12・快癒
一夜が明けると顔の腫れはだいぶひいていた。木崎のくれた軟膏とフェリクスの魔法のおかげだろう。ただどす黒く変色しているし、効果切れかズクズクと傷んだ。
軟膏を頬や足首に塗って身支度をして侍女用の食堂へ行くと、周りの反応は二通りだった。隠していない顔を見て、くすくす笑う侍女。目を泳がせたり伏せたりする侍女。
席につくとすぐにルーチェがやって来て、となりに座った。初めてのことだ。
そして、ケガの具合はどうか、昨晩の食事は食べられたのか、今朝は食べられるのか、足は仕事に差し支えないか。そんなことを矢継ぎ早に尋ねた。
質問に答えてありがとうございますと礼を言ったら彼女は、だってと口をもごもごさせてから
「私のスープ、いる?」と配られたばかりのそれを押しやった。「その頬、口を開けにくいのでしょう?」
「今朝はもう大丈夫ですよ」
そう答えて、それを裏付けるかのように笑みを浮かべた。
それは良かったとルーチェは答えて、それから鼻をすんとさせた。
「良い香りね。軟膏? 昨日のとは違う匂いのようだけど」
ドキリとした。
王子が使う特別な軟膏だ。香りも珍しいのかもしれない。香水と縁のない生活だったせいで匂いの違いにはどうしても鈍感になってしまう。香りまで頭が回らなかった。
「別のものもいただいたのです」と無難に答える。
ルーチェは不思議がることもなく他の話題にうつり、胸を撫で下ろした。
◇◇
朝食が終わるとすぐにフェリクスに呼び出された。ロッテンブルクさんはチャラ王子を信用していなくて、私が頼まなくても付き添う気が満々だった。
そんな彼女と共にフェリクスの部屋を訪れると、先日の長椅子にチャラ王子は座り笑顔で出迎えてくれた。彼の後ろには従者。更にその後方、離れたところにあるひとり掛けの椅子に足を組んで優雅に座るムスタファ、傍らにはヨナスがいた。
促されて王子の向かいの椅子にロッテンブルクさんと並んで座る。
チャラ王子は、災難だったな、許しがたい犯罪だなんてことをつらつらと語り、なかなか本題に入らない。どちらかというとロッテンブルクさんに向けて、今回の件には憤りを感じているというアピールをしているようだった。
時どき振り向いてはムスタファに、君もそう思うだろうと同意を求めたりもした。
「御託はいい。語るのは治してからにしたらどうだ」
ついに痺れを切らしたのか、ムスタファが言った。ゲーム通りの抑揚の乏しい口調で木崎みがない。
「やれやれ。月の王は短気のようだ」
フェリクスはそう言いながらも立ち上がると卓をまわって私の前に来た。
「触れるよ」
と一言、左頬に手をのせる。昨晩と同じように温かいものが流れ込んでくるような感覚。フェリクスは口元に笑みを浮かべて私の目をのぞきこんでいる。
あんまりみつめてくるので居心地が悪いけれど、目を反らすのも悪いような気がして耐えた。
昨日よりだいぶ長い時間をかけたあと、フェリクスは手を離した。
「もう大丈夫」
すると彼の従者がすかさず鏡を持って、私の顔が映るように立った。それに映った私は、いつも通りの顔でアザの欠片も腫れもない。もちろん痛みもない。
ロッテンブルクさんもさすがに驚いて、まあと息を飲んでいる。
「次は足だ」
とフェリクスはさっさと私の前にひざまずき、慌てる侍女頭をいなしながらひとのスカートの中に手を入れて足首に触れる。そうして頬よりはずっと短い時間で治してくれた。
ロッテンブルクさんは侍女頭として感謝と称賛の言葉を述べ、私も心の底から礼を言ったけれどチャラ王子は
「私の頼みをひとつきいてくれれば、それでいい」と言い出した。
きっとロッテンブルクさんは、やっぱりと思っているだろう。私もだ。
「なに、難しいことではない。今度温室散策をしたい。心配するな、二人きりとは言わぬ。ルーチェとムスタファ、四人でだ」
「温室」とロッテンブルクさん。
「勝手なことを言うな」とムスタファ。
「温室はパウリーネ妃のものです」
侍女頭の言葉に私もうなずく。そのように聞いている。花好きの彼女が選りすぐりの植物を選んで楽園のようにしているらしい。時たま彼女は友人を招くけれど、基本的に彼女と専属庭師のベレノしか入れない。
「ダメか。楽園を彼女と楽しみたかったのだ」とフェリクス。
