終わり




 まぶたの裏に明かりを感じた。薄く目を開けると太陽は高く高く上っていて、ダイニングはひかりに満ちている。まだこちらに戻ってこない意識の端で、ぼやりと思った。眠りの途中で目が覚めないことなんて今まであっただろうか。ぐっすりと眠りすぎて体の感覚が曖昧で、首だけを曲げて隣を見ると空っぽだった。呼吸をした。よれた毛布からはまだイガラシの匂いがしていた。

 幹線道路のノイズに混じって階段が鳴る。聞き慣れたヒールの音、いつもなら、飛び起きて姿勢を正す。彼女の機嫌を損ねないように、逆鱗に触れないように、細心の注意を払って接していた。殴られるのも、なじられるのも、とても嫌だった。私はそうやって自分を守っていた。

 ドアが雑に開いても、私はまた瞳を閉じた。偽りの寝息を立てた。ひかりは遮られた。

 首もとに手がかけられたとき、世界がひとつ消えた気がした。久し振りに触れた母さんの手のひらは、ゆっくりと私の首を絞めた。皮膚が、肉が、管が歪んできしむ。喉の奥がひゅ、とだけ短く鳴った。

 まぶたを開ける。母さんの顔は、何の表情も張り付いていず、ただ透明に見えた。またひとつ消える。その代りに生まれた違う世界を、私は選んだ。

 左腕を振り上げる。母さんは一瞬、止まって、叫んだ。イガラシが置いていったギザ刃のナイフが母のあばらをえぐった。浅い。それでも首から手は離れて、母さんはフローリングに血を垂らした。彼女の口が開くので、肩のあたりを突き飛ばして床に倒して顎を蹴った。サッカーボールを、ゴールに叩き込むみたいに、振りかぶって蹴った。丸めた足の指先は顎を砕いた。叫び声は呻き声に変わる。鼻も叩いた。ニスが塗られ、つるりとしているナイフの柄で斜め上から削ぐように殴ると、鼻はなんだかよくわからないものになった。

 右腕、右足、左足、最後に左の腕を刺した。静かになった。

 ふう、息をつく。むせた。絞められた喉が、渇いていたから、ナイフを掴んだまま台所まで歩いた。コップは昨日、全部割れてなくなってしまったから、水道を開けて、流れる水をそのまま飲んだ。

 後ろで、ぶちゅぶちゅと声がした。なあに、と返すと、またぶちゅぶちゅした。近寄って、顔の横にしゃがんだ。なあに。耳を近付けてもう一度聞いた。

「あかひゃん……あかひゃん、いるの」

 自分の目がまるくなるのがわかった。振り向き、彼女の腹部に目をやる、瞬間、めくれた服の裾からはみ出た、赤紫の痣が見えた。

 嫌になるほど知っていた。これは、打撲痕だった。

 ああ、なんだろうな、と思った。これは、なんだろう。イガラシの顔が浮かんだ。笑っていた。

 私が今までしたことやされたこと、生きてきたことの全てが、なにか、何か大きな力によって、ここへと向かっていたような気がした。

 私が黙っていることを、都合よく考えたのか、母は血まみれになった顔を汚くゆがめて嬉しそうにした。

 あなたのきょうだい。追い討ちをかけるように言う。

「そうだね」私は答えた。腕を薙いだ。ナイフは母の首筋を裂いた。

 飛沫をあげて吹き上がる血が、映画みたいだな、と思った。本当にこんな風に、人は死んで行くんだな。悲鳴にならない悲鳴のなかに、ひとごろし、と小さく聞こえた。もうひとつ聞こえる。あんたあ、なんにゃの。ああ、この人は本当に可哀想だなあ。

「犬だよ」

 それだけ言って、母の喉笛に喰らいついた。犬歯を傷にめり込ませ噛んで力の限りで引きちぎった。体の組織がぢりぢりと糸をひくように破れてゆくのが、溶けたチーズにどこか似ていた。犬が頭を振るみたいに振ると肉がぴたぴたと頬に当たった。吐き出す。肉片が床にへばりつく。母の首にはいびつな穴が火口のようにぽかりと空いて、そこから血がごぶごぶと溢れて溜まりをつくっていた。

 私を見つめ、見開かれた母の瞳、だんだんと視線は私のうしろを抜けてゆくように、焦点がずれて、虚空に定まったままで止まった。なにも映さなくなった瞳を眺めて、ああ死んだ。と思った。母は、母から、遺骸になった。

