11・助け

 ベッドに腰掛け膝の上には歴史書が開いてあり、目は字を追っているけど全く頭に入ってこない。さっきから1ページも進んでいない。

 ひとつ息を吐くと、諦めて本を閉じた。


 顔も足首も痛いし。

 何より綾瀬のことで頭がいっぱいだ。

 前世を含めて初めてのプロポーズ。しかも私を目の敵にしていた綾瀬から。


 綾瀬であるレオンが人気があることは知っている。以前ルーチェが教えてくれた。

 貴族の嫡男ではないけれど、近衛兵の中ではエリートで、見目もよい。女の子への対応もスマートだ、といったことが人気の理由らしい。


 確かに私もレオンが綾瀬だと知らなかったとき、普通にときめいたもんね。

 だけどすぐに綾瀬だと分かったから、異性だという認識すら消えていた。綾瀬は綾瀬。木崎の忠犬。

 それにしても『ストン』が木崎絡みというところが、綾瀬らしいというかなんというか。そこはなんだか可愛らしい。


 でも、どうすればベストなのか分からない。じっくり考えてと言われているのだから、すぐにお断りをしたら傷つけてしまうのだろうか。それともその気がないのだから、すぐに申し訳ないと謝るべきなのだろうか。分からない


 こういう問題は木崎に相談すればよいのだろうか。綾瀬のことならよく知っているはずだ。


 だけどこの顔では会えないや。

 頬と足首はずきずきとして痛みは増すばかりだ。


 頭を振ってよみがえる恐怖を追い払う。


 とにかくもう、横になろう。眠れそうにないけれど目をつぶって体を休ませる。明日は仕事をすると自分でロッテンブルクさんに言ったのだ。


 本をしまおうと立ち上がったところで、扉がトントンと鳴った。体が強ばる。こんな日のこんな時間に誰だ。夜に誰かが訪ねてくるなんて初めてのことだ。

 昼間の恐ろしい出来事を思い出してしまう。

 ゆっくりと目を動かし、扉の鍵を確認する。施錠されている。ほっとしたところで、またトントンと叩く音。


「木崎だけど」

 扉越しに低い声。だけど確かに木崎、いやムスタファの声だ。どうしてこんな所に。昼間の件のことを聞きたいのだとしても、いつものベンチでいいはずだ。


「ちょと、待って」

 慌てて本をタンスにしまい、代わりに出したタオルを顔に当てる。

 小さな部屋を数歩で横切って、鍵を開けて扉を細く開いた。

 薄暗い廊下に、よく見る不審者が立っている。


「どうしたの?」

「ん」と不審者はいつもの袋を持ち上げた。「酒じゃねえけど」


 扉を大きく開くと木崎は部屋に入り、袋を小さな円卓に置くと振り返った。

「大丈夫かとは聞かないぞ。どうせお前は大丈夫と答えるから」

「本当に大丈夫だし」

 木崎はふんと鼻を鳴らした。

「それ。治癒魔法を使える魔術師の手配はできる」

「必要ないよ。なんでムスタファ王子が手配をするのかと訝しがられるのは面倒」

「それも言うと思った」

 そう言って木崎は袋を覗き込んだ。


 やっぱり耳に入ったか。顔を殴られたことまで。


「これ」と木崎は小さな壺を取り出した。「打ち身用。魔力が込められているから効力が高い。俺のだけど分けてやる。ヨナスが渡してこいとうるさいからな」

「ありがとう」素直に受けとる。「ヨナスさんに伝えてね」

「さっさと塗っとけ」


 木崎は背を向け、

「ベッドを借りるぞと」

 一言、円卓をそばに運ぶ。

 私も背を向けると壺の蓋を開けた。中は香りの良い軟膏だ。掬って痛む頬にぬる。それから足首。

 終わって振り向くと木崎はまだ背を向けて、円卓の上をいじっていた。


 前世のときは、気なんて利かないガサツな男だと思っていたのに。


「何を持ってきたの?」

 と歩みより尋ねる。

「ココア。ヨナスの魔法でまだ温かい」

 それから、と次々と高級な菓子が出てくる。

 何人分を持ってきたんだ。ココアをお供にチョコを食べるのか。

 そんなことを心の中だけでツッこむ。


 出し終わると木崎は当然のように、ひとのベッドに腰掛けた。私が、自分の左側にくるような位置だ。なんなんだ、この気の遣いようは。


 アンニュイさを感じさせるはずの月の王は、水筒のふたを開けてタンブラーにココアを注いだ。

「ほら」と差し出される。

「ありがと」

 口をつけると程よい温かさだ。


「綾瀬に助けられたんだって?」と木崎。

