十月



「来週の金曜日あいてる?」

 半年、という期限の最後の月。あと数ヵ月で、今年が終わる。それなのにいまだ太陽の力は衰えず、半袖一枚でも汗ばむ日があった。

 今日もその季節外れの暑い日で、シャツの袖を肘まで捲ったイガラシは、部屋に来るなりそう言った。金曜日は普通に学校があるけれど、最近はずっと真面目に通っている。別にいいやと思って空いてる、と答えた。

「なに?」

「んーとね、うちのボスがおまえに会いたいんだって」

「は?」

「ステーキおごってくれるってさ。やったね」

 イガラシはどことなく、取り繕うような笑いかたをした。

 毎日は相変わらず、学校に行く。帰ってきたら、練習して配給をもらう。梅雨の真ん中、あんなに辛かった腕立て伏せは、もうトレーニングにならないくらい、すらすらとできる。スクワットも、腹筋も背筋も。まだ体は薄いけど、前から比べれば、少しだけ筋肉がついた。なめし革の鎧のような、しなやかな肉を纏った体は、動きやすい。春よりも夏よりも、私の体は言うことをきく。思ったように動く。さんざん見てきて、避けてきたイガラシの攻撃は、ほとんど当たらなくなった。

 そんな私に彼は言う。最後に。どうやったら、人間の動きが止まるか教えてあげる。

 人の体は、とても弱くて、ひとつ知るたびにめまいがした。私たちのまわりに溢れる、私たちより硬いもの。これだけの数の人間が、毎日どこも失わずに生きているのが不思議で、恐ろしかった。

 あれから映画もまた、いくつか観た。でも、宇宙で戦争してきた次の日、ボスに怒られちゃった。イガラシはそう言って、映画を借りてこなくなった。

 なんとなくそのあたりから、小さな違和感を感じた。

 そしてそのころ、大家さんに、家賃が払われていない、と言われ、あと一週間で電気が止まる、という通知がポストに投げ込まれていた。

 ここ最近私もイガラシも、落ち着かない気分でいる。春の日、四月、いつでもやっていいよ。そう言われたのが遠い昔な気がする。ずるずるとなんとなく、この月まで来てしまった感じがある。

 イガラシといるのが楽しかった。私がまだ普通の、善良な一般市民のままで。無人島に漂着して、食料も水も尽きかけている。このまま島で助けを待つのか、いかだを作り海へと出て行くのか。なにか、そんな気分だった。

 ずっと黙って、考え込んでいたことに気付いて顔を上げる。ごめん、と言うのを忘れた。

「なんでステーキなの」

「あれじゃん。おまえ来週誕生日じゃん。てこと」 おめでとう。イガラシはそう微笑んだけど、瞳の辺りが、やっぱりいつもと違った。ありがとう。そう返した私の笑顔も、うまく作れていない気がした。

 来週、私は十三歳になる。彼の誕生日は、まだ来ない。十二月、それは期限を越えた先の、私が選ぶ未来の先にあった。



「なんかあ、よくあるじゃん?選んだ人間だけの世界を作りたいなーみたいなやつ。あれだよ」

 ステーキハウスの敷地の端で、イガラシは煙草をふかしながらこっちを見た。膝が日光でちりちりとした。

 まともな服がこれしかないから、私は学校の制服を着ている。なんとなくのカモフラージュのために、イガラシが持ってきた紺のパーカーを羽織った。サイズがずれた長い袖で、膝を隠した。