「申し訳ございません」
「ではまた四人でポーカーをしよう。それならば問題はないな」
それならば、と侍女頭。
フェリクスは満足そうに笑みを浮かべた。
◇◇
ロッテンブルクさんの仕事部屋。部屋の主は現在夕食中。主だけでなく、侍女全員がその卓についているはずだ。
だけど私はこの部屋で手を体の前で重ねてしおらしい態度で立っているところだ。目前のロッテンブルクさんの机に座っているのは、私の最推しカールハインツ。両肘を卓に乗せて組まれた両手。私を見上げている顔は眉間にしわが寄っている。
そんな表情も彼らしくて目の保養だ。ヨダレが垂れる。
……それにしても、一体何の用で私は呼び出されたのだろう。ゲーム展開ではないし、心当たりもない。昨日の件は昨日のうちに別の近衛隊長から聴取を受けた。
「マリエット・ダルレ」
カールハインツが魅惑のボイスで私の名前を呼んだ。舞い上がりたい気分だけれど、フルネームということはあまり良くない話になるのではないだろうか。
警戒しながらもおとなしく、はいと答える。
「ムスタファ殿下とはどんな関係だ?」
投げ掛けられた質問に、思わず瞬く。
何故ムスタファが出てくるのだ。まさか一昨日の晩の裏庭のことを見た人がフェリクスの他にもいたのだろうか。それとも昨日、あいつが部屋に来たのを見られたとか。
なんて答えるか一瞬だけ迷い、結局
「どんな関係も何も。殿下と侍女見習いです」
と答えた。ドキドキして返答を待つ。
「そうか」
ほっ。信じてくれた。だけど次の瞬間、
「では何故ムスタファ殿下と同じ香りがするのだ」とカールハインツが言った。
「香り……?」
はっとする。今朝、ルーチェが香りが違うが軟膏を変えたのかと尋ねてきたではないか。
「ムスタファ殿下が使っている軟膏と同じ香りがお前からする。それは殿下が特別に調合させているもので、ふたつとない品だ」
そう言うカールハインツの目は鋭い。
木崎のヤツめ、なんて品をくれたのだ。だけどあいつもきっと香りまで頭が回らなかったのだろう。それに分けろと言ったのはヨナスだと言うし。
そうだ。ヨナスだ。言い訳を瞬時に頭の中で組み立てる。
「そうなのですか。実は昨晩、ヨナスさんから軟膏をいただいたのです。彼は『今回の事件にムスタファ殿下が心を痛めている。こちらを特別に下賜するそうだ』と仰っていました」
「ヨナス殿が?」
「はい」
本人に直接もらったというよりは、よいだろう。正直に話したら、また『惑わせているのか』と言われかねない。
「マリエット」
「はい」
「お前は何人を惑わせているのだ? 昨日の伯爵令息にムスタファ殿下、フェリクス殿下、レオン。他にもいるのか?」
「え?」
言われたことがあんまりで、言葉を失う。昨日の下衆も私に責任があるかのように聞こえる。
「私は誰も惑わせてなどいません。昨日のあの人とは話したこともないと、聴取でも申し上げました」
「ああ、そう書いてあったな」カールハインツは関心がなさそうに首肯する。「だがフェリクス殿下は見習い風情にわざわざ治癒魔法を使うほど、お前を気に入っている」
「確かに治していただきましたが、私が惑わせているわけではありません」
「ムスタファ殿下も高価な軟膏を下賜」
「ねだった訳でもないのに惑わせたことになるのですか」
「挙げ句にレオンは求婚」
「こっちが仰天しているのに!」
思わず普段の言葉遣いが出てしまう。
カールハインツはわずかに表情を変えた。
「すみません。でも本当に私は誰も惑わせようなんて思っていません」
だって本命はあなただものと叫びたい。しかも下衆の件まで私が悪いように思われているなんて。
悔しいのか悲しいのか自分でも分からない。
「泣くな」
鋭い声が飛んでくる。
私だって泣きたい訳じゃない。勝手に涙が滲むのだ。
「責めているのではない」
カールハインツは立ち上がり机をまわると私の前に立った。
「事実を確認したいだけなのだが。私の口調が悪いのだよな。どうしても隊員と話すときの口調になってしまう。怖がらせてすまない」
思わぬ謝罪に驚いて、返事も返せずにポカンと凛々しい顔を見つめる。
すると堅物隊長は困ったような顔をして、それからためらいがちに片手を上げたかと思うと、私の頭をよしよしと撫でた。
え。
今のは幻でしょうか?
