二本目の間が洗礼、二本目と三本目の間が受胎告知。
「すごい!」
こういうのは始めから見たほうが良いかなと考えて、最奥の受胎告知の前に進む。と、三本目の柱の向こうに、少しだけ白い石像が見えた。
更に進んで見てみると、それはドラゴンとそれに向かって槍を構えている人物の石像だった。それほど大きくはなく、台座は私の首の辺りまで高さがあるけれど、像自体は五十センチ四方ぐらいだ。
「ああ、これ」と木崎。「この並びにあるのは、なんか変だよな」
綾瀬がやって来て、ああとうなずく。
「聖ゲオルギウスですね。竜を退治した逸話が有名な聖人です。だけど姫がいないな。ジークフリートの方だろうか」
綾瀬の話では、聖ゲオルギウスは聖人で姫を助けるために竜を退治、ジークフリートは伝説の英雄で竜を退治してその血を浴びたことにより不死になった人物らしい。
「まあ礼拝堂にあるのだから、聖ゲオルギウスでしょうね」
「物知りだな、お前」と木崎。「ただの不思議ちゃんじゃなかったんだ」
「いやいや、僕だってちゃんと就職戦線を勝ち抜いて採用されているんですからね」
ふたりの話を聞きながら、礼拝堂を見渡す。
「実はあそこに」と木崎が石像のすぐ左手の柱の側面に手をついた。するとそこがすっと開く。扉になっていたらしい。中は真っ暗、と思ったら木崎は中に入り右手の壁を探った。がちゃりと音がして向こう側から光が入る。
「廊下に繋がってるんだよ。忍者屋敷みたいじゃね?」と木崎。
「正面扉は正式用、普段はこちら、ですかね」と綾瀬。
「さあな。子供のころにたまたま見つけて、それからよくひとりで入っていたんだ。ここなら誰にも見つからなかったからな」
……ヨナスと出会う前の、ムスタファ少年の安息の場所だったのかも。
そう考えて、切なくなった。
「秘密基地ですね」と綾瀬。
「そ、秘密基地」と木崎。
男子たちは楽しそうだ。
なるほど、秘密基地と言うと格段に心踊る場所になる。
そう思いながら、天使に受胎を知らされている新米お母さんの優しげな顔を見上げた。
◇◇
カールハインツが所属している近衛隊は王宮の建物内に詰所があるが、それとは別に専用の建物を持っている。同じ敷地にあるけれど、見習い侍女が訪問する機会なんてものはない。
ところが本日午前中のカールハインツ隊は、そちらで訓練だという。ついにあの中に入る日がやって来たわけだ。もしかしたら訓練風景を見られるかもしれない。
近衛専用の建物はこれも城ですかと尋ねたいほどに優美な外観だ。正面から見ると横長の長方形に見えるけれど真上から見るとカタカナのロの形で、中庭が訓練場になっている。
唾をごくりと飲み込み背筋を伸ばし、怯んでなんていませんよ、という顔をして入り口横に立つ番兵に用件を告げた。
するとその目に一瞬好奇の色が宿り、親切丁寧に受付の場所や仕方を教えてくれた。
受付でもやはり好奇の目が向けられたけれど同じく親切で、更には若い近衛が訓練場への案内まで買って出てくれたのだった。
その親切は私がヒロインだからなのか、綾瀬のせいなのか。
若い近衛について訓練場に出て、目をみはった。剣のかち合う音がしないなと気になってはいたけれど、そこで行われていたのはなんと、ラダーだった。
私の様子に気がついた案内の近衛が、
「遊んでいるんじゃないぞ。俊敏性を鍛える訓練なんだ。レオンの発案でね」
と得意げに説明する。
なんてことだ。すっかり綾瀬の手柄になっている。やりたいと言い出したのはムスタファ王子ですよと教えたい。
が、ややこしいことになるのは目に見えているので黙るしかない。
それに私はカールハインツの剣術を見たかった。期待していた。
これはこれで面白いけどさ。わくわくしていた私の気分はどうしてくれるのだ。こんなオチはいらないのに。
私がちょっとばかり拗ねていることに気づかず案内役はスタスタ進み、監督役をしているカールハインツの元にたどり着いた。彼は鋭い一瞥を私に向けたものの、無言で案内役の話を聞いている。それが終わると堅物隊長は
「それは分かったが、何故ここに彼女を連れてきた。言伝て程度の使者は訓練場に入れない規則だが」と厳しい声音で責めた。
「すみません。レオン発案の訓練を彼女に見せたかったんです。点数稼ぎをしてやりたくて」と案内役の近衛。
「それに」となぜかカールハインツの副官が後を次いだ。「みなレオンをフッた侍女を見たいと願っていたからな」
「訓練に私情を挟むな」とカールハインツ。
すみませんと案内役は素直に謝って、さっさと持ち場に戻って行った。
つまり私は見世物だったらしい。だけどたとえラダー中だとしても訓練を監督しているカールハインツを見られたから、良しとしよう。
「それでムスタファ殿下から、何の伝言だ」
ジロリと私を見る彼は、機嫌が悪そうだ。これでは好感度の上げようがない。私は簡潔に、カルラに嘘をついたからシュヴァルツ隊長は人参好きとの口裏を合わせて欲しい旨を伝えた。
「『承知いたしました』と伝えろ」とカールハインツ。やや眉間が寄り、一段と不機嫌だ。
「いやいや、まさかのシンクロではないか」と副官は楽しそうだ。
「シンクロ?」と尋ねる私の声と
「オイゲン!」と副官の名前を呼ぶ隊長の声が重なった。
「ここだけの話だかな」
と、カールハインツと同世代に見える副官は私に近づき声を落とした。
「彼も嫌いなのだ。勿論、人前ではおくびにも出さないが、私とふたりきりのときは当然のようにひとの皿に入れてくる。相当に嫌いなんだ」