 縁石の上にふたりで座り、ボスは何が目的なのか?と聞いた返しがそれだった。 ちょっと考えてから口をひらく。

「なんか、昔の国みたいな」

 言った端から、違うな、と思う。

「どうかな。でもそれ言うと五十鈴ちゃん怒るから」

「イスズ?」

 聞きなれない名前が出てきて、戸惑った。そういえば私は、私がこれから会う人の名前も知らない。

「そ。うちのボスの名前。そういや言ってなかったっけ?」

「ボスみたいな人のことちゃん付けでいいの」

「五十鈴が、じゃない五十鈴ちゃんがねー、おまえにはそうやって呼んで欲しいっぽいから、広めてこいって」

「女の人なの?」

「いや。やたらマッチョのおっさん。今はヒゲの」

「ヒゲ」

「大丈夫五十鈴ちゃんイケメンだから」

「イケメン…」

「まあ、その辺はね。五十鈴ちゃんと仲良くなれば教えてくれるよ」

 イガラシが煙を吐くと、派手な車が敷地に入ってきた。

「あー、ほら来た。あれあれ」

 予想外すぎて黙っていると、イガラシがすっと立ち上がり、いつもは地べたで踏むくせに、今日はジャケットから携帯灰皿を取り出して煙草を消した。

 黒の、やたら大きな車がステーキハウスの駐車場に停まるのが見えた。俺も欲しいなあ車。イガラシがひとりごとを言う。

 低いエンジンの音が止まると、運転席からひとり出てきた。車高の高さにひけをとらない長身の人間がこちらを向いた。いつの間にかイガラシは隣から消えていて、いつの間にか彼の隣にいた。手招きされた。私は慌てて車に近づいた。近づくにつれて、車も、五十鈴ちゃんも、遠くで見るよりも三割増しぐらいデカいことを知って、ビビる。

「はいどうも。こちら五十鈴ちゃんね、五十鈴ちゃん、この子がクボタナキ」イガラシが言う。

「クボタ、ナキです」

 本気でちゃん付けで呼んでいるのに面喰らって、たどたどしくなってしまった。

「どうも。私は五十鈴です。よろしくねクボタナキ」

 五十鈴ちゃんは、アンドロイドみたいな言い方をして、細いフレームをした眼鏡の奥で笑った。なんだか、にちゃ、とか、くちゃ、みたいな音がしそうな笑顔だった。右手が差し出されているのに気付いたので、握手をした。手のひらが分厚い。力が強い。右手が潰れそうだったけど、よろしくお願いします。と言った。

 五十鈴ちゃんは坊主で、眼鏡で、確かにマッチョだった。スーツのボタンが延びている。イギリス人が着ていそうな長いベージュのコートを肩に掛けていた。まだ十月なのに。首をひたすら上に向けていないと顔が見えなかった。五十鈴ちゃんはそれに気付いて、すみませんねクボタナキ、と呟いて腰を折った。

「あ」

「どうかしましたか?」

 顔が近づくと、瞳が見えた。明るすぎる金茶色のような、でも緑色にも見えるような、不思議な瞳の色をしていた。広い二重と、なぜか白くなった睫毛に縁取られたなかに浮かぶ、現実味のない瞳の色がすごく、羨ましく思えた。

「羨ましいですか?」

 びっくりした。いあ、え、あ、はい。とても素敵です。ばかみたいな返事になってしまってしまってイガラシが吹きだした。五十鈴ちゃんがまたくちゃりと笑って続けた。

「いいでしょ?じゃあ、どうですか?この白い睫毛の方は?」

 面食らった。睫毛、白。瞬間的に考える。するとやっぱりあの冬の、シホちゃんと私、そして柴犬。それしか思いつかなかった。私の小さいころの記憶は、なぜかとても少ない。それでもよかった。口を開いた。

「あの、雪が」

「雪が」

「雪が……あの、木の枝に積もっているみたいで」 「で」で。私は雪をどう思っていただろうか。雪、白くて冷たい、空から降ってくるもの。あれはなんだか、なんていうか、

「人間のものじゃないみたいです」

 その瞬間、五十鈴ちゃんはすっと真顔になった。 失敗した。血の気が引く。人間のじゃないって何。これでもう嫌われた。彼の右手がコートの懐に入る。撃たれるか刺される。しぬ。本気でそう思った。だから五十鈴ちゃんが笑ったときは、拍子抜けした。

「はいどうぞ。睫毛が人間のものじゃなくなれるアイテムです」

「へ」

「カラーマスカラ、白です。滲まないのに、お湯で落とせる優れものです」

「……はあ」

「ふふ。人間のものじゃないみたいです、いい言葉ですね。あ、今塗りますか?」

「あ、はい」

「塗ってみますね。貸して」

 あなたも人間じゃなくなりたいでしょう。五十鈴ちゃんはそう続けた。どきりとした。だから、瞳が、羨ましかったのだろうか。音をたてずに薄く笑った彼がこちらを見ると確かに、イケメンというか、とても立体的な顔をしていた。

