10・理不尽
日がだいぶ陰り、廊下も燭台が灯され始めていた。カルラの部屋からの帰りだ。
どうやらカルラに気に入られたらしい私は彼女に呼び出されて、人形遊びを共にした。
人形なのに私の服よりも高そうなドレスを纏った令嬢は『アンサツシャ』。一方で姫の持つ人形は本物らしき宝石のはまったティアラを着けた姫君だけど、『シュヴァ隊長』。
カルラはたどたどしいながらも勇ましく口上を述べ
「成敗!」
と叫び、見えない剣を振るってアンサツシャと戦った。人形遊びというより、ヒーローごっこだ。
果たしてこの遊びはいいのだろうかと乳母を見たら、頭が痛そうな顔はしていたけれど口出しはされなかった。
二時間近くもこの遊びをして、カルラは満足したようだ。別れ際に、またしようねと誘われた。彼女が本当にしたいのは剣を習うことだけど、許可してもらえないから人形のごっこ遊びとなったらしい。
それを終えて廊下を歩いていると、部屋のひとつから男が出てきた。バルナバスの友人で、私を見ると必ずバカにした笑みを浮かべるいけすかないヤツだ。
確か伯爵家の嫡男だけどバルナバスの他の友人に比べて、底が浅そうな印象だ。
ヤツは私に気がつくと、ちょっとと呼んだ。仕方なしに近寄る。
「具合の悪い令嬢がいる」と彼は出てきた部屋を指し示した。「私は医者を呼んで来るから、付き添ってやってくれ」
それは大変だ。
「かしこまりました」と部屋に入る。が、どこにも令嬢の姿はない。もしや物陰で倒れているのかと奥に進んだところで、バタンと扉が閉まる音がした。
慌てて振り返ったところを突き飛ばされ、床に倒れこむ。その私の上に、何かが乗っかった。いけすかない伯爵令息だった。
「楽しもうか」
と下卑た笑みを浮かべる。
暴れても相手はびくともせず、声をあげようとしたら口を塞がれる。恐怖でどうすればいいのか分からない。
『万が一のときは攻撃をして構いません』
突然、頭の中にロッテンブルクさんの声が響いた。それは王宮に上がってすぐ、侍女の心構えを教えてもらっている時だった。
『あなたを侍女にするよう動いた方が、許可をしています。もし身に危険を感じることがあれば、躊躇わずに反撃をしなさい。魔法も使いようによって良い武器になります』
ロッテンブルクさんは、そう言った!
もごもごと、塞がれている口を精一杯に動かし集中する。
次の瞬間、下衆男のクラヴァットに火がついた。
「っ!!熱っ!!」
相手が慌てたところで下から抜け出し、扉に駆け寄る。
「あ、待て、この野郎!」
部屋を飛び出し、助けてと叫ぼうとしたが声にならない。
突然結った髪をものすごい力で引っ張られて、ガクンとのけ反る。
また捕まったという恐怖。その時。
「何をしているっ!!」
そんな叫び声が聞こえたかと思うと駆けてくる足音がした。頭が自由になる。
助かった。
走ってきた誰かがへたりこみそうになった私を抱き止め、と思ったら何やら激しい音がした。
「先輩! 大丈夫ですか! 先輩!」
……せんぱい。
私を抱えている人を見上げたら、レオンの顔だった。
「……綾瀬……」
とたんに安堵が広がる。綾瀬なら、大丈夫。助かった。
「……大丈夫。大丈夫。ありがと」
気が緩み、ついでに涙腺まで緩む。
「先輩っ!」
心配してくれたのだろう、綾瀬がぎゅっと抱き締めてくれる。それから綾瀬は私を抱えあげた。
「おとなしくしていて下さい。ロッテンブルクさんの仕事部屋にお連れしますから」
「……恥ずかしいのだけど」
顔は綾瀬側の向きで、体格が大きいものだから首を巡らせない限り周りは見えない。でも恥ずかしいものは恥ずかしい。
だが
「怪我人は黙って」と一喝されてしまった。
怪我……なんてしただろうか。
まだ心臓はバクバクしているし、よく分からない。
とりあえず助かり、事なきを得た。
「ありがと、綾瀬」
「……レオンです」
「ありがと、レオン」
「どういたしまして」
「木崎には言わないでね。こんな情けない話」
「……気づいていないでしょう。唇が切れているし、他も酷い。平気なフリなんてしないで下さい。あなた、ずっと震えてますよ」
震えている?私が?
