八月
夏休みという名前の地獄が、ようやく終わろうとしていた。お盆を過ぎて、日暮れの風は少しだけ冷え、夜には微かに虫が鳴いた。やっと給食が食べられる。私は早く学校に行きたかった。
以前は食事代として、毎日テーブルに投げられていた硬貨がさらに少なくなっていた。一週間に一回ぐらい、五百円玉が一枚置かれていただけ。換算すると一日七十円ぐらい。これで三食まかなうのはどう考えても無理だった。安い、もやしでも炒めてみようと思って、キッチンを探るとフライパンがなかった。鍋も、まな板もなかった。いつの間にかなくなっていた。なのに、プラスチックのザルだけは入っていたシンクの下の物入れの戸を、少しだけ蹴った。
仕方ないからスーパーに行き、六枚切りで九十八円の食パンをみっつと、百五十八円のマーガリンを買ってきた。一枚はそのまま、もう一枚と半分をマーガリンパンにして、一日に二枚半ずつ食べた。近所のパン屋はミミはくれない店舗だった。
元気が出ない私を見て、イガラシに聞かれたのでこのように答えると彼は、これが地獄かあ、みたいな顔をする。なんか食いたいモンある?質問にはお肉と答えた。するとイガラシは配給に、牛丼とか親子丼、ねぎ塩カルビ丼をくれるようになった。一度、三分間でイガラシに一発入れたら配給、という決まりの時に、まあおまけみたいなもので右腕でガードされたけど、二発目を当てられたときにはチョコレートバーが追加でもらえた。たんぱく質がたくさん入った、身体を鍛えている人向けのものだった。外国製で、ものすごく甘かったけれど、朝も昼も夜もいつでも酷暑のこの夏のなか、アイスクリームのひとつも口にできない私には本当にご褒美だった。気のせいなのかもしれないけど、たんぱく質をたくさん食べていると、お腹の空きかたがゆるやかになる。次にお金が置いてあったらチーズを買ってパンに乗せようと思った。
母さんは帰って来ないから、日が上がっても眠れるだけ眠る。 冷蔵庫の製氷室で氷を作り、キッチンの棚に入っていたフリーザーバッグに入れて、身体を冷やしながら。クーラーは禁止されていたけど、灼熱の日は無視をして付けた。それでも古いエアコンが出す、弱い冷房機能の下では、まばらな形の大量の氷はあっという間に水に戻る。それをまた製氷ボトルに注ぎ直して、氷にするのを繰り返した。暑さと湿気で寝苦しいうえに、浅い眠りを渡り歩くような、いつもの私の睡眠は質が悪くて、いくらでもベッドのなかにいられた。お昼も過ぎて三時ぐらいまで寝ていると、ふと目覚めたときにベッドの隣でイガラシが暇そうにしていたりした。私がおはようと呟くと、煙草の灰を灰皿へ落として、いい夢見れた?と彼は聞く。薄く、細切れに浮かぶ夢の端々を目をこすりながら伝えると、イガラシはへえ、とかふうん、と相槌を打った。興味があるようなないような、揺れているような相槌だった。けれどイガラシはくだらねーとかどうでもいいとか、逆にやたらと質問するとか面倒なことはしなかったから、私は夢を見るたびに彼に話した。一度、すごいお金持ちになって、ドーナツショップで端から端まで全部買えた夢を話したときに、イガラシはゆるく笑って、超いいじゃんお金持ち、と言った。珍しいなと思った。母さんだったらたぶんキレる。
イガラシにはよく大人が持つ、変な正義みたいなものがあんまり無いみたいに見えた。自分の正義の名のもとに、他の人間を裁くこともなかった。いちばん近しい人間の母親が、わりと正義が多い人だから、不思議だなと思った。イガラシと一緒にいるとなんとなく楽で、楽しかった。
窓を開け、煙草の匂いを外に逃がすと廃ビルに行き、シャトルランをした。意外と息は苦しくなかった。無我夢中で走っていたら結構良い結果だったらしくて、私が日陰のアスファルトに寝てひんやり呼吸を戻している間に、イガラシはドーナツを買ってきてくれた。水滴で光るアイスコーヒーと、横長の箱に六つ並んだドーナツは、魔法のアイテムみたいに見えた。ひとり三つね、言われて、じゃんけんして、勝った。勝ったほうの私から好きなのを交互に選んで食べた。私のは全部どこかしらにチョコレートがついていて、イガラシが選んだほうはみんな白くてふわふわしていて、片寄ってんなあ、とふたりで笑った。