「まあ」
新情報だ。ゲームではそんな設定はなかったもの。
「真面目な隊長も案外可愛らしいのですね」
だろうとうなずく副官。
はっとして、
「ということは」と思わず手を叩いた。「カルラ様が人参を克服したらシュヴァルツ隊長より立派な近衛になれるかもしれないですね」
とたんに副官の顔からいたずらげな表情が消えた。カールハインツの不機嫌さも増している。そして彼は
「女は近衛になれない」
と吐き捨てるように言った。
「……今はそうかもしれませんけど、この先もずっとそうだとは限りません。カルラ様があんなに目を煌めかせて『シュヴァルツ隊長みたいになりたい』と願っている気持ちを、女だからなんて一言で潰すのですか?」
彼のような近衛になるために、大嫌いな人参すらも食べようとしているカルラを思うと黙っていられなくて、思わず捲し立ててしまった。
カールハインツは黙って私を見返している。
「だけど無駄に期待を持たせるのも気の毒ではないか」
副官が取りなすような口調で言う。
「カルラ様の熱意で何か変わるかもしれないではないですか。それに少なくとも、カルラ様があんなに憧れているシュヴァルツ隊長が、そんな口ぶりで『なれない』と断じるのは良くないと思います」
「まあ、それは」と副官はむにゃむにゃと言葉を濁した。
「とは言え、生意気なことを申し上げました。お許し下さい」
もしかしたら庭でカルラにムスタファのことを進言してしまった時のように、今回も私の知らない事情があるかもしれない。
ついつい腹立ちまぎれに捲し立てたことを反省する。
侍女らしい節度をと自分に言い聞かせて、訓練中に邪魔をしたことも詫びてその場を辞した。
好感度を上げるどころか下げるようなことしてしまった。不幸中の幸いは、現在の数値が底値だからこれ以上は下がりようがないということだ。
◇◇
扉が外側から閉められると、ほどなくして馬車はガタンと大きく揺れてから動き始めた。
向かいには澄まし顔で窓外を見ている王子ムスタファ。私の右となりには侍従。名前はヘルマン・ラント。年はヨナスさんと同じぐらいだろうか。午前中に私がさくらんぼを口に押し込まれるところに居合わせた彼だ。ちょっとばかり、気まずい。
更に、向かう先でオーギュストと合流するそうだ。
……それにしても。
王子の乗る馬車なのだから、サスペンションは性能の良いものを使っているのだろうけれど、予想以上に揺れる。座面はふかふかだから、お尻が痛いということはないけれど……。
「馬車に乗るのは初めてと言ったな」
唐突に王子が私を見て尋ねた。午前のうちにそれは伝えてある。そうだと答える。
そうかと相づちをうった王子はまた窓の外に顔を向けた。何を考えているのかは分からない表情だ。
私も外を見る。まだ王宮の敷地内だ。私は進行方向に背を向けて座っているから、過ぎ去っていく庭園の景色が見える……のだが、ちょっと気持ちが悪い。馬車の揺れに慣れないせいだろうか。
出発したばかりで酔ったなんて、考えたくない。
なんとか気合いで乗り切らないと。
前世で乗り物酔いをしたことがないから、対処方を詳しくは知らない。外を見ているほうがと聞いたことがある気がするが、余計に気持ち悪い。目をつむってしまいたいけれど、それは侍女として王子の前ですべきではないだろう。
「マリエット」
ムスタファに名を呼ばれた。はいと答えて目を見る。
「もしや酔ったか」
「はい。申し訳ありません」
「こちらへ来い。そちらは後ろ向きだ、こちらのほうがまだマシのはず」
いや、でも馬車で王子のとなりに座っていいのだろうか。見習い風情が。
「さっさとしろ」とムスタファが木崎の口調で言う。
「……失礼致します」
揺れる馬車の中でおずおずと移動する。と、何故か王子は上着を脱いだ。座った私の肩をぐいと抱き寄せ自分にもたれかかせると、それを頭にかぶせた。目の前が上着の色、ブルー一色になる。
「寝てろ。酔ったのは寝不足のせいだ。向こうできちんと仕事をしなかったら懲罰だからな」
ええと。働きの悪い頭でも、状況がおかしすぎるのは分かる。寄りかかって眠るなんて恋人同士みたいだし、木崎がそんなことをするなんてありえない。
私を書記に選んだ以上、ここで降ろすと、王子の判断ミスを嘲られたりするとか?
上着をかけられた直前に見えた、ヘルマンの『私は何も見てませんよ』という態度も気になる。絶対に関係を誤解されていると思う。
だけど視界が遮られているのは、いい。目をつぶっていても見咎められることはない。
少しだけ体調も持ち直した気がする……。
◇◇
ガクンとした揺れにはっとした。
目の前がブルーだった。自分の状況が分からず混乱する。
「着いたぞ」
ムスタファの声がしたかと思うとブルーがバサリと音を立てて翻った。
そうだ、馬車の中だ。気分が悪くなって木崎が……。
状況を把握したとたんに自分が王子に寄りかかっていることを思い出し、慌てて体を起こす。当の王子は澄まし顔で私を見ていた。
「よし、顔色は良くなった。って、」
ぷはっとムスタファが王子らしくない態度で吹き出した。それからヒラヒラと垂れたレースの袖で、私の口元をぐいと拭いた。
「よだれ。マヌケすぎ」
ニタニタしている王子と、やはり何も見ていませんという態度のヘルマン。
どう考えても木崎の距離感がおかしい。これじゃまるで溺愛ルートにいるみたいだよ……。
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