 遺骸から出た血液が、溜まりからつうと流れて私の裸足に着いた。指のあいだに赤が浸食を進める。親指の、大きな爪のくぼみを、回路を通る電流みたいに血が伝って縁取ってゆく。なま暖かかった。そこに雫が落ちる。

「あれ?」

 心はとても凪いでいるのに、涙が溢れて止まらなかった。嗚咽もない、鼻水も出ない、なのに涙は大きな粒になり床に落ちて、血と混ざった。薄めた絵の具の色むらのように、赤色はまだらになった。色の段差ができていく、だんだん冷たくなってゆく血液をじっと眺めながら、立ち尽くしていた。



 甘い香りがしていた。静かにまぶたを持ち上げると、あたりを眺めた。いつもの私が暮らしていた、1LDKの部屋だった。

 床にはなにもなくなっていた。まるで何事もなかったみたいに、フローリングは光を映している。

 でも視線を、投げ出されている足元までずらすと、乾いて茶錆び色になった血が残っていた。

 私はいつの間にか地べたに座っていて、なにかに寄りかかっていた。肩に掛けられていたパーカーが少しだけずれる。暖かい。顔を上げ頭上を見る。おはよう。イガラシがそう呟いて、煙をくゆらせていた。

 今日は夏休みの時みたいに、夢のことは聞かれなかった。吐き出された煙草の煙が、曖昧な体になりながら私の髪に落ちて、燻す。逆光になったイガラシの横顔の縁を光が彩る。

 私はイガラシの横顔ばかり見ているなあ。そう思った。そしてすぐにそれは、彼がいつも、私の隣にいてくれたからだと気づいた。

 だるい身体を動かすのが、面倒くさくて、私はそのまま横顔を眺めていた。イガラシはたまに瞬きをして、たまに私のほうを見て、そして遠くを見つめたりした。彼の手元が唇に近づき離れ、そのたびに灰になってゆく煙草。それを支える、ていねいな線でつくられたイガラシの指が、やけに白く見えた。

 綺麗だなと思った。男の人を綺麗だなんて、思ったことは今までなかった。イガラシの睫毛が、鼻先が、髪が指が。彼の全てが美しく思えた。

 眩しくなって瞼を擦る、そして見えた自分の手指は赤黒く汚れていた。爪のなかに、縁に、残りこびりつく錆色が私を引き戻した。

「ゆすいでおいで」イガラシが言う。そうしようとして、ためらった。

「いなくなったりしねーから」

 彼はぜんぶ見透かして、そう続けてくれた。

 力をこめて立ち上がり、よろけながらバスルームに向かう。途中でふと歩みを変えて、和室の引き戸を開けに行った。

 六畳の、黄ばんだ畳の、母の部屋はからっぽだった。化粧品や、それが置かれていた木の机、服、飲みかけのお茶のペットボトル。ベッドフレームに載るマットレスに、あかい花柄のカバーのかかる薄い羽毛の掛け布団。いつも、そこに空気のようにあったこまごまとした母の私物は、何もかも消えて無くなっていた。

 悲しみなのか、諦めなのか、感情の色がわからなかった。灰色のような黄色のような、名前を知らない色がつく心をもてあましながら、扉を静かに閉めた。扉の前から、翻しかけた身体を止める。引き戸をずらして、少しだけ隙間を開けた。なんとなく、そうしたかったから、そうした。


 バスルームの蛇口を捻ると、シャワーからはまだお湯が出た。狭いバスタブのなかに入って、足元を濡らす。浴室の端のソープディッシャーには、とけかけの石鹸がまだ残っていたけれど、そのままにした。白い泡で血液を、いくら綺麗に落としたとしても、もうあまり意味がない気がした。

 冷えた足先を温めるシャワーの湯が、薄い赤からすき通ると、手にもお湯を当てる。はね返る湯が湯気を立て、私の髪を湿らせた。しゅわしゅわと、やわらかくなる髪が首筋に張り付いてかゆい。

 両手を洗うとシャワーを止めて、洗面台の前に立った。やっぱりひどい顔をしていた。流れた涙を免れて口元に残る血痕は、火傷の跡みたいだった。白いワイシャツの襟元にも、花びらが散ってくっついたように血が濃く広く染み込んでいた。そこで初めて口のなかが、鉄さびの味がするのに気づいて、何度も口をゆすいだ。