先日の頭ポンに引き続き、よしよし?
ボッと顔が火がついたかのように熱くなる。
なにこれっ! ご褒美にしても特上すぎる。ツンからのデレが激しいよねっ。
興奮し過ぎて胸が苦しい。
「……まだ怖いか」とカールハインツ。
「いえ、あの、全然です」
喜びで頭が回らず、意味の分からない返事をしてしまう。
「お前は惑わせてはいないのだな」
「はい」
「レオンが突然お前と結婚すると言い出したのは?」
「急にストンと好きになったと言われて。訳が分かりません」
「『ストン』?」とカールハインツ。
「ストン」と私。
「あいつは極端なところがあるからな」
そう言った堅物隊長は微かにため息をついたようだった。
「結婚するのか」
「しません! お断りしますけど、よく考えてから返事をしてくれと言われていて、どのタイミングで返事をすべきか悩み中です」
なるほどとうなずくカールハインツ。ここはすごく重要だからね、と言いたい。
「あいつは将来性のある奴だ。きちんと断ってやってくれ」
また、微妙な言い方だ。将来性のある人間に私は相応しくないと考えているらしい。
仕方ないけど……。
でも大丈夫。少しずつ距離を縮めていけば、考えを改めてくれるのだろう。ちゃんとハピエンルートがあるのだから。
◇◇
空にちょっと太めに見える半月が浮かんでいる。
「この方法もどうかと思うのですが」
そう言うと、となりに座ったヨナスが
「迷走してしまった。反省している」と答えた。
いつもの裏庭のベンチ。カールハインツの尋問が終わってここに到るまで、社章つき手紙のやり取りが何往復かあり、結果的に私は自室に迎えに来たヨナスとここへやって来ることになった。
私としてはムスタファに近づきたくない気持ち半分、綾瀬とカールハインツのことを相談をしたい気持ち半分というところで悩み、結局今晩も木崎に会うことにした。
それにしても。
ヨナスはムスタファの私室をふたり一緒に出たという。それならルート的に木崎が先についているはずだ。それなのにまだ来ていない。
「様子を見に言ったほうがよくないですか」とヨナスに言う。
「君をひとりにはできない」
辺りを見回す。
ひとりになるのは怖い。だけど木崎だって王子で、身を狙われることがないとは言えないだろう。遅れていることに不安になる。
「怪我は? 痛みは全くないのか?」
とヨナスが尋ねてきた。私の気を紛らわすつもりなのかもしれない。
「ええ、全く」と答えて軟膏を思い出した。「軟膏をありがとうございます」
「何故、私に?」
「ヨナスさんが私に分けることを提案してくれたのでしょう?」
ヨナスが目をパチクリとする。
「私はそんな事は言っていない」とヨナス。
今度は私が瞬いた。
「あれは彼が魔術師に頼んだ特別品で調合には時間がかかる。それを丸ごと君にあげてしまった」
「丸ごと?」
そう、とヨナスは笑顔でうなずいた。
だってとか、何でとか、そんな言葉が頭の中を回る。私の知っている木崎はそんなヤツではなかった。落ち着かないおかしな気分になる。
「ヨナスさんが知る彼はどんな感じですか。私の知っている彼と今の彼は微妙に違うみたいで、戸惑います」
「他人に関心がないね」即答するヨナス。「幸い私とは打ち解けてくれたけれど、他は一切シャットアウト。君が初めてだ。どんな理由があるとしてもね」
「……あと、綾瀬もです」
なぜかヨナスはふふっと笑った。
と、足音がした。早足だ。
見ると暗い小路を見慣れた不審者がやって来る。
「悪い。巡回の近衛を回避してたら遠回りになった」
そう言う木崎に、心配したよと返そうとしてこれは一昨々日の逆だと気がついた。
あの晩、私はラードゥロに会って迂回路をとった。そして帰り際、木崎はやたら真剣に気を付けろと繰り返したのだった。
意識が低すぎだ。
どこかでゲーム展開以外に危険なことはないとの考えがあったのだろう。自分に何かが起こるとは考えていなくて、私は木崎が心配してくれていたことにも気づかなかった。
ムスタファとヨナスが一言二言言葉を交わし、ヨナスは去りムスタファがとなりに腰かけた。
「フェリクスの魔法は効いたのか」と木崎。
うんと答えると、それならと彼は袋から酒瓶とタンブラーを取り出した。