 マスカラの、ギザギザした部分が近づく。マスカラなんて塗ったことも、塗られたこともないから、どんな顔にしていたらいいのかわからなかった。眉間にしわを寄せていると前髪をガッと上げられて、普通にしていてください、と言われた。普通ってなんだ。そう思っていると普通に塗られた。上まぶたの根元から、睫毛をぜんぶ持ち上げられた。ギザギザした部分が、ギザギザと動いた。その後睫毛をとかすみたいな動作が何度かされた。

「目線だけ上にしてください」

 従うと次は下睫毛に白が付いた。下睫毛はたくさん生えていますね。五十鈴ちゃんはちょっと失礼かもしれない。下睫毛は、ギザギザが縦にされたり横にされたりして染まっていった。

 同じようにもう片方にも雪が積もったようになると、五十鈴ちゃんはとても満足そうにした。

「完璧ですね」

「……ありがとうございます」

 細い指輪がふたつはめられた、ひやりとした手がどけられて、前髪が落ち、睫毛にひっかかった。どうぞ。マスカラと、グレーの合皮に覆われた鏡を渡されたので眺めた。黒い前髪の隙間から、白い睫毛が、手入れされてない枝葉のようにはみ出ていた。

「行きましょ。お腹、空きましたね」

 鏡をコートの内ポケットにしまい、ステーキハウスの入り口に向かう。それに付いていくイガラシがこちらを振り向いて、微妙な顔をした。ポケットだと落とす気がして、持ってきていた学校の鞄にマスカラをしまった。私も彼らを追いかけると、似合う似合わないってあるよねとやんわりと言われて、全体的にやるせなかった。


 五十鈴ちゃんは特盛のガーリックライスと、わかめスープと、ビーフステーキを三百グラムとカルピスソーダをニ杯飲んだ。私が遠慮して一番安いチキンステーキを頼もうとすると、「牛肉も美味しいですよ」と言われて、まごまごしている間に勝手に注文された。しばらくして、中までよく火が通った二百グラムの牛肉が、じゅうじゅうと弾けて、いい匂いを撒き散らしながら私の前に置かれた。

「いいんですか」

「いいんですよ」

「……ありがとうございます」

「どうぞ」

「いただきます」

 ステーキは、とても美味しかった。こんなに分厚い肉の塊を、食べるのも見るのも初めてだった。ナイフもフォークもうまく使えず、苦戦する私を、彼はまるで孫を見る、おじいさんのような瞳で眺めていた。お腹が空きすぎてとりあえず、付け合わせのブロッコリーをフォークで刺して口に運ぶ私に、五十鈴ちゃんはデザートのストロベリーパフェをつつきながら、ていねいに食器の使いかたを教えてくれた。

「誕生日でしょう。誕生日にはクリームですよね」

 ステーキをあらかた食べ終えたころ、五十鈴ちゃんがそう言うと、ケーキの刺さったチョコレートパフェがプレートの脇に置かれていた。びっくりして、顔を上げると好きでしょうチョコレート。と微笑む。

「いいんですか」

「それ、二度目ですよ」

「すみません」

「いいんですよ。パフェも。どうぞ」

「……いただきます、ありがとうございます」

「召し上がれ」

 五十鈴ちゃんは食後のコーヒーに口をつけた。

 私がパフェを食べているあいだ、彼はコーヒーを二回おかわりした。なにも入れないカフェオレを、私のペースに合わせるみたいにゆっくり飲んだ。まだだいぶ、お昼時には早い時間で、隙間だらけのパーテーションで区切られた喫煙席は空いていた。私たちしかいなかったから、パフェはゆっくり食べた。色んなチョコレートの集合、ケーキ、コーンフレーク、アイスの塔をじりじりと崩して口に運ぶ。ひたすら茶色いカロリーの固まり。口の縁にくっついた、おいしいチョコソースを舐めとる。パフェの塔が崩れて行くのを、ミックスグリルを食べ終えたイガラシが、煙をくゆらせながら見ていた。