 洗面台の横に残されたごわごわのタオルで水をぬぐう。落ちたかどうか、また鏡を覗き込んだ。

 鏡に写る私の顔は、あの日のコピーの写真のなかの父によく似ていた。母さんがあの日初めて、私の顔を殴った理由が、わかった気がした。


 イガラシはまだそこにいて、私は隣に座る。ほっとして息を吐いた。今度は壁にせなかを預けた。薄い壁は、冷たかったから、膝を抱えて顎先をのせた。イガラシの新しくなった煙草が、またぜんぶ燃え尽きるまでそうしていた。

「聞いていい?」

 太陽が低くなり始めたころ、私はそう訊ねた。イガラシが最後の煙草を灰皿に置いて、いいよ、とこたえる。

「大屋さんに言われた」

「家賃?」

「どうしたらいいの」

「五十鈴ちゃんが払ってくれた。親戚だって言って」

「……そう」

「気にしないでって」

「ありがとう」

 きっと、残りの光熱費も五十鈴ちゃんが出してくれたのだろう。そう思うととても落ち込む。

「……死体、どこに行ったの」

 したい、の音の声が震えた。イガラシが口を開く。

「五十鈴ちゃんが、引っ越し業者のふりして運んでった」

「どこに?」

「久我さんち」

「運んでどうするの」

「んー、多分分解まではふたりがやってくれるけど。まだおまえ子どもだからね、力必要だから。でも最後は手伝わなきゃだめだよ」

 大変だろうけど。イガラシは、黒くなった私の首の痣を眺めて言った。私は、イガラシの裂けた右の耳を思った。

「耳は」

「おまえが思ってる通りだよ」

 私の首を締めつける、母さんのその手に、包丁が握られているのがふと浮かんだ。刃が自分へ突きだされ、腕に、頬に裂傷ができる。怯えながら壁際へ逃げて、追い詰められて、殺意のひと振りを避けきれなくて耳が、犠牲になった。

 喉の奥から変な音がして、私は膝に突っ伏した。なにもかもがひどい。胸がひきつる、かと思えば次の瞬間に、誰もが消えた虚空のなかに、投げ出されたような気分にもなる。心が氷海のようだった、そして地の底のようだった。心も身体も色の無い、ぬるい液体にまみれて淀み、うまく身動きができない。途端、母さんの首にぽかりと空いた、赤い空洞がフラッシュバックする。死体の腹に視線が向かう。体が傾いだ。

「……こどもがいたって」

「うん」

「でも死んじゃった」

「うん」

「私が殺しちゃった」

「……そうね」

「イガラシが、どんな思いで、今までいたのか、が、わかった」最後は声が出なかった。

 イガラシが、どうして私を解るのか、それは彼が、同じ目を見てきたからなんだろう。同じところを抉られたままで、生きてきたからなんだろう。私と同じか、それ以上を、彼が抱えて生きてきたからだ。

 だから私も、イガラシを解りたかった。わかってもらえたのが嬉しかったから。イガラシのことを解ることは、自分を助けているような気がした。自分がしてほしかったことを、自らと似た人間へ返すことが、間接的に私を救う。

 だから同じ場所まで沈んだ。人間をふたり犠牲にして、私はイガラシを選んだ。 母はもういい、そう思った。私を傷つけ続けたものは、消してしまってもいいだろうと。

 兄弟は。もうたくさんだと思った。こんなのはもういらない。犬は私だけで良かった。また同じことが繰り返すなら、生まれてこなくていいと思った。

 それは私の正義だった。 そう思えば、この畜生のような行為を、すべてに許してもらえる気がしたんだ。

 唇をぎゅうと引き結んで、唸るように私は泣いた。今までずっと我慢していた、泣くこと、それが昨日からタガが外れて、どこかに飛んでしまっていた。これはきっと憐れみだった。自分が信じたいびつな正義で、他の人間を、断罪したための涙だった。私はずるい。自らが憎むその行為を、自ら進んでしたことへの、軽蔑と失望が混ざる濁る涙だった。

 震える背中をイガラシが撫でる。私は泣いて、しばらくそうしていた。左手と、左手をふたりで結んだ。太陽が沈み始めて、陽のちからが弱くなって、それでもイガラシは暖かくてよくわからなくなって、そのころに私は泣き止んだ。だらだらに出た鼻水はシャツで拭いた。どうせ捨ててしまうから。

