十月十三日




 鍵を挿すと違和感があった。そのまま玄関のドアノブを回すと、開いていた。たたきに母さんのサンダルが転がっている。ヒールの裏に付いた泥が乾いて割れていたから、なんとなく目を反らした。

 電気は消されたままだった。薄い、寒気がした。なぜ、今さら、こんな時間に、ここにいるのだろう。

 ただいまと呟くとトイレの水を流す音がして、ドアが開く。焦る、呼び掛けてしまう。

「かあさ「あんた男といたでしょ」

 顔が勝手にすっと上がった。言葉の意味がわからなかった。おとこ。瞬間、喉が詰まった。

「 ああ、その服」鼻で笑う。

「見たんだから。ステーキハウスから出てくるの。しかもふたりも」母さんは、無表情で、でも瞳だけは蠢いている、気持ち悪い顔をしていた。


 以前なら、その顔だけで、私の身体は凍りついた。なのに今日はただ、そこにいた。母さんの前に立っていた。心のどこかで、いつかこんな日が来るのを私は知っていたような気がした。


「あんた金でももらってんの?なんなの?なんであたしに黙ってんの?お母さんのこと馬鹿にしてんの?私ならご飯食べるだけで男から金もらえるって?嘘でしょ。あんたみたいなブスがそんなことできるわけないもんね」

 だんだんと声が大きくなって、彼女はいびつな笑顔になった。

「こんなもんまで用意しちゃってさあ」

 母さんの手には、なぜか私が自分の鞄にしまったはずの、五十鈴ちゃんにもらったマスカラが握られていた。

「色気づいちゃって。他にやることあるはずでしょお?そんなもんあってもなくてもあんたなんか誰も見てないよ」マスカラが床に投げつけられて音を立てた。

 ここは、怒るところなのかもしれない。私の大切にしていたものを、壊す人間を憎むべきなのかもしれない。それでも、なぜか私の心はひりつかず、代わりに冷たい石ころのような、暗い絶望の色が付いた。感覚が曖昧になる。自分の母親のしたことが、そして存在そのものが、この世でいちばん汚くて、幼稚で、可哀想なものに思えた。

「あんたさあ、私のこと馬鹿にしてるくせにさあ、結局誰かに依存してるじゃん。おんぶにだっこ。私はさあ、あんたのせいでいろんなこと我慢しなきゃきゃいけないのにさあ自分はマスカラ買うためとかさあいいよねえ幸せで。ラクで」目に映るもの全てが、じわじわと色褪せていく。

「あんたさあ、結局ひとりじゃなんにもできないよね」音が、水のなかにいるように、鈍くくぐもったようになった。

「頑張ったってできないんだからさあ、なんにも意味ないの。あんたはずーっとゴミみたいな人生送るの」

 ずっと聞いてみたかった。唇は開いた。言ってしまったら終わる気がした。それでも言葉は口をついた。

「どうして」

「はあ!?」

「どうしてわたしを産んだの」

 声は低くて、ひび割れていた。母さんは言った。

「そんなのみんな産んでたからだよ!みんないたの!子どもが!いるのが当たり前だったの!なに今さらそんなこと言ってんの!?なんなのみんな私のせいになの!?こんなに大変だなんて思わなかったの!こんなに金かかるなんてさあ!!なのにさあ、ねえ!!あんたみたいのが産まれるなんて思いもしなかったの!」


 その瞬間、なんだか、身体が溶けてなくなった気がした。

 彼女はずっと怒鳴っていて、固いものが飛んできたけれど、世界に膜ががかかったようで声も、音も、遠かった。コップが床に衝突して、粉々になった破片を浴びた。頬にティッシュの箱が当たって、口元には灰皿が当たって、最後に何かがまぶたに当たり、私はよろけた。落ちた視線の先には、ひしゃげたマスカラが転がっていた。

 点々と染みでた白を見つめながら、私も液体になりたいなあ、と思った。身体が溶けたと感じたのは、きっと私の願いだった。溶けて、なくなりたい。みんな持ってるから欲しかった。そんな理由で。人間を、私のことを、そんなものだと思っているのが、自分の母親だなんて信じたくなかった。自分が、そんな人間から産まれてきたのが、たまらなく嫌だった。

 飛んでくるものがなくなると、轟音がして、静かになった。


 シンクの下の物入れにふらつきながら寄りかかると、中にひとつだけ入っている笊が微かにかちゃんと鳴った。

 空気を吸うために顎を上げると一瞬だけ頭が痛んだ。夕暮れが過ぎた薄暗闇に吸い込んだ息を細く細く吐くと、唇の端がちりちりとした。指で触ると血が付いた。親指と、人差し指で朱色を広げてなんとなく眺めた。私はあと何回、自分の血を見るはめになるんだろう。