 自分のタンブラーにもココアを注いでいたけれど、口をつけずに持っている。

 うんと答えながら、木崎はどこまで綾瀬から聞いているのだろうと考える。

「ヨナスの話じゃ、ものすごい勢いで噂が駆け巡っているらしいぞ。近衛のイケメンがお前を大事そうに抱えて憤怒の形相だったって」

「尾ひれがすごい」


 心臓がバクバク言っている。昨日までなら本気で尾ひれと思ったけれど、今日では事実かもと思う気持ちもある。


「だけど綾瀬はナイスタイミングだったよ。感謝しかない」

「巡回中だったらしいな。俺はまだあいつと話してないんだが、下衆野郎を吹っ飛ばしたんだって?」

「そうみたい。見てなかったけど、すごい音がしたのは聞いたよ。綾瀬がやり過ぎを咎められないか心配だったんだけど、問題なさそうで良かった」

 ムスタファはうなずいた。「パウリーネが一枚噛んだみたいだな。目的はどうあれ、良い仕事をしてくれた。お前も反撃したんだろ。クラヴァットに火をつけたって聞いた」

「そうだけど噂はすごいね。全部語られてる」

「……だな」と木崎。「ヨナスが褒めていた。とっさに魔法で反撃するのは素晴らしいとさ」

「ロッテンブルクさんに教わったの」

「それでも、だ」


 ちょこちょこと言葉を交わしながら、考える。


「で、これはゲーム展開なのか?」

 え、と言葉に詰まった。すっかり自分がゲームの世界にいることを忘れていたのだ。

「ちがう」

「そうか。もし危険な展開があるなら早めに俺かヨナスか、綾瀬にでも言っておけよ」

「分かった。ありがとう」


 危険な展開ならばひとつだけある。けれど問題はないはずだ。それがあるのはムスタファルートだから。


「ていうかクラヴァットなんて生ぬるい。髪でも燃やしてやればよかった」と木崎。

「確かにね。そこまで考える余裕なんてなかったよ」

 ハハハと笑ったら、ムスタファの顔がこちらを向いた。怒っているように見える。


 この件を木崎に知られたら間抜けめと笑われるかと思っていたのに、実際は笑いもしなければ叱りもしない。

「……ごめん。心配かけて」

「俺がお前を心配すると思うのか。バカじゃねえの」

 そう言うムスタファの声は明らかに怒っていた。

「お前はのんきにこれでも食っとけ」

 ムスタファは円卓の上からチョコを乱暴に取ると、私に向かって放り投げた。


「……ココアとチョコってさ」

「文句はヨナスに言え。用意したのはあいつだ」

「ありがとね」

「伝えればいいんだろ」

「木崎も。届けてくれてありがとう」

「やめろ。素直な宮本なんて気持ちが悪い」

「素直な木崎も気持ちが悪いだろうね」

「俺はいつだって素直な言葉しか口にしてない」


 しばらくいつものように言い合って、なんだか日常的なことをしていることにほっとした。

 よし、この勢いで話しておこう、と決める。


「私の魔力のことなんだけど」と切り出す。「人よりちょっとばかり強いの」

 今まで木崎に魔力の話はあまりしないようにしてきた。だけど心配させるくらいなら、話しておいたほうがいいだろう。

「ああ、あの金属は凄かった」と木崎。

「珍しいものはあれしかできないのだけどね。生活魔法は呪文を口に出して唱えなくても使えるの」


 これは誰もができることではないという。実際に集中力が余計に必要で魔力の消費も大きいので、あまり使わない。

 だけど今回はこのおかげで助かった。無詠唱が使えなかったらヤツに反撃できなかっただろう。


「それに対象を見なくてもできる」

 これも同じく、誰でも、というものでもないらしい。やっぱりほとんど使うことはないけど。


「すごいじゃん。ヒロインパワーか?」

「それにしては地味すぎるけどね。でも今回は役に立った。身を守る術になると分かったよ。こんな目に遭うことはもうないから」


 木崎は一度私を見て、それからまた目を反らした。

「……そうしてくれ」

「もちろん」

「その軟膏は貴重なんだからな」

 傍らに置いた壺を見る。中身はたっぷり入っていた。

「大切に使わせてもらうよ」


 なんでそんな効能の高い打ち身用軟膏を持っているの、なんて野暮な質問はしない。月の王のムスタファ殿下が必死に剣術を習っているらしいという噂は聞いている。王子の掌は荒れているけれど、きっとそれだけではないのだろう。