ごくたまに母さんが帰ってきた日は、早起きをして図書館に行った。街を調べる宿題をやる、という理由をつけて。私が部屋から消えたほうが、母さんにも都合がいいみたいだから、特に何かは言われなかった。開館の時間までしばらくそのへんの散歩をしたあと、衝立のある個別の机を陣取って閉館まで、夏休みの宿題をしたり、本を読んだ。以前は私も本が好きだった。母さんに、小学校の図書室で借りた備品の本を破られるまで。
その日の私はそれに夢中でつい、母さんの話をないがしろにした。背中を蹴られて怒号が飛ぶ、「いいよねあんたはそんなもんに夢中になれて暇で幸せでいいよねお母さんはあんたのために我慢してるのにあんたは恵まれてるよね」。その本は物語の中盤でびりびりにされた。 飼い犬と寄り添いながら、庭で眠る女の子の絵。綺麗にふたつに引き裂かれ、離ればなれになった二人をぼんやりと眺めた。幸せでいいよね。頭のなかで、母さんの言葉が繰り返される。これは、本当に、幸せなのだろうか。私が破いたわけではないのに、私が謝らなければならず、司書の先生の冷たい視線を浴びながら、私はなにをしているんだろうと思った。その時の記憶はなぜなのか、叱られる私を後ろから見ている映像が流れる。
このあいだ、きちんと冷房が効いている涼しい市の図書館のなかで、私はその原因を知った。なんとなく目にとまり、軽い気持ちで表紙を開いた、精神のことが書いてある本は、私の狭い世界を壊した。
難しくて、全部は理解できなかった。それでも、不意に私のなかで沸き起こる、得体の知れない焦りや脅えは、私のせいではないのを知った。でもそれをなくすためには、途方もない大きな力が必要なのも知った。希望と絶望が同じページに書いてあるその本を、私は「こころとからだ」の棚にそっと返して、しばらくぼんやりとしていた。
何日か経ち、イガラシにそれを伝えた。彼は複雑な表情を浮かべて、おめでとうと言った。お祝いの言葉なんて出てきそうにないその顔を見て、なんとなく喜べないでいると、ちゃんとね、とイガラシが呟く。うん。私は答えた。本には、私のために使われる誰かの力が必要だと、記されていた。
「おまえの母さん転職したっぽいよ」
あと三日で夏休みが終わる日の夜、イガラシがダイニングのテーブルに置いたスマホを眺めてそう言った。母さんはもう十日も帰って来ていない。この頃になるともう、いないほうが楽になっていた。母さんが居たっていいことが増える訳じゃない。増えるのはお酒の空き缶と、怪我と疲労感だけだった。
きっと母さんは今、満たされているんだろう。私がいない世界にいるから。私を見張って、殴ることで、自分に充てられる不満を晴らす必要が今は無い。だからここに、帰る必要もない。
自分で洗ったタンクトップをたたみながらまじで?と返すと、椅子にもたれたイガラシが首に手を当てて、伸ばした。
「なんかもう、ここんとこずっとスーパーに行ってないんだよね」
「へえ。何屋さんになった?」
「キャバクラ屋さん」
「は?」
「あの駅んとこちょっと行ったとこにある、年齢層高めのキャバクラにずっと行ってんだよね」
「うげ」
「んで、終わったら彼氏んちに直行」
「きもい」
「でー、今日の朝から北海道にいるよ」
「は?」
「だから今日は絶対帰ってこないわけだね」
イガラシがにやつく。外でクラクションが鳴った。それにつられて私のお腹も鳴った。顔をしかめる。イガラシが笑う。
「というワケで、コンビニ行こうぜ」
「へ」
「俺も腹へったし。煙草も欲しいし」
「……お金ないよ」
「俺はあるよ」
「でもそれ、だめなんでしょ」
その日の配給はもう受け取っていた。
「じゃあいっこ答えて」
今日のイガラシはよくわからない。でも、誰かと夜に外に出る、という行為に私は惹かれていた。
「映画好き?」
「……あんまり観たことない」
「じゃあレンタル屋も行こっか」
「なんなの?」
「夏休みだから夜更かしすんの」
イガラシはそう言うと立ち上がり、すたすたと玄関に向かう。なんだかズルをするみたいで少し良心は痛んだ。でも、イガラシがやたら低くしたエアコンの温度をもとに戻して、私もついていった。
ぬるい空気がからだをなでる。晴れて、月が見えた。細い月の傍らに、丸い雲がおまけみたいにくっついている。星は、大きいのがひとつだけ見えた。