 全部平らげてトイレを借りて、茶色になった口を拭って、戻るともうお会計が終っていた。鈍く光るダークブラウンの、皮の長財布をスーツに戻す五十鈴ちゃんにお礼を言うと、いい食べっぷりでした、とにこやかに言われた。

「ありがとうございます。ご馳走さまでした」

「こちらこそ。喜んでもらえたようで何よりです」厚い右手が差し出される。握手をした。

 途端、 五十鈴ちゃんが瞼を伏せると、背筋に風が走った気がした。その顔はなんだか、男性にも、女性にも見えた。そしてそのどちらでもないようにも、見えた。整いすぎたその顔は、もう帰れなくなってしまった。そんなような、表情を浮かべていた。

 金茶の瞳が私を見つめる。言いたいことがあるような気がして、私はそれがなんとなくわかった気がして、頷く。

「一週間は、子どもにとっては、きっと長いでしょうから」

 マスカラ使ってください。そう付け加える。「目はカラコンですよ」それも加えて、微笑む。綺麗な笑顔に私は聞いた。

「子ども好きなんですか」。五十鈴ちゃんは微笑みのままで、そうですよ。と答えた。

「子どもは、好きですよ」

 私をまっすぐに見つめながら、もう一度そう言った。 私がお礼を伝えると、またね。コートを風に泳がせながら、五十鈴ちゃんは車に戻る。聞きなれないエンジン音がまた鳴って、黒の車は角を曲がって、見えなくなった。



 私とイガラシはそのままの足で、私の家に帰った。アパートが見えてきたころに、イガラシのスマホが鳴る。五十鈴ちゃんだ、そう言って、訝しげな顔になる。コールは三回で止まった。

「切れたよ」

「あーこれね。ちょっと来いってこと。悪いけど」 「いいよ」

「また夕方来るから」

 忙しなくスマホをジャケットにしまう。

「イガラシ」翻る背を呼び止める。

「へ?」

「ありがとう。さっきの。誕生日」

「いーよ。払ったの五十鈴ちゃんだしね」

 イガラシが手をひらひらさせた。

「そうだけど、ありがとう。あ、パーカー返す」

「そ?あーでも午後寒いらしいよ。そのまま着てれば」

「そうなの?」

 少しだけ悩んだけれど、脱ぎかけてずれたパーカーの肩の辺りを、引っ張って直した。

「じゃあ明日返す」

「そ。じゃあまた後ほど」

 来た道を戻り、遠ざかる背中を、見えなくなるまでなんとなく眺めた。風が吹く、昼頃は強く照っていた太陽が陰り、空気が冷たかった。 余った袖で、思わず顔を覆うとイガラシの、煙草の匂いがした。



 イガラシを見送ったあと、学校に来た。給食も終わり、昼休みの最中だった。あと二時間しか授業はないけれど、家にいるのも憚られたので、なんとなく足を向けた。

「ああ久保田さん、どうしたの?午前中。病院とか行ってた?」

 パーカー姿の私を見つけた、三田先生、改め一瀬先生に呼び止められる。最近結婚したらしい先生は、いつでもにこにこにこにこしていた。どこか、周りの空気が眩しい。

「あ、はい」面倒なのでそう言った。

「あらー、そうなの?やっぱり。風邪?珍しくパーカー着てるからそうかなって。かわいいね、そのパーカー」

 先生はごく自然に、パーカーの袖を掴み軽く引っ張る。

「でしょう」笑顔にして、便乗してみる。

「ねー。でもね久保田さん、マスカラはだめだよ」

 驚愕した。大声が出た。五十鈴ちゃんに塗られたあと、普通にそのままここに来てしまったことに、今気付いた。

「先生お湯出るとこありますか?」

 険しい顔なのが自分でもわかった。

「えっ、ああえーと、保健室!保健室行こう!」

 私の焦りが伝染して、一瀬先生はなんにもないところでつまづいた。


「ああ、よかった、はいこれ、タオル」

「すみません」

「いいのよー」

 これから用事があるという養護教諭の先生と、入れ換わりに保健室に入る。給湯器のスイッチを押すと、シャワーみたいにお湯が出た。

 五十鈴ちゃんはお湯で落ちます、と言っていたのに、カラーマスカラは意外にしぶとかった。ちょっとこう、ちょっと、まぶたにお湯を溜めるようにするの!先生のアドバイスを聞き、なんとか全部きれいに落とした。前髪が完全に濡れた。柔軟剤のいい匂いがする、花柄のタオルで水分を拭く。