「ごめんね」イガラシがそう言った。

「……昨日からよく謝るね」

「俺のせいだから」

「私がやったんだよ」

 だけど、こぼれ落ちてしまう。

「……よくわかんなくなった」

「どれが?」

「わたし生きてていいのかな」

 イガラシと一緒にいたい。そのために兄弟も殺した。理由を作って使った。自分を守るために。自分の望みを叶えるために、決まりをねじ曲げた。

 言葉にならない、文章にならない、塵のように舞う私の心のなかを吐き出す。彼は黙り、それを拾って、組み立てるように遠くを見ていた。

 掛け時計の秒針が下がり、また上に戻る。

「俺もさ」

 針がまた何周かした。似たようなもんだよ。そう聞こえた。

「どういうこと?」

 私が聞くと彼はまた、笑い損なったみたいに笑う。

「俺もそう。自分のためにさ、おまえのことそそのかして、止めないで、俺と同じにしたんだよ」

「なんで?」

「まだ一緒にいたかったから」

「……なんで」声がひどく掠れた。

「俺と似たようなさ、おまえのこと助けたり、わかったりするのが、なんか楽しかったんだよね。自分のことも助けてるみたいで」

 目の前が、開けたようになった。

「それ」

「失望した?」

「私もそれ思った」

「まじで」

 馬鹿じゃん。馬鹿だよね。わかっていた。それでもその馬鹿なことは、私を堕として、救った。

 救われた先に見える景色が、明るい色をしていなくても。

 見えない誰かに語りかけるように、空気のほうを向いたまま静かに、イガラシが口を開いた。

「俺の考えだから、おまえにも当てはまるのかはわかんないけど」

「うん」

「……なんつーか、なんつーかさ、いつかさ、俺らに罰が当たったとするじゃん」

「……うん」

「そしたらさ、そのときになって、その罰で俺らが死ぬようになったときにさ」

 ああ罰が当たったんだなって。イガラシは一瞬、言い淀んでそう呟いた。

「罰がさ、当たったんだなって、そう思いながら死んでけばいいんじゃない」

 首から溢れた血を思った。男性、少女、軍人、宇宙飛行士。映画、作られた別の世界のなかで、倒れていた彼らを思う。私が殺した二人を思う。私はきっと彼らのなかで、一番ひどい終わりかたをする。

 自首をする気は最初からない。そう決めていた。娘が母を殺そうと決めて、そして先に手を掛けられて、兄弟も消した。私と、母親とあの子の繋がりを、呪いにしたくなかった。

 なんでだろうな、と思う。考える素振りだけした。わかっていた。そういうものだっただけ。

 太陽は熱を、海は水を、それぞれたたえているみたいに。太陽は海にはなれず、海もまた太陽に変わりはしない。

 初めからなのか、途中からなのか、そのどちらでもあるかもしれないけれど、私も母さんもきっと、そういうものとして産まれただけにしたかった。

 握られていた彼の拳に、手のひらを重ねた。開かれて、手のひらになった右手に、また重ねる。

「それまではさ、生きててもいいと思うよ」

「……そうかな」

「そうなんじゃない」

「執行猶予みたい」

「俺ら犯罪者だからね」

 短い沈黙の後、彼は諦めたように言った。

「……自分は犯罪者なんだなって、思いながら生きるのもまあ、もう罰だよね。だからさ、生きてたっていいんじゃない」

 そうなんだろうか。私はそれを、信じて生きていいんだろうか。生きていい、ということをまだ、信じていいのかわからない。

 夜が深く沈んでいた。今日は月もいない。これ以上できることがなくて、見るともなしに、汚した手のひらを見た。よわく握って、開く。皮膚のくぼみに毛糸のように残る赤色を見つけた。瞬間、光が身体を走る。ああそうか。

 信じていいのかわからないのではなくて、信じて、生きていかなくてはならないのだ。身体を引きずりながら。罰が下されて苦しみの果てに、ひとりきりでひどい終わりかたをする。その時、私のしたことを、心の底から悔いて野垂れ死ぬその時まで、私は生きていなくてはいけないんだと知った。

 わかった。呟いて微笑む。

 私が笑うと彼も笑うのが、嬉しかった。

「それまで何してればいいのかな」

「メシ食って寝てまた起きればいいよ」

「ひとりで?」

「それはあなた次第」

「……イガラシ」

「なあに」

「名前教えて」

 イガラシは、吹き出しながら、今それ?と言った。そうだよ。私は呟く、するとやっぱり彼は聞きたい?と柔らかく微笑んだ。

「明日教えてあげる」

 イガラシは、私と初めて会ったときのように右手を差し出した。彼が私の手を取る前に、私が彼の手を取って、そっと、でも強く強く握った。





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十月の犬 フカ @ivyivory

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