「警察来たらどうするの」
にやにやしながらイガラシを見上げた。
「えー、なんか友達だとか言ってよ」
「無理だよ」
「頑張ってよ。演技」
「無理」
「ひでーな」
ふざけながら、階段を下り終えるとイガラシが道路に指をさした。
「いちばん近いやつじゃないけど、角んとこのコンビニでいい?」
この辺は、コンビニがやたらに多い。彼の言う店舗は、ここから三番目に近いところにあった。
「なんで?」
「この煙草あそこにしか売ってないんだよね。いい?」
「いいよ」私たちは左手の道を進んだ。
ゆるやかな坂を上がると、住宅街がある。新築の、似たような家が連なる。どの家もまだ部屋の灯りがついていた。この建物ひとつひとつに、家族が住んでいるんだと思うと、不思議な気分になった。
普段は何処に隠れているのか、近くでカエルの声がした。縁石の上に雨蛙がいた。飛んで来るのかこないのか、彼らの気持ちはわかりづらい。縁石を避けるように大回りに進んだ。
歩いている途中だから、煙草が吸えないイガラシが暇そうにしていた。しりとりしよう。そう言うと、わりと乗り気な声がした。
「どっちから?」
「イガラシからでいいよ」
「そ。じゃあはい、りんご」「ごま」「マクラムスミス」「だれだよ」
いるの?と聞くといるよ、と返ってくる。
「映画の人ね」「ふーん」
「すですよ」「えー、す、すし」
「シヴァ·メアリー」「映画の人?」
「当たり」彼はいつもより楽しそうだ。私も気分がふわふわしていた。歩道の白線を踏みながら尋ねる。
「映画好きなの?」
「好きだよ。なんで?」
「映画の人ばっかりじゃん」
「おまえだって食べ物ばっかりじゃん」
イガラシがゆるく笑った。
「お腹すいてるんだよ」
「あーそうね。り、ですよ」
「り……りんごジュース」
「ずるくねえ?」
「いいじゃん。ハンデだよ」
「何のだよ」
「うーん、年?」
そこまで言って初めて気付いた。私は、イガラシの年齢を知らなかった。つい口が滑る。
「イガラシ何歳なの?」
「十九」
「はあ?」前を歩いていたおじさんが振り向いた。 「だめじゃん」慌てて声を落とす。
「なにが?」
「たばこ」
「大丈夫。もうすぐ二十歳だから」
その言葉で、誕生日も知らないことにも気付いた。なんでだろう、すぐわかった。私がどちらも聞かなかったし、イガラシも自分のことを、あまり喋らないからだった。
「……イガラシ」
「なーに」
「誕生日いつ?」
「なに、今日は色々聞くじゃん」
イガラシは、からかうように言う。気になったから。そう答えると、彼は一瞬驚いたような顔をした。どうしたの。ふたりとも、同時に口を開いた。それがおかしくて笑った。
誕生日とか、年齢のことは、聞いてはいけないような気がする。聞かれてもいないのに、自分のことを喋るのもよくない気がする。なんでだろうなと考えて、母さんがそれを嫌がるからだと気づく。そして私の行動や思考の原理がほとんど、母さんの機嫌を損ねないように、というところに向かっていることにも気付いた。しかも、彼女以外の人に対しても、それに則って接していた。母さんがこの世から消えたら、それは段々と変わるのだろうか。そんなようなことを、サンダルを鳴らしながらイガラシに話した。母さんのくだりは全部除いた。すると、彼もそんなようなことを言って、似た者同士じゃん。そう微笑んだ。
コンビニの灯りが見えるころには、彼が十二月生まれなのを知り、私は十月生まれなことを、彼に話した。もうすぐでもない気はしたけど、木々が白銀に染まる冬の、彼が生まれた日付に、心のなかで印をつけておいた。
煌々と光る看板に、夜虫がふわふわ飛んでいた。自動ドアが開くと、なかの冷気が肌を撫でた。チャイムが鳴り、眠そうな声のいらっしゃいませ、が薄く聞こえる。
「四百八十円までね」遠足みたい、と楽しくなる。 「なんでその値段なの」
「俺の煙草の値段」
「たっっか」イガラシが急にお金持ちに見える。 「ね。困っちゃうよね」
彼は空いた煙草の箱を、燃えるごみ箱に捨てる。困っているようには、全然見えなかった。
めったに入らないコンビニのなかは、整然としていた。食べ物、飲み物、雑貨。それらがしつらえられたように、それぞれの場所に鎮座している。