 疲れたでしょ。聞こえたので、自分の心の声かと思った。内側にあるもののくせに、血も、心も垂れ流しだ。足りない栄養状態のなかで、無理矢理作った血液がもったいない。滑走路みたいに指を走った赤い線を、舐めて途切れさせると、やっぱり鉄の味がした。

 切れた唇のぶんも舐めて戻そうとしたけれど、口を開けると皮膚が破けた。痛みが走って、勝手に目が閉じた。もういちど開けると、イガラシがこっちを見ていた。

 なんで、と言いかける前に鼻先が掠めてきて、触れたと思った瞬間に暖かい粘膜が傷口をなぞった。イガラシの舌がなけなしの血液を根こそぎさらっていて、舌先が触れて傷が染みた。反射的に眉が歪んで痛い、と呟くと、まあそうね、と返ってきただけでまた血液はなくなった。

 唇が、唇の端を、微かに滑る。そのまま目と鼻の先にあるイガラシの顔を眺めながら、傷は舐めれば治るのだと、昔に誰かが言っていたなと意味もなく記憶を掘り返した。

 イガラシが首の角度を変えて、扇みたいな長い睫毛が、瞼を何度か掃いた。傷口がまたなぞられて、ぬるい吐息が頬に当たって、なんとなく、犬に舐められているような気分になった。

 ふわふわ揺れるイガラシの黒い癖毛に触れてみると、いつかの、撫でた柴犬とは、毛並みが違って柔らかかった。

 その瞬間ああ、と思った。犬なのは、私だった。

 私が欲しい、茶色の柴犬。誰かが持っていたから欲しい。犬のことなんて大して知らない、少し触っただけで、彼らのことを強いと思う。そんな身勝手な、その成れの果て。 手のひらから力が抜けて、絡めた髪が引かれ、張る。抗議するような視線が飛んで、舌と睫毛が離れていった。傷に触ると血は付かなかった。代わりにイガラシの口の端に微かな色が見えたので、無言で指を差すと、イガラシはまた舌を出して血を拭った。

「なんか」

 イガラシは舌を仕舞うと、それだけ言って少し黙った。ふたりで床に座ったままで、外から流れるスクーターの走る音を聞き、誰かの会話の声を聞き、裏の線路を走る電車の振動を感じた。暗さと寒さをじわじわと増やす洞窟みたいな部屋のなかで、私は私を見ないイガラシをぼんやりと、じっと見つめながら次の言葉を待った。ごめんね、と聞こえた。「なんで」

「あんまりよくないことした」

「そうなの」

「やだったでしょ」

 イガラシの声が少しだけ揺れた。じっと思い返して、答える。

「やじゃなかった」ほんとうだった。でも、「なんか」「なんかイガラシ犬みたいだった」。

「犬かよ」イガラシは全然おもしろくなさそうな顔で笑うと呟いた。その顔を見て、はっとした。ごめん。続ける。

「犬は私だった」

 顔を伏せる。胸が苦しかった。

 私はなんてみっともないんだろう。私はもう犬でもなくて、それよりももっと、下のもののように思えた。

 涙がまぶたににじみもしない。それが嫌で、唇を噛む。もう泣くのもできない気がした。乾いた顔を雑に拭うと、シャツの袖口に付いたボタンが目尻をこすった。なんだかもうどうでもよくて、ふと、ああそうか死ねばいいのか、と思った。