「あとさ、綾瀬がね」

 そう言いかけたとき。


 トントン、と扉が鳴った。


 木崎と顔を見合わせる。一体、誰だ。またも心臓がバクバク鳴り始める。


 再び、トントンと叩く音。

「私だよ」と声がした。「フェリクスだ」

 ムスタファが音もなく立ち上がると、扉の脇、蝶番側に潜んだ。私を見てうなずく。


「今、開けます」フェリクスに呼び掛け、タオルを顔に当てて足早に部屋を横切り扉を細く開けた。

 そこにいたのは確かにフェリクスで、後ろには従者がいた。


「見舞いに来たぞ、マリエット。中に入れてくれるか」

 チャラ王子は笑みを浮かべているが、何を考えているかは分からない。

「申し訳ありませんが」

「ムスタファは良くて私はダメなのか」


 息を飲む。囁くような声だった。だが確実にムスタファと聞こえた。


「中にいるのだろう?」とフェリクス。

 と、脇から引っ張られたかと思うと、木崎が私の前に立っていた。


「何の用だ」

 ムスタファとは思えない、地を這うような声だった。

「だから見舞いだ」とフェリクス。「君が良くて私が駄目な理由があるのか? それとも君たちは『そういう』仲なのか」

「違うが断る」

「何故、君に阻まれなければならないのだ。納得できない。やはりムスタファは惑わされているのか? シュヴァルツに報告するか?」


 ムスタファは振り向いて私を見た。どうするかと問う目に見えたが、私が返事をする前に扉を開いてフェリクスだけを招き入れた。


 チャラ王子は扉が閉まるのを確認すると、私に向かって

「本当に見舞いに来たのだ」と言った。「今回は怖い思いをしたな。可哀想に」

「ご心配をかけて申し訳……」


 フェリクスの手が私の顔に向けて伸びてきた。体が勝手に強ばる。

「おいっ!」

 木崎が小さく声を上げて、その手を払った。


「君はマリエットの騎士なのか」とフェリクスは第一王子を睨んだがすぐに「だが今のは私が悪かった。すまない」と私に謝った。「マリエット。顔を見せろ。私は治癒ができる。痛みを抑えてやる」


 木崎を見る。

「お前がそんなことができるとは聞いていないが」とかつてのライバルが代弁してくれた。

「話していないからな。魔力を膨大に使う治癒をしてやりたい相手なぞ今まではいなかった」

「治して何を要求する?」と木崎。

「何も要求などしない。が、そうだな」とフェリクスは目をベッドに向けた。「お茶会に参加はさせてもらおうか」


「要求しているじゃないか」とムスタファ。

 だけど私を見て

「フェリクスの魔力が強力なのは事実だ。条件がそれだけならば治してもらったほうがいい」と勧めた。

「今夜は痛みを取るだけだけどな。きちんと治すのは明日だ。でないといつどこで私と共にいたのだと詮索されるだろう? 私は一向に構わないけどね」

「そういうことを言うから、信用されないのだ」

 肩をすくめるフェリクス。


「治していいか、マリエット」

 そう尋ねてくれた声に、いつもの軽薄さはないようだった。

「お願いします」

 ありがたく好意を受け取らせていただこう。頭を下げると、

「ちょっと違うな」とフェリクスは言った。「感謝してくれるのは嬉しいが、私が治したいのだ。君が痛々しいのは、私が辛い」

 その声もやはり普段の調子ではなく、優しく聞こえた。


「タオルを外せるか」

 木崎がさりげなく目を反らしている。

 本当に、いつからこんなひとになったのだろうと思いながらタオルを外した。

 フェリクスの手が左頬に添えられる。


 温かい。そう感じた次の瞬間手から何かが流れ込んでくるのが分かった。


 長く感じたけれど、多分数十秒だったのではないだろうか。

「今夜はここまで」とフェリクスは手を離した。「どうだ?」

「痛くないです!」

「そうだろう」

 すごい。違和感は残っているけど、全然ちがう。

「そこに腰掛けて足もみせてみろ」


 足。この世界では他人に見せるものではない。女性は常にくるぶし丈のスカートで隠している。


「いいから座れ」そう言ったのは木崎だった。「こいつはただの医師。気にするな」

「うん……」

 ベッドに腰掛けると、私の前にフェリクスはひざまずいた。王子なのに。それからどちらの足かと聞いて頬と同じように手を当てた。

 こちらもすぐに温かくなり、痛みが引く。


「どちらも応急処置だから、明日の朝にマリエットを私室に呼ぶ。ちゃんと来るのだぞ」とフェリクス。そして立ち上がると「君も来ていいぞ。私の素晴らしい魔力を見せてやろう」とムスタファに向けて言った。