ぐるぐると通路を回って、おにぎりのところに来た。お米が食べたかったし、百円のならたくさん買える。北海道に行っているなら母さんは明日も戻らないだろうし、家に食べ物を置いておける。
イガラシが隣に来たので、消費税は?と聞く。めんどくさいからおまけでいいよ。やった、ガッツポーズをした。
鮭と、ツナマヨ、とり五目のおにぎりを棚から取った。背後に積まれた買い物かごをひとつはずして中に入れる。あーこれも。イガラシがポテトチップスをふたつ投げ入れて、かごを私から持っていった。 イガラシの後を付いていき、パンの棚で、彼はホットドッグをかごに入れた。パンが好きだな、と思う。私が希望を言わないと、配給はだいたいパンが出る。イガラシはもうひとつ、コロッケパンを取って入れた。
「あとは?」
「唐揚げ食べたい。いい?」
「いーよ。どれ?」
「棒に刺さってるやつ」
「わかった」
レジでイガラシは唐揚げと、煙草を店員さんに頼むと財布を出した。平たい、薄い黒い皮の財布。お金入るのかな、と思う。レジの画面が喋った。年齢確認の、二十歳以上です、のアイコンを、彼はしれっと押した。イガラシも、前髪の厚い男性の店員も普通にしている。そんなもんかな、と静かにしておいた。
画面に流れる広告を見ていると、いつの間にか会計が終わっていた。はい。唐揚げの袋を渡される。 自動ドアを出ると湿気と熱気が、長くなってきた髪をなぶった。
「ねー、ちょっと煙草吸っていい?」私が返事をする前に、もう包みを開けている。
「じゃあ唐揚げ食べていい?」「いいよ」「やった」
そのすぐにライターの音がした。
黒色のフィルターから、いつもの煙が立ち上る。揚げた鶏肉を噛み潰しながら、イガラシの横顔を見た。煙草を吸っているイガラシを眺めるのが、けっこう好きだった。
「おいしい?煙草」
「マジくそうまいよ」
「へー」
「おいしい?唐揚げ」
「超おいしい」
「だよね」私たちはくだらないことで笑う。
自転車、バイク、人間と犬。つらつらと通りすぎるなにかしらの動くものが、電灯に照らされて流れるように反射する。なめるように動く光が、くらげみたいで綺麗だった。
煙草はまだ長さがあって、唐揚げを食べ終えた私は店内に戻りごみを捨てた。その時にちょうど、自転車に乗った警察官が通った。青いシャツを着た眼鏡の警官は、速度を少し緩めただけでそのまま通りすぎた。 レンタルショップがある反対の道に、警官が曲がるのを確かめてから、私は外に出た。
「見た?」イガラシが言う。
「見た」
「ね。大丈夫でしょ」彼は尽きた煙草を灰皿に落として、ピースを作った指をぱたぱたさせた。
「あ、やべ飲み物買うの忘れた」
レンタルショップに着いた途端に、イガラシが困る。コンビニの袋を持ったまま、別の店内に入ることのほうがなんとなくまずい気はしたけど、さっきの出来事は私のモラルのラインを下げた。そこの自販機でいいじゃん。そんなことをしれっと言えるぐらいには。
ビニール袋をガサガサしたまま入った店内は空いていて、モラルの低下に拍車をかけた。ここに来たことはなかったから、イガラシが進むほうについていく。黒いスチールラックがずらりと並び、そのなかにDVDやブルーレイディスクがまた、ひしめくように挿してあった。
「とりあえず、なんか気になるやつあったら持ってきていーよ」
「え、いくつまで?」
「じゃあ、二本ずつ」イガラシは目に見えて楽しそうだった。
ふたてに別れてうろうろした。洋画、邦画、韓国映画。ドラマにアニメ、ドキュメンタリー。どこから手をつけていいのかわからない。でも映画といったらゾンビとか爆発とかかな、と思ったので、洋画の棚に進んだ。あ、の札の付いたラックの端っこから、タイトルを読んでいく。内容がわかりやすいもの、ややこしいもの、さらさらと目で追っていくと、端から端についてしまった。一旦また、あ、まで戻る。ひょい、と棚の側面に体を向ける。ここにもいくつか、ケースの面を見せるように映画が置いてある。この世にある無数の物語の量に果てしなさを覚える。
ぐるぐる歩くと、キャンペーンというか、フェアを謳う棚があった。不朽の名作。そんな特設コーナーの棚に、気になるものがあった。上部が切られたみたいになっているDVDのパッケージを手に取り、裏返してあらすじを読んだ。心臓が派手にどくりと鳴る。その映画は今の、私とイガラシにそっくりだった。鼓動が早くなる。 ディスクの入ったケースを引き抜こうとして、止めた。なんとなくわかる。このお話はハッピーエンドじゃない。きっとよくないことが起こる。