 病院に行っていたはずなのに、ばちばちにマスカラをつけていたことを、咎められるかと思ったけれど先生はなにも言わなかった。

「はあ、でも、なんか安心しちゃった」

 首もとにタオルを当てる私に、先生が呟く。

「なにがですか?」

「久保田さんはマスカラとか、嫌いなのかなって、思ってたから」

「ああ」

「みんなマスカラ大好きだからね。このくらいの子達は」

「そうですね」そうなんだろうか。

 グループワークや、体育の、ストレッチで二人一組のとき、気を使い声を掛けてくれる人もいた。それでも私は他の、色々なときにひとりでいた。

「ねー、だからさ、久保田さんも、なんか久保田さん大人っぽいっていうか……みんなみたいなとこ、あんまりないなって思ってたから、よかったなって」

「はあ」

 褒められてるのか、貶されてるのか、よくわからないなあ、と思った。ただ、私は大人じゃないことはわかる。毎日食べ物の事ばかり考える中学生は、きっと中学生でもない。

「ね。二年生になればクラス替えもあるし。大丈夫だよ」

 先生は、この世が抱える問題が、全て解けたような笑顔になった。 二年生。その言葉を聞いた途端、呼吸がすっと浅くなる。私は、この学校の二年生には、ならないかもしれない。なれるかも、しれない。私はそれをあと一週間で、自分で、決めなくてはならなかった。

 黙り、下を向いていると、先生が声を掛けてくる。大丈夫?やっぱり駄目かな?具合悪い?背中を弱くさすりながら、先生は泣きそうな顔で言う。その途端、心に突風が吹いたようになる。

 どうして。どうして母さんよりも、血も繋がらない他人のほうが、私を心配してくれるのだろう。

「わああ、ちょっ、お腹いたい?先生ノート書いとくからね、ベッド行きなよ!ね!」

 体を支えられながら、ベッドが並ぶ、奥の部屋に行く。綺麗に畳まれた毛布と掛布団を、先生がずらして寝床を作った。

「ね、もう五時間目だから、帰りまで寝ちゃいなよ。保健の先生に言っとくからね、安心してね」

 パーカーと、ブレザーをするすると脱がせ、鞄と一緒に脇に置くと、先生は私をベッドに寝かせた。小さい子どもがされるみたいに、布団を首まで掛けられて、ぽんぽんと軽く叩かれる。苦手だなんて思ってごめんなさい、先生。心のなかで謝る。

 一瀬先生は、何度も何度も振り返りながら保健室を出て行った。 静かになった部屋のなかで、ぼんやりと天井を見る。目の縁を擦ると、乾いていたかららほっとした。

 色々なことを、考えたくなかった。一瞬でもいい。逃げるようにして瞼を閉じた。



「ただいま……」

 公園から戻ると、締められたはずの家の鍵が開いている。慎重に慎重を重ねて、ドアを引いた。ケチャップの匂いがする。

「ああ、帰ってきた」

 母さんはそう叫ぶと私の髪を撫でる。

「ごめんね母さんどうかしてたねごめんね」

 大袈裟な声色と、貼り付いたような表情の差。

「ほら、七希の好きなオムライスあるから。よく食べてたでしょ、ね、食べて」

 母さんはいつもこのときだけ、私につけた名前を呼ぶ。 私を殴った後に出る、冷凍食品のオムライスが、ケチャップにまみれてお皿のなかに浮いていた。

 別にそれほど好きでもなかった。ケミカルな、甘すぎる、薄い卵にくるまれたオムライス。頻繁に食べていたのは、遥かに昔のことだ。私が四つか五つのとき、冷凍庫のなかにそれしかなかった。