「殿下、ありがとうございます」

「ああ。これで私の株がまた上がったな」

「こうやっていつも女をたらしこんでいるのだろう」とムスタファ。


 なんだかんだふたりは言い合いながらもムスタファが真ん中になって三人でベッドに並んで座った。


「楽しそうなことをしているな」とフェリクスが円卓の菓子に手を伸ばす。

「他人の見舞い品を食べるのか」とムスタファ。

「君は魔力がゼロだから分からないだろうが、治癒はひどく消耗するのだぞ。ひとつくらい、構わないだろう?」


 フェリクスの言葉に木崎が苛立ったのが、表情で分かった。どうしてフェリクスは他人を煽るようなことを言うのだろう。


 しかも返事を待たずに菓子を食べるチャラ王子。

「それでふたりの関係は何なのだ」

「説明したくない」と木崎。

「ムスタファ。どうして私を嫌う」


 自分の胸に手を当ててみたらと言ってやりたい。

 フェリクスが身を乗り出して私を見た。


「私が彼女を気に入ったからか。ふたりは恋仲か?」

「ちがいます」

「だがこんな日に部屋に招き入れている。普通ならば恋仲だと考える」

「お前は常に発情期だからそんな考えしか浮かばないのだ」とムスタファが言う。

「君は黙っていろ。私はマリエットに尋ねている」


 ピシャリとそう言ったフェリクスは。

「もうひとつ質問だ。君は何故、ムスタファを『キザキ』と呼んでいるのだ?」

 そう尋ねて、私と木崎は息を飲んだ。

「一昨日の夜、裏庭で密会していただろう?」とフェリクス。「君はムスタファを『キザキ』と呼んでいた。どうしてだ?」


 ムスタファが私を隠すかのように身を乗り出した。

「それを知ってどうする」

「想う相手に特別な仲の男がいるのだ。知りたいと思うのが当然の感情だと思うが」

「ふざけた答えはいらない」

「ふざけてなどいない。それとも君は私がマリエットを想うのはふざけた気持ちと断じておきたいのか」


 静寂が訪れる。見えないけれど険悪な睨みあいでもしているのかもしれない。

 ムスタファの袖を引っ張る。不機嫌な顔が振り返った。


 私に話をさせて。そう言おうと思ったのだが、

「それに」とフェリクスが続けた。「『キザキ』と呼ばれるムスタファは、まるで別人の言動だ。どういうことなのだ」

「説明したくない」木崎が背を向けてまた言う。「こいつの傷を癒してから、それでは秘密を話せと迫る。やり口が汚い」

「そんなつもりでは」


 ふふっ、と思わず笑ってしまった。あれほどあった緊迫感が和らぐ。


「何を笑っているんだ」と振り返える木崎。

「だって手段を選ばなかった木崎が『やり口が汚い』って。おかしいじゃない」

 知られてしまっているなら、隠す必要もない。いつも通りに木崎と呼び話す。

「俺はいいの。他人のは許せない」

「さすが自分勝手」

 私は身を乗り出して、フェリクスを見た。


「治癒して下さったことは感謝します。ですから、私たちは殿下が考えるような間柄ではないけれど仲は良いのですと、お答えしましょう。それ以上をお知りになりたいのでしたら、こちらの質問にお答え下さい」