「木崎。本当に心配かけてごめん」
「気持ち悪いな。なんか下心でもあるのか? 酒はいつも通りしかやらないぞ」
目深にかぶったフードの下から、ムスタファが胡散臭そうな目を向ける。
「……ケチ」
「ふらついたヤツが生意気言うな」
「二ヶ月近く前だよ」
「だから?」
巧みにすり替わった話をしながら、ムスタファがお酒を注いだタンブラーを差し出す。ありがとうと受け取り口をつける。美味しくて、ほうと吐息する。
それからそれをベンチに置いて、代わりに小さな壺を手にした。昨日もらった軟膏だ。
「これ、ありがとう。嬉しかった。一旦、返す。またケガをしたら借りられるかな」
私なりに考えたベストのセリフだ。ケガは治ったからもう必要ない。持っていても、もったいないだけだ。だけど木崎は一度贈ったものを返されるのは嫌いそうだ。しかも自発的にくれたものならば、尚更。
「ケガする前提で言ってんじゃねえよ。アホが」
「そっか」
確かに木崎の言う通りだ。ベストセリフだと思った自分の間抜けさに呆れてしまう。
「この代金は出世払いな」
「え」
「特製品なんだよ。宮本には不相応。ヨナスが言うから仕方なくやったの」
「……」
いや違うよねと言うか迷い、やめにした。そういうことにしておいたほうが私も助かる。優しい木崎なんて調子が狂う。
「その軟膏、木崎しか持っていないのでしょう。ありがたかったけど、カールハインツに訊問されたの」
「どういうことだ」
不思議そうなムスタファ。
「香り。どうしてあなたしか持っていないはずの軟膏の香りが私からするんだって問い詰められた」
「香りか!」小さく叫んだ木崎は壺を見た。「やべえ、気づかなかった」
やっぱり。
「どうやって誤魔化したんだ?」
「下手に誤魔化しても足が出るから」
カールハインツにした言い訳をそのまま伝える。
ムスタファはふうと嘆息した。
「あいつ、軍事だけの堅物だと思っていたのに、案外貴族的なことにも長けているんだな」
「だね」
「いや待てよ。なんで俺しか持っていない軟膏の香りだなんて分かったんだ?」首をひねるムスタファ。「俺はヨナスの前でしか軟膏を塗らない。香りの元が香水じゃなくて軟膏だと分かるはずがないんだが」
「ケガの箇所から匂うからじゃない? 私も木崎の掌から良い匂いがするなと思ったことがあるよ」
「なるほどな」
カールハインツで気づくのだ、何も言わないロッテンブルクさんも気づいているのかもしれないと思いあの後に尋ねてみたら、やはりそうだった。
「ロッテンブルクもか。まあ当然か。となると他にもいるかもな」と木崎。
「綾瀬も」
カールハインツの尋問を終えて廊下に出たら、綾瀬がいた。私の様子を確認したくて待っていたらしい。含みのある目を向ける隊長に元気よく挨拶をした彼は、周りを気にせず私にあれこれ話しかけたあと、ふと真顔になって
「どうして木崎先輩と同じ香りがするのですか」
と小さな声で、だけど不満全開で囁いてきた。
「綾瀬には正直に話したけど」
とそこまで話して、まだ木崎には求婚されたことを伝えてなかったと気づいた。
「あいつにプロポーズされたんだって?」と木崎。
「聞いたんだ。そうなの。急に言われて、びっくりだよ。どうすればいいか木崎に相談したいのだけど」
「どうすればって……。断らないのか?」驚いたような声。
「断るよ。だけどゆっくり考えてから返事をしてくれと言われてるの。すぐに断るのと、ゆっくり考えた結果として断るの、どちらが綾瀬のダメージは少ないかな?」
「即、断れ。どうせ綾瀬はへこたれない」木崎はきっぱりと断言した。「ついでにあいつの頭の中じゃ、もう挙式にまで進んでいる」
「挙式!? 昨日の今日で!?」
「昔から極端なんだよ」
「それはカールハインツも話していた。──分かった、すぐに返事をするよ。期待を持たせたら悪いもんね。ただ、返事をさせてもらえるかが微妙だけど」
今日も、ゆっくり考えてと念押しされてしまったのだ。
「ゲーム的にはどうなんだ。シュヴァルツが知っているのはマズイんじゃねえの?」
「どうだろうね。真摯に対応しないのは悪印象になると思うけど、当然のことだし。ゲーム要素以外が多過ぎて、判断がつかないんだよね。今日なんて」