「死なないでよ」

 俯いたままその言葉を聞き、振り向いて、イガラシを見た。イガラシは、ややこしい顔をしていた。痛そうな息苦しそうな、懐かしむような、複雑な顔をしていた。

 その表情が、本当になぜだかわからないけど、おかしくて私は笑った。

「なにその顔」

「なんで笑うんだよ」

「わかんない」本当に、わからなかった。

「死にてえなんて思ってたくせに」爛れたみたいな声で言う。

「なんでわかるの」私は、かすれる吐息で笑う。

「死にたいやつはみんなだいたいおまえみたいな顔するの」

「そうなの?」

 それも、知らなかった。

「そうだよ」

「……なんかそれやだね」

「でしょ。だからさ、死なないでよ」

 嫌だから。イガラシは呟いて、ボタンですれた目尻に触れた。犬なんでしょ。俺もおまえも。それでいいじゃん。犬が死んだら悲しいでしょ。

「……ごめんね。もっとちゃんと見てればよかった。おまえの親の携帯」

 俺のせいじゃんねこれ。イガラシはぐちゃぐちゃになった部屋のなかを見渡して、つらそうに言った。

 床に落ちた、壊れたマスカラを見るイガラシの顔は、死にたいやつの顔に見えた。

 だから私は、手首を掴んで、彼がどこにも行かないようにして、大丈夫だよ死なないから。と言った。

 死ね、と言われたことはないけれど、死なないで。そう言われたこともなかった。私はずっと、自分がなにか、ちゃんと生きているのかわからなかった。嬉しくても悲しくても、うそみたいに感じられる、薄い平たい世界。私はいつも霧の中のような、曖昧な世界に浮いていた。けれど、自分のことを犬だと思い、イガラシのことも犬みたいに見えて、死なないでよ。そう言われた今は、不思議ときちんと生きている気がした。

「……犬でいいのかな」さもしいなあ、と思った。 「犬好きなんでしょ」

「うん」

「じゃあ犬でいいじゃん」

「そうかな」

「あれでしょ、同意が欲しいんでしょ」

 イガラシはにやにやしながら、私のずるい部分を拾う。

「うん」

「言ってみ。『犬でいいですか』」

「犬でいいですか」

「いいよ」

「バカなの?」

 笑う。二頭で。私は犬で、イガラシも犬みたいなものだから、いいんだ。そういうことにした。


「犬だから撫でていい?」

 なに?それに返事もしないで、無理やり彼の近くににじり寄り、髪を撫でた。わさわさ、指を手のひらを雑に動かすと犬は頭を振った。もっと優しくしてよ。犬が喋る。おかしかった。

 指の動きをゆるくすると髪が、光を反射して輝いた。こめかみ、耳と、頭の後ろ。指を立てると皮膚に触れた。爪を立ててみると吠えられた。ハゲるでしょ。文句が来たので、やめた。かわりに、なんとなく進路を変えた。うなじ。首、鎖骨。手のひらを首に戻して、しばらく皮膚に当てた。ぞわりとした。イガラシの首の血管を通る、血がとくとくと動いていた。

 いきものだ。そう思った。そして戦いた。私が容易く触ってはいけないものな気がした。入ったらいけない場所な気がした。それなのに手は戻された。私の手に、イガラシの手が重なり、首筋に帰った。顔をしかめてみたけれど効果はなくて、イガラシはにやにやした。血管は、ちゃんと仕事をしている。イガラシは生きていた。

「きもちわるい」

「まあ、気持ちはわかる」

「生きてるのって気持ちわるいのかな」

「どうかな」

 力が弱まるのを感じて、ずるり、私は手のひらを首から脱出させた。ひらひらと表、裏と眺めた。さっきまでゾンビみたいな肌色だったそれは温まり、血色をとりもどしていた。

「そのうち慣れるよ。触ってると」

 イガラシはまた私の手を取り、自分の頬に当てた。

「気持ちわるいことに?」

 まぶたに親指を沿わせて、聞いた。

「生き物だってことに」犬はそう答えた。

「よくわかんないよ」

「わかるまで触ればいいじゃん」

「……犬だから撫でていい?」

「そゆこと」

 犬好きなんでしょ。そう言われてまた思い出した。シホちゃんの茶色の柴犬。彼も温かかった、息をしていた。いきものだった。彼のことは怖くなかった。彼も、イガラシも同じいきものだ。

 私は少し考えて、空いている左手を自分の首にあてた。血液は、同じように流れていた。

「ね」

「……まだ完全に納得はしてないよ」

「知ってるよ。そんくらいじゃね、人間変わらねーんすよ」

「だめじゃん」

「まあそのうちそのうち。ほら」

 撫でれば。犬がそう言う。撫でて欲しがっていた。イガラシが手を離したから、私は頬を撫でた。ずっと爬虫類だと思っていた、切れ長の目が細くなるのが、どこか進化の過程に見えた。淘汰にも見えた。爬虫類から哺乳類へ。人間から犬へ。

 指をまぶたへ、目尻へ、下がって、あご。骨は固いから、耳に戻る。違和感。耳の中ほど、軟骨から、斜め下に向け亀裂が入っていた。思わず手が離れた。イガラシは察して、息を吐いた。