「ふうん。仲良し、ね」

「それから私は殿下には興味はありません」

「ならば私は何番目ぐらいに良い男だ? 一番がシュヴァルツ。二番目か?」

 私がカールハインツを好きだなんてフェリクスに話したことはない。


「殿下はどこまでご存知なのですか? 怖いを通り越して気持ち悪くなってきました」

「ストーカーだな」と木崎。

 それには答えずフェリクスは、

「二番はムスタファか?」と尋ねた。

「まさか」と木崎と私の声が重なる。

「二番以降はいません」と付け加える。

「それなら望みはあるな」とホクホク顔のフェリクス。

 どういう思考回路をしているのだろう。


「それなら二番はテオで三番はレオン・トイファー」

「は?」と木崎が振り返る。

「助けてもらったから」

「あや……、レオンが俺より上? おかしくないか?」

「私のランキングに入りたいの?」

「フェリクスよりは上に入れろ」

「仲が良いのは分かった。見せつけなくていい」とチャラ王子。


「それで君は私に何を質問したいのだ」とフェリクス。

「まずは一昨日の夜に私たちが会っていたことを、どうして知っているのですか」

「酔い醒ましに庭を散歩していたら、声が聞こえた」


 わざわざ裏庭を?と思うが、次の質問をする。

「私たちのこと、ムスタファ殿下の態度がちがうことを知っているのはあなたの他に誰でしょうか」

「私の従者、ツェルナーだけだ。他言するつもりもないから安心するといい」

 フェリクスは笑みを浮かべている。


 安心、と考える。第一王子と私の関係は表沙汰にならないことが一番だけど、なにがなんでも秘密を保持しなければならないことではない。

 孤児院出身の私を王子が憐れんでくれたなど、いくらでも言い訳は立つだろう。

 フェリクスの言葉が真実でも嘘でも、大丈夫。


「ありがとうございます。殿下を信用いたします」

 にこりと笑みを浮かべる。

 ムスタファはちらりと私を見ただけで、何も言わなかった。


「それでは私の番だ。何故ムスタファが『キザキ』なのだ?」

 フェリクスが再び問う。ムスタファは相手から見えない位置で左手を上げた。私を制するように見える。それから

「その名前で会ったからだ」と静かに答えた。


「王子と侍女見習いとして会う前に、別の場所で知り合った。その時私はキザキと名乗り振る舞いも違った。王宮で再会したのは偶然でお互いに何も知らなかったから驚愕したが、友情は変わらずというところだ」

 私も、その通りとうなずく。

 ムスタファは事実を述べている。話していないことが多いだけで。


「ふうん」

 とフェリクスも納得している様子ではない。

「これ以上は話さない」とムスタファ。「私たちはそこまで親しくはないからな」

 冷然とした月の王らしい声。

「まあ、構わない」フェリクスは案外軽く答えた。だが、「マリエットが私の恋人になれば『親しい仲』だ。そのときは説明してくれるな」とにっこり。


「ほとほと図々しい男だな」

「もしくはムスタファが私に心を開いたらば」フェリクスはそう続けた。「近頃の君は面白い。冷ややかな顔を保っているその下で、強烈な負けず嫌いさを爆発させていたりする。剣の手合わせとかな」

「嫌われたいとしか思えません」

 思わず口を挟む。


「ん。そうか」とフェリクス。「そんなつもりは一向にないのだが」

 どこがだ。ムスタファを苛立たせたいとしか思えない。

「以前のムスタファはつまらぬ男だったからな。君が変わったから構いたいのだ。許せ」


 どこまで本気か分からない。だけど声には、私を治したいと言ったとき同様に普段の軽薄さはないように聞こえた。

 それを感じ取ったのかムスタファも一言、勝手なことを言うなとだけ言ってそれ以上はこの話題を続けなかった。


 それから幾つかとるに足りない話をすると、フェリクスはそろそろ帰るかと立ち上がった。

「マリエットはよく寝て休むように。明日の朝、呼ぶからな」

「承知しました。ありがとうございます」

「君は帰らないのか」フェリクスはベッドから動かないムスタファを見た。

「お前が出たら帰る」

 チャラ王子は肩を竦めた。

「おやすみ、マリエット。キスをしたいところだが、今夜は諦めよう」

 そう言ってフェリクスは投げキスをした。


 思わず避ける。

「……酷くないか」

「すみません、つい」

「本能だな」とムスタファ。「彼女は軽薄な男が嫌いだ」

「真面目なら善人という決まりはないぞ」とフェリクス。「早く私を好きになるといい。では、明日」


 そうして軽薄な王子は部屋を出て行った。

「俺も帰る」

 振り向くと木崎が円卓を片付けていた。

「ココアは温めなおせるだろ? 置いていく」

 お菓子を袋にしまい、ゴミは自分が使ったタンブラーに詰め込む月の王。


「王子らしさが欠片もない」

「お前は可愛げが欠片もない」

 間髪いれずに返された。いつもの雰囲気にほっとする。


「明日は俺も行くけど」と木崎。「ロッテンブルクに付き添ってもらえ。フェリクスは何を考えているのか分からない。酔いざましで裏庭にいたというのは嘘だろう。あいつはザルって話だ。女連れだったというなら信憑性があったんだがな。気を許すなよ」

「了解」


 今日の木崎はやけに過保護だ。フェリクスから私を隠すように動いたり。

 ありがとね、と心の中だけで感謝する。まさか木崎にこんなに心配される日が来るとは思わなかった。


「綾瀬の話はまた今度聞く」

 綾瀬。フェリクスの登場ですっかり忘れていた。むしろ木崎はよく覚えていたよ。

「そうね、また今度」

「鍵をしっかりかけろよ」

 木崎はそう言って、おやすみ、とタンブラーを片手に部屋を出て行った。


 木崎だけどムスタファだから優しいのだろうか。

 閉じられた扉に鍵をかけながら、そう考えた。

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