綾瀬の腕に力が入った気がした。
◇◇
私は自分で思っていた以上に、酷い状態だったらしい。駆けつけたロッテンブルクさんは私を見て息を飲んだあと、ぎゅっと抱き締め
「怖かったでしょう!」
と悲痛な声を上げたのだった。
すぐに医師がやってきて手当てをしてくれたが、恐らく突き飛ばされたときに捻った足首の捻挫、怖かったせいで記憶がないけれど殴られたらしい左頬の腫れと切れた唇。他にもアザやら引っ掻き傷やらがいくつもあった。
衣服は破け、髪もぐしゃぐしゃ。それをロッテンブルクさんが新しい服を着せ髪も結い直してくれた。
診察と身支度が一通り済むと彼女は、しばらくここで休んでいなさいと言って慌ただしく部屋を出て行き、代わりにルーチェが付き添ってくれた。ロッテンブルクさんが気遣ってくれたのだろう。普段の私には縁のないココアや甘いお菓子も運ばれてきた。頬に氷を当てているから食べにくいけど、気持ちはありがたい。
気分が落ち着いてくると、次第に綾瀬のことが心配になり始めた。
あの下衆は伯爵家の嫡男だ。綾瀬も伯爵家の人間だけど四男で身分は下になる。大丈夫だろうか。
ルーチェにそう訊くと、
「あなたは自分の心配をしなさい。しばらく痛いだろうし、あらぬ噂を立てられるわよ」
との答えが返ってきた。
噂なんて気にしないと強がりたいところだけれど、こればかりはダメだ。せっかく良い感じになったカールハインツにどう思われるのか不安になる。
……それに木崎になんて言われるかも。
「……今度、要注意人物を教えてあげる。あいつ以外にもいるから」とルーチェ。
「ありがとうございます」
「……」
それから彼女は菓子を引き寄せて、これが美味しいのだとか、私の実家では何が人気だとか、そんなことを熱心に語った。きっと私の気を紛らわそうとしているのだ。
そうこうするうちに、ロッテンブルクさんが戻ってきた。
「全て解決しました。安心なさい。パウリーネ様は以前からあの青年をよく思っていらっしゃらなかったのです」
伯爵家の子息ではあるけれど、どうにも品性が下劣だ。息子の友人として、いかがなものだろうか。本人も苦手としているようだ。
パウリーネはそう考えていたらしい。だから今回の件は彼女にとって良い機会なのだ。かばい立てをするどころか一撃を与えて、王子の友人に相応しくないと言外に示す。
そこで近衛府から正式に、この事件は侍女への暴行罪に値すると通告することに決まったそうだ。
とは言え向こうは貴族で私は孤児。示談で解決することになるという。
「ふんだくってやりましょうよ」とルーチェ。
「言葉遣い」とすかさずロッテンブルクさんが注意をする。「ですが安心なさい。そのつもりです」
ロッテンブルクさんに感謝を伝え、それからレオンのことを尋ねた。
「トイファーさんは過剰な対応だと咎められたりはしませんか」
有能な侍女頭はしっかりとうなずいた。
「『咄嗟の時でも加減ができるように』との注意のみで済むはずです」
「良かった!」
今度は心の底から安心して。ようやく人心地がついた気がした。
◇◇
トントンと扉を叩く音がして、綾瀬のレオンが顔を出した。
侍女頭の仕事部屋。
私は今日はもう仕事はしなくてよいとのことだったけれど、自室でひとりは嫌だろうからここにいるように、と彼女が気遣ってくれたのだ。
「マリエットとふたりで話したいのですが」とレオン。
だけど侍女頭はすげなく断る。多分、私の精神を心配しているのだ。
「トイファーさんなら、私は大丈夫です 」とロッテンブルクさんに伝える。
と、綾瀬は侍女頭に歩みより、その耳になにやら囁いた。ふたりは何やら視線を交わしている。
それから侍女頭は、分かりましたと折れた。
「ならば私はパウリーネ様の元へ行ってきます。扉は開けておいて下さい」
そうして彼女は出ていき、部屋には綾瀬と私のふたりきりになった。
「綾瀬」と声をひそめて呼び掛ける。「本当にありがとう」
「いいえ。複雑な気分ですよ。もう少し早く通りかかっていれば、先輩が殴られることはなかったのに」
「『少し遅かった』じゃなかったのだから、ベストタイミングだよ」
綾瀬のレオンは大きく息を吐くと、そばにやって来た。
「顔。かなり痛いでしょう?すごく腫れていますよ」
「まあね。この件、さすがにヨナスさんあたりから木崎の耳に入るよね。見られたくないから、避けて仕事をしないと」
彼は再びため息をつくと、私の前の床にひざまずいた。
「どうしたの」
「腹をくくりました」
「何を!?」
レオンの顔はいたく真剣だ。一体何の腹をくくったというのだ。
きゅっと手を握られた。綾瀬に。何かな、これは。まさか私の顔の仕返しに下衆を一発殴ってくることにした、とか?