私はケースをそっと棚に戻した。ジャケットの裏に写るこの、びっくりするくらいかわいい女の子が、泣いているのは見たくなかった。
かわりにゾンビの映画を抜くと、ケースに貼られたシールのジャンルが、コメディなのを確かめる。二本ずつと言われたから、ゾンビとは別の化け物が、出てくるものも探した。まだ人間の形をしているクリーチャーがいる映画を選び、イガラシを探しに行った。
買い忘れた飲み物を、自販機で調達した。二酸化炭素が入っているのに、大丈夫なんだろうか、そんな激しさで落ちてきたコーラの缶を握る。底がへこんだアルミ缶は、なんとなくぬるい気がした。
帰り道はまたしりとりをして、私は食べ物、イガラシは映画の人ばかりを、また言葉にした。すらすらと次々と出てくる、私の知らない名前。きっと彼は、あの映画のラストシーンを知っているんだろう。
どのお話でも人が死んだ。ゾンビにやられて、化け物にやられて。病気で、事故で、同じ人間に殺されて。どうかしている女の人が、浮気相手を刺し殺すとき血が飛んで、私もこれをやるんだなと、思った。血糊じゃない本物の生暖かいそれを浴びたとき、私はなにを思うんだろう。浮気相手を絶命させた女性は額を拭い、一仕事終えた労働者のような顔をした。缶コーヒーのCMに見えた。
口許に指を当てたまま食い入るように、画面を見つめていたイガラシが、私の方を向いたので聞く。どうして映画が好きなの。彼は、少し考えたあと、違う世界だから。そう言った。
「まあ作り物だって。わかってるけど、なんか安心すんだよね」
世界がいくつかあるってことに。呟くと彼はまた、死体が蔓延る世界に戻った。
私が借りたゾンビの映画は、主人公たちは生き残った。クリーチャーのほうはふたりだけ。イガラシが借りた二本のラストは、悪が滅びて消えるのと、墓場の前でおじいさんが、泣いている。そんな終わりかたをした。四つの世界を見終わるころには、窓の外はもう起きていた。すでに増えていた街の音と、さっきまでいたフィクションの世界が、繋がりそうで繋がらない。塞がりかけた瞼を擦ると、眠い?と聞かれた。声を出さずに頷く。おやすみ。聞こえたから、手のひらをゆらゆらと振る。私はテーブルについたまま眠った。
目が覚めると景色が違う。天井が見え、自分がベッドにいることに気付いた。辺りを見回す。テーブルの上に散らかっていたものが消えていた。壁の時計が午後の三時を指している。イガラシはいない。弱く付けられたエアコンが、低い音を立てる。
正常なのはこの部屋だけで、街は滅びているんじゃないか、そんな思いに駆られる。キッチンの窓から外を覗くと、いつもどおり街並みは存在していた。ほっとする。喉が渇いて、水道をひねる。まだ頭がぼんやりしている。 コップの水を飲み干すと、階段が鳴った。重さのある革靴が、錆びた金属にあたる音。若干脚を引きずるような、だるそうな足音。玄関のドアが開く音を聞いて、安心する。
「おはよー」
「おはよう」
「残ったポテチ持ってきた」
「いいの?」「うん」
うすしお味のポテトチップスは、ほぼ中味がそのままで、どれだけ熱中してたんだろう、と思う。一枚取ってぱりぱりと噛むと、わりと湿気にやられていた。
「映画おもしろかったよ」
イガラシの顔がほころぶ。
「そう?」
「うん。おじいさんのやつがいい」
「あーあれね」「あと」
「それと?」
「イガラシが楽しそうにしてるのが、楽しかった」
彼はつまんだポテトチップスを、口に運ぶのを途中で止める。へ?は?開いた口から、そんな音が漏れた。視線を上下に左右に、動かしたあと、私を見据えてイガラシは呟いた。
「……すごいこと言うじゃん」
私はぽかんとして、返す。
「そう?」
「子どもはやべーな」
「イガラシだって未成年じゃん」
「俺は年長少年だから」
「なにそれ」
「いいから。ポテチくえよ」
イガラシは横を向き、自分の頬に親指を引いた。
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