にへらと顔がだらしなくなるのが自分でも分かる。
「ツンからのデレをいただきました。頭をよしよししてもらっちゃった」
「赤ん坊か!」すかさず入るツッコミ。
「いいの。ロマンなの。騎士の大きな手でよしよしだよ。可愛がられている感があるじゃない」
「意味が分からねえ」
「木崎はツンしかなさそう」
「俺がデレるとか、自分でも気持ち悪い」
「ムスタファなら有りだけどね」
だけどヨナスからなんて嘘をついて軟膏をくれるのは隠れデレなのだろうか。
頭に浮かんだそんな考えに、なんだか居たたまれなくなって、ワインをこくこくと飲んで誤魔化した。木崎のデレなんて、私に向けられるはずがない。あれは親切だ。
いや木崎に親切なんて言葉も似合わないけど。
ふと視線を感じてとなりを見ると、ムスタファがフードの下から私をじっと見ている。
「どうしたの?」
すっと手が伸びてきて頭に乗る。
「よしよし。可愛い赤子だな」と木崎。「どうだ、ムスタファのデレは?」
「ただの嫌味じゃない! やるならちゃんとセリフも決めてよ!」
「無料でそこまでのサービスはできん」
「自分が始めたのに!」
再びワインをこくこくと飲む。
ああ、焦った。いくら中身が木崎でも外見はムスタファ。真正面から見たら、月の王と讃えられる美貌の王子以外の何者でもないのだ。
悔しいけど、うっかりときめきそうになってしまったよ。
何か全く違う話題をと考えて、カルラのことを話した。彼女は私のケガを心配して泣いてくれたらしい。しかもこれから一日置きに格闘系人形遊びをすることが決まった。
「カルラといえばきのうの昼間、俺の部屋を覗いていたな」と言った。「ヨナスが迷子かと声をかけたら違うと叫んで、その声に専属侍女たちが駆けつけたんだ。また逃げ出して探険でもしてたのかもな。懲りねえヤツだよ」
それってもしかして。
「お礼を言いに来たとか」
先日の大捜索のとき、兄のムスタファも庭に出て捜していたと伝えたと話す。
「礼ねえ。前の俺はあいつとろくに話したことがなかった。肝だめし的な探険だろ、きっと」
ムスタファはそう言ったけど、どこか照れくさそうな顔だった。
「ていうか格闘系人形遊びって何だよ」
そこで昨日の激しい人形遊びの話をすると、木崎は爆笑。あいつ面白いななんて楽しそうにしていた。
それから幾つかとるに足らない会話をしたあと、そろそろお開きということになった。
片付けをして立ち上がって。木崎は
「あいつは入り口の辺りにいるから。そこまでは俺について来ていいぞ」と偉そうに言った。
「先導料をまた出世払いさせる気? 私の出世って何だろう。見習い卒業? カールハインツとのハピエン?」
「そりゃ出世とは違うだろ。どうも今日はキレが悪いな。調子が戻ってないんじゃないか」
木崎はそう言ったかと思うと、また手を伸ばした。今度は私の左頬にそっと添えられる。
「フェリクスのヤツ、きちんと治せているのか? また中途半端にしてんじゃねえの?」
「治っているよ。問題なし」
「そう」
手が、離れていく。
心臓が、ドッドッとうるさい。
いくら中身が木崎でも、外見はムスタファ、月の王と讃えられる美貌なんだってば!
心の中で叫ぶ。
急に真顔で頬なんて触れられたら、どうしていいのか分からない。
そっちは女の子の顔なんて触り慣れているのかもしれないけど、私は免疫がないのだ。悔しいから言わないけど!
さっさと歩きだしたムスタファの後ろを歩く。到底となりの気分じゃない。
ああもう本当に。喪女とからかうくせに、そういう配慮は足りないのだから。後ろから膝かっくんでもしてやろうか。それはさすがに小学生か。というかムスタファと身長差がありすぎて、そもそも難しい気もする。
ヨナスが現れて、ムスタファと言葉を交わしている。その横顔が月の光に照らされている。
「そうしているといかにも『月の王』という感じ。近寄りがたいよね」
思わず本音をポロリとこぼす。
「あ?」と王子らしくない声を出したムスタファは「お前に遠慮されるなんて気味が悪い」と鼻で笑った。
なんだかほっとしたのは、秘密にしておく。
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