「どうしたのこれ」声が裏返る。

「知らねえの」俺ドーベルマンだから。そう返ってきた。

 ドーベルマンはあ、ちっちゃいときに耳切られちゃうの。んであのカッコイー耳になんの。そのまんまだと普通に垂れ耳なんだよ。

 犬の雑学は耳を抜けてゆく。人のかたちの耳の上、そこに切れ込みが入っているのが、信じられなかった。

「……そう」それしか言えなかった。

 だからまたイガラシの耳を触る。半分ほどまで入った切れ目を指でつまんで、しばらく合わせておいた。離すと、耳も離れた。蛙が乗る、蓮の葉っぱがさざ波に揺れたように見えた。

 ふっと気付いてイガラシの髪をかき分けて、よけた。右耳はきちんと綺麗なままついていて、ほっとした。

 外はとても静かで風と、虫の声だけが微かに鳴る。雲に隠れていた月が、群青の空に晒されて、月の明かりが大気にともる。

「イガラシ」

「うん」

「私明日母さん殺すね」

 彼の髪を撫でながら、言葉にした。視線を向ける。イガラシの目の中が、揺れる。私の瞳はきちんと、まっすぐになっているだろうか。

「……うん」

「だからお願い聞いて」

「なに?」

「今日だけ一緒に寝よ」

 犬は、一緒に寝てくれるんだよ。 無理矢理のようにそう続けた。今日はどうしてももう、ひとりで眠りたくなかった。

 いいよ。彼は呟くと、仕方ねえな、と笑ってくれた。


 ブレザー、スカート、靴下を脱いで、ダイニングの隅、床に直に置いてある薄くて、バネの痛んだマットレスにふたりでもぐりこんだ。イガラシは、なにこれ足出るんだけど、と不服そうな声を漏らした。毛布の端から顔を出すと裸足がはみ出て揺れていた。このマットレスは私がもっと、小さいときからあったから、仕方ないよと呟いて、イガラシに貼り付いた。シャツがやけにさらさらしていて頬に触れるとむず痒かった。耳を胸に当てる、正しく鼓動する心臓が、そこに入っていた。

 首を触ったときのようにうっすらと怖くなり、顔を上げると、ボタンがいくつか外されたシャツの隙間から鎖骨が見えた。浮いた骨に触ると、鎖骨折れたら死ぬらしいよ、とか物騒なことを言われて、指が皮膚から離れて浮いた。代わりにまた首に触った。血管はなんとなく避けた。イガラシは温かかった。

「首さわんの好きだね」

「あったかいから」

「そ」

 自分の首とはまるで違う、筋の浮いた太い首、それについた筋肉にそって指でなぞる。イガラシがこそばゆそうに肩をひねって軽く笑った。

 広い手のひらが近づいてきて、髪を何度かすいて耳にかけた。空気に触れてひやりとした耳と、頬のあたりを、鼻血を擦ったときみたいに、親指がなぞっていった。

 そういえば、最初から、イガラシはよく私に触れた。そういう作戦なのかもしれない、忠犬を育てるための。でも普段、私に触れる人間の温もりは、平手打ちや固い拳や、胸や肩を蹴る脚だけで、体温というより衝撃で、痛いし、一瞬だった。それが作戦だったとしても、イガラシの体温は心地よかった。じり、と動いて額をまた胸にあてた。清潔な衣服の匂いと、煙草と、生き物の匂い、イガラシの匂いが混ざって、私の肺に入った。

「イガラシ」

「なーに」

「……イガラシも犬なの」

「そうだよ」

 俺も犬だよただの。首を傾げて、斜めになったイガラシの顔は微妙に歪んで、笑い損なったみたいだった。窓から漏れた外の光がまぶたのあたりに影を落として、睫毛には反射していて、つくりものみたいに彼は見えた。不安になって頬に手を伸ばして、指だけで触れると変わらず温かかった。イガラシは若干、私の指に頬を擦った。その仕草は、やっぱり犬みたいだった。

「じゃあ五十鈴ちゃんが」

「そう。おまえにとっての俺って感じ」

「……そう」

 じゃあ。五十鈴ちゃんも。口にしかけてやめる。これは、五十鈴ちゃんに聞くべきことだった。いつか私が全てを尋ねたときに、五十鈴ちゃんが自分の口から私に話してくれるまで。



 どうして、と声にしようとして、これもやめた。聞いていいのか、迷った。口をつぐんだ私を見たイガラシはまた私の心を悟って笑う。

 聞きたい?聞かれる。聞きたかった。イガラシのことが知りたかった。

 私が浅く頷くと、枕元に放ってあった箱をつかんで、イガラシは煙草を一本抜いた。なんとなく、いつもよりも時間がかかっているように見えた。沈黙のあと、まあ普通に聞いて、と言われた。普通に。私はやっぱり普通、というのにとまどう。