 仕事でミスをした母さんが、無理矢理買い取らされたそれが。 殴られる、謝られる、そしてオムライス。母さんはいつもその手段を取る。

 半ば無理矢理にスプーンを渡され、手首を掴まれテーブルについた。向かいに、母さんが座る。

 卵のお腹を裂くように刺したスプーンでほじった赤いご飯が、虫の塊に見えた。



 身体を揺すられて、起きた。 海面に顔を出したように、音を立て息を吸いこんだ。

「ちょっ、大丈夫?あなた?久保田さん」

 ゆるいパーマの前髪を掻き上げ、養護の先生が私の顔を覗き込む。

「あ」はい。はい、の言葉が出ずに続かなかった。

「はい」

 言うと、手が額に当てられる。

「熱じゃないね。ひんやりしてる。汗で」

 首筋に手を持っていく。泳いできたすぐ後のように、体はびちゃびちゃだった。

「ほら体拭いて、拭いて」

 さっきとはまた違う種類の、花柄のタオルが渡される。顔に当てて、擦った。ピンク色のハイビスカスが私の汗を吸って、色濃く染まる。

 首筋を拭っていると、優しい声で聞かれた。

「もう授業終わったけれど、どうする?ひとりで帰れる?お家の人呼ぼうか」

「いえ。帰ります」

 呼んでもなにも来ないです。その言葉は飲み込む。

「そう、じゃあ帰れるようになったらね、気をつけてね」

「はい」

 先生の、二宮、と書かれたネームプレートが軽く揺れる。



 家には誰もいなかった。時計を見ると六時近い。もう夕方は過ぎそうなのに、イガラシはいない。

 ハーフパンツとワイシャツになり、ベッドに倒れる。そのままただ横になって、秒針の音を聞いた。針がどれだけ進んでも、玄関の扉は開かない。

 イガラシに借りたパーカーを、胸の上に広げて、私はまた瞼を閉じた。


 気付くとまた朝が来ていた。 私はまだひとりでいた。ベッドから起き上がり、しばらくそのままでいた。

 喉がとても渇いていた。だるい身体を持ち上げて、キッチンまで行き蛇口を捻る。細く流れる水の温度が、よくわからなかった。

 水を飲み、口を拭うと、目にかかる髪がぺたぺたしていた。お風呂に入らなかったことを思い出して、バスルームに向かう。


 出しっぱなしにしたままの、水流の弱いシャワーのなかで、バスタブの縁に置いたシャンプーのポンプを押した。すかすかになったポンプの口からはもう、ほんの少ししかシャンプーは出てこなかった。胸のあたりがざわざわした。締め付けられるような気分のまま、薄いシャンプーで髪を洗った。


 部屋に戻ると髪をひたすら拭いた。ドライヤーは、いつの間にかこの家から消えていた。伸びてしまった髪は、いくら水分を拭っても、乾く気がしない。 制服を着る。ブレザーに袖を通した途端、今日が土曜日なのに気付いた。外は晴れていた。髪を乾かすために、公園に向かうことにした。



 公園にはやはりキジバトがいて、手ぶらなのを知り離れていく。ベンチの脇の灰皿には、吸い殻が燃えた匂いがした。桜の葉は少し色あせたけど、この公園はなにも変わらず、春と同じにそこにあった。

 ベンチに座り、体を預けた。硬い木材が背を押し返す。腕で、顔を拭うようにすると、着てきたパーカーのスウェット生地が柔らかく瞼を擦った。

 膝の上に、肘をついて、袖口で顔を覆う。受動喫煙は怖いなと思う。私が、吸っていたわけではないのに、イガラシの煙草の煙と、匂いが、近くにあって欲しかった。

 そのまましばらく、太陽が高く昇るのを眺めていた。湿った髪を乾かしてくれた、頂点に来た太陽が、傾いていくところまで。

 ふと、鞄を置いてきてしまったことに気付く。皮膚が、なぜかひりついた。

 彼のことが気にかかった。私は家に、戻ることにした。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る