あのアホは肋骨が何本か折れたらしいと聞いているけど。
「宮本先輩」と綾瀬。
「何でしょう」
「僕と結婚して下さい」
……レオンの顔はやはり真剣。ふざけているようには見えない。
ということは。
うん、きっと聞き間違いだ。結婚だなんて。ツッコミどころが多すぎる。
「理解できていないようなので、もう一度言います」と綾瀬。「僕と結婚して下さい。結婚です。婚姻。マリッジ」
畳み掛けられる言葉からすると、聞き間違いではないらしい。
「ど、どうしちゃったの、綾瀬。何か悪いものでも食べた? 分かった、頭を打ったんだ」
「どちらも違いますよ。実のところ、宮本先輩は僕のタイプなんです」
「はいっ!?」
いや、待って。綾瀬からそんな雰囲気を感じたことは微塵もありませんけど。それについ昨日まで、私を見ると睨んできてたよね。
「話したでしょう? 僕は自分が弱かったから、パワフルな人に憧れるって」
聞いた覚えはある。
「あれは同性の話では……」
「異性だって同じですよ。歴代の彼女はみんなそのタイプでした」
『歴代』。綾瀬のくせにそんなに彼女がいたのかと、一瞬敗北感が湧き上がるが、今はそれどころではない。
「ただ宮本先輩は木崎先輩のライバルで犬猿の仲でしたから、論外だったんです」
「……なんで論外なんかに結婚を申し込むのかな?」
全くもって訳が分からない。だけど綾瀬は初めて表情を変えた。照れている。
「先輩、僕に怒ったじゃないですか。フェリクス殿下と手合わせした木崎先輩のことで」
うん。怒った。半ば八つ当たりだった。ごめん。というかまさか綾瀬は怒られるのが好きなのだろうか。
「驚きました」と綾瀬。「先輩はものすごく木崎先輩を理解しているんだって。ちょと焼きもちをやいたぐらいです」
「はあ」
「そうしたらストンと」
「ストンと?」
「あなたを好きになっていました」
レオンは照れてれの顔だ。
つまり私が木崎を理解しているところが綾瀬のツボにはまったと……。なんだそれは。
「ただ」とレオンは再び表情の引き締めた。「申し訳ないけれど、あなたは孤児院の出身です。四男とはいえ僕は伯爵家の人間なので、両親は結婚なんて絶対に許しません。それから僕はこれでも部隊長は確実と言われている有望株なんです。身元不確かな相手との結婚は、出世において確実にマイナスになります。だからものすごく悩んでいたんです」
「私を睨んでいたのはそのせい?」
「睨んでなんていませんよ?」
おや。認識に差があるようだ。睨んでいたのではないのなら、悩みが顔に出ていたのだろうか。
「とにかく」と綾瀬は手に力を込めた。「今日のことで腹は決まりました。僕はあなたに何かあることが耐えられない。守りたい。そのためなら両親と戦う覚悟だし、出世も必要ない。だから僕と結婚して下さい」
「……」
これは、真剣な求婚なのではないだろうか。
突如としてその重みがのしかかってくる。
「隊長より僕のほうが確実にあなたを幸せにしますよ。隊長は立派な人ですが、理由があって女性と添い遂げない覚悟をされていますから」
「……木崎から聞いた」
「いつ? 僕抜きで会ったのですか? 最近三人で会ってないですよね?」
レオンの目が険しい。もしやこれは恋愛界隈で有名な嫉妬というものだろうか。まさか。綾瀬が? 大好きな木崎に?
「ああ、もう。そんな不安そうな顔をしないで下さい」レオンはそう言って眉を下げた。「あなたのそんな顔を見たくなくてプロポーズをしているんです」
本当に本当の求婚なのだ。私はきちんと、返事をしなければならない。
「ええと、綾瀬」
呼び掛けたものの、断るときは何て言えば相手を傷つけないのか分からなくて口ごもる。求婚どころか告白もされたことがないから、こんなシチュエーションは初めてだ。
だけど
「返事はまだいりません」と綾瀬は言った。「僕に求婚されてあなたが戸惑うのは分かっていましたし、タイミングだって自分勝手です。だけどどうしても伝えたかった。あなたとの未来を望み、あなたを心配する男がここにいる、と。だから返事はじっくり考えてから聞かせて下さい」
「……分かった」
レオンはかすかに笑みを浮かべて、うなずいた。
「ありがと。その……色々と」
「先輩は知らないでしょうけど、僕は女性からの人気が高いんですよ。選んで損はありませんからね」
そう言ったレオンは、今度ははっきりとした笑顔だった。
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