「俺もねー、まあ似たような感じ。母親がアレで、父親はまあいたっちゃいたけど、超レアキャラ。めったにいねえの。いても朝方。もう顔忘れちゃったな」

 イガラシは出した煙草に火をつけなかった。

「んーどうしよっかな。まあとりあえず、金が無いってのは最悪だよね。大人がさあ、千円とか二千円とかひでえと五百円とかの話で殴り合いとかすんだよね。子どもの前でさ。なんかもうよくわかんないよね。怖いしうるせーしいつこっちに難癖つけてくるのかわかんないし。寝れないし。でもたまーにパチスロとか行ってボロ勝ちするとさあ、母親が親父じゃない別の男に何か買ってやったりとかしちゃうんだよね、お金あってもなくても最悪っていうね」イガラシの手のなかで、煙草はくるくる回る。

「そのうち母親がそっちの男にハマるじゃん?普通にガキができちゃうじゃん?そしたらさ、前の男のガキなんてもう用済みじゃん、放置……ならさあ、まだ良かった……良かったかなあ?いやどっちもどっちだけどさ。あの人俺のこと殺そうとしたんだよね」

 台所にある包丁で。イガラシは続ける。私のほうは見ない。

「だから返り討ちにしちゃった。腹んなかにいた子どもと一緒に」

 俺の弟か妹と一緒に。イガラシは短く息を吐いた。

 それは異国の話のようで、でもすぐ近くにあるような気もした。私はまだそこにはいない。彼の気持ちはわからない。だから、何も言えない。言葉で、彼を助けることができない。

 だから、私は両手をイガラシの首に回して、抱きしめた。 力の加減がわからなくて、また爪を立ててしまったけれどイガラシはなにも言わなかった。抱かれる飼い犬みたいに、大人しく腕のなかにいた。

 なんでか知らないけど勝手に泣いていた。涙が髪に落ちても、まだなにも言われなかった。かわりにイガラシの右手が、煙草を床に落として、私の身体に触れた。

 背中に回る手のひらが優しく滑り、なぐさめるときの動きをした。それでなにか、なにかどうしようもない気持ちになって、私は声にして泣いた。なんで泣いてんの。ちょっと笑いながら聞かれたけどよくわからなかった。頭が渋滞して、詰まる。仕方ないから、どうしようもないから泣いてる、と答えた。ああそれなんかわかるわ、と言われた。相変わらず背中は丁寧に撫でられていたから、涙は止まらなかった。

 ひたすら泣いて、泣いて泣いたら、身体が軽くなった気がした。へどろのように私に沈む、たくさんのものが浮いて溶けて、濾しとられる。濾過されて澄んだ水のような心は、一時、穏やかになる。

 イガラシが瞼の端に触れた。

「泣いてるとこ初めて見たね」

「……そうだっけ」

「そ。おまえ泣かないもん」

「今泣いてたけど」

「ね。ウルトラスーパーレアだね」

「なんか、強そう」

「そうだよ」

 強い、と聞くと、やっぱり犬しか思いつかない。私は狭い、限られた範囲にしかいなかった。それがどうしようもなく寂しい。イガラシがあのとき映画のことを、違う世界だから。そう答えた理由がわかる気がした。彼も、檻のなかのようなこの景色を、変えたかったのかもしれない。

「シホちゃんと、ヤマト、げんき?」

 とぎれとぎれに言う。

 イガラシが、元気だよ、とこたえた。

「会いにいく?」首を振った。

 ふたりにはもう会えない気がした。

「元気ならいいよ」

 今までずっと怖かった。シホちゃんも、ヤマトも、私を嫌いになったから、いなくなったんだと思っていた。なにも、そうじゃない。シホちゃんたちがいなくなる前の日、明日持ってくるね。笑顔と、そう言ってくれた本の名前が浮かんで消えた。

「うん」

 イガラシがまた、私の頬を擦った。親指が引かれ、熱が動く箇所が、光っていくみたいだった。

 体温に触れていると、眠くなるということも、私は初めて知った。いや、忘れていたんだ。その記憶を思い起こすたびに、恋しくなったし、苦しくなった。だから記憶を箱にしまっておいた。そうしないと耐えられなかった。

 意思に反してまぶたが落ちる。もうすこし起きていたかった、でもこのなかで眠りたかった。腕のなかで、段々と薄まる意識の端で、おやすみ、彼が呟くのを聞いた。

















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