六月

 



 空気が湿り気を帯びている。六月になり、制服はブレザーから半袖のシャツになった。腕が少し出たくらいでは、たいしてあんまり変わらない。じわじわと上がる気温のせいで、ワイシャツを入れたスカートのウエスト部分が、少し動くだけで汗ばみじんわりとする。肌にまとわりつく風はぬるく、重くて煩わしいし、長雨で濡れたアスファルトからはカエルみたいな匂いがした。

 それでもたまの晴れ間からのぞく空の色は抜けて鮮やかで、曇の輪郭はくっきりしていた。もうすぐ夏がくる。


 私は学校にちゃんと行くようになった。

 朝から行ったり行かなかったり、給食だけ食べすぐ帰る、を五月いっぱいしていたら、担任の三田先生が家に来るようになってしまった。母さんは、私を監視したがるわりには三田先生の番号も、学校からの番号も携帯電話に入れていないみたいで、こんなとこだけ用心深い母さんは、登録されていない番号は取らなかった。うちに家電はない。そんなだから私は「問題のある子」扱いされて、新卒の、やる気に充ち溢れた三田先生は本気で毎日家までおしかけてくる。ものすごくめんどくさかった。

 イガラシはそんな現状を見ては、先生って大変だよね、と言って面白がっていた。

「なんで言ってくれなかったの」

「なにを?」

「こんなことになるってこと」

「だっていまいちわかんないでしょ。実際に起こってみないと」

「……それはそうだけど」

「いいじゃん、ちゃんと学校行きなよ。勉強ってやっといて悪くないし。成績良けりゃ先生もなんも言ってこないでしょ」

 イガラシがまともなことを言ったので、少し面喰らった。このご時世にまだ、紙の煙草なんて吸っているから、不真面目なんだと思っていた。イガラシが真面目でちょっと寂しかった。だから、ちゃんと学校に行って、成績も上がったら三田先生は本当にちょっかいを出して来なくなるのか、確かめることにしたんだ。

 結果はイガラシの言うとおりだった。 真面目に授業を聞きながら、綺麗にノートをとっておけば、わりと田舎の公立中学のテストというのは思ったよりも簡単だった。五教科のどの授業でも、テストが近くなると対策用のプリントがもらえた。それさえ満点にしておけば、本番でもわりと点がとれた。学校にすらろくに来なかった生徒が、突然そこそこの成績を修めたので、三田先生は大喜びした。私をひたすらに誉めたあと、放っておいてくれるようになった。

「ね。勉強になったでしょ」

 顔をしかめた私にイガラシはそう言って、肩を二回叩いた。


 雨が三日続いていた日に、ふとそのことを思い出して、軽い気持ちでイガラシに尋ねてみた。「どうして母さんは、学校からの電話に出ないんだろう。Tシャツの砂ぼこりのときは、あんなに熱心だったのに」。彼は一瞬言い淀んで、聞く?と聞いた。頷く。

「おまえの母親の彼氏がね、他人の携帯見る人なわけ。で、あー嫌だな、聞く?」

「大丈夫だから聞く」

「……そ。あのね、おまえいないことになってんの。彼氏に独身だって嘘ついてるんだよ、おまえの母親」

 あんまりにもあんまりで、笑ってしまった。確かにそれなら、何も関係のない中学校や、教師から掛かる電話は避けたいだろう。彼氏が出てしまったり検索されるのを防ぐために、番号を入れていないのではなく、拒否にしているのかもしれない。

 母さんが、彼氏をこの家に絶対に呼ばないのが、不思議だったけどそれだったんだ。

「馬鹿じゃん」そこまでするんだなと、切なくなった。

「大丈夫?」

「大丈夫」

 母さんに聞いてみたかった。なんのために母になったのか。怒鳴られ殴られ、いないことにされる。私は一体なんなんだろう。少しも心が痛まなかったかと言えば、嫌だけれど嘘だった。でも、傷ついたところをなんとなく、イガラシに見られたくなかった。ただ私を見つめるその視線は、もう全部バレてしまっているような、哀しげな刺さりかたをした。



「ハイ、じゃあ今日はあー、避ける系でいきまっしょおー」

「えー」

「じゃあ三分ね、一発も当たんなかったらなんとビッグマックセットがもらえまーす」

「マジで!」

「マジで。一発当たるごとにイモ、コーラの順で無くなります」

「うえ」

「三発くらったらなんもナシね。全部俺が食べます」

「ひどい」

「はいどうぞ。準備運動して」

 避ける系。私はまた、制服からジャージになって体じゅうを伸ばした。おととい、なぜか家にいた母さんに蹴られた脇腹が、じりじりと痛い。痛めつけた筋肉も痛い。これを治すためにも栄養が必要なんだ。「配給」が。

 このあいだ、イガラシが言っていた配給は、食料支援制度だった。

 あんまりにも栄養が足りないと、体がだめになってしまう。でもただ飯だけ与えると、いつまでも親を殺せなくなる。だそうだ。だからこうやって、定期的にイガラシが出してくるお題をクリアすると食べ物が貰える。常に腹ぺこな私には、とても有り難かった。なんとしてでもクリアしたいから、本気になる。練習にもなる。

 昨日は、GPSを監視しながら、アパートで筋トレをした。腕立て伏せが、こんなにしんどいものだなんて初めて知った。最初のノルマは十五回、しかも膝をついたままでいい。そんなの楽勝じゃんとたかをくくると、十回を過ぎた辺りから、体は言うことを聞かなくなった。

 ほんとは十五回を三回なんだけど。頬杖をつき、あぐらをかいて隣で見ていたイガラシがひどいことを言う。それから腹筋とかもあんだけど。ひどい。私は頑張った。けれど、十五の二回目が限界だった。後生だから。ふざけて、そう頼んだけれど、年貢の取り立てみたいに配給は持っていかれた。結局私のしつこさに負けたイガラシが、情けでハムサンドをひと切れだけくれた。パックの牛乳もくれた。トレーニングをしたら、より栄養をとらなくてはいけないらしい。初めて聞いた。


 今日は綺麗に晴れていて、学校から帰ってきたあと、ふたりで路地裏にいる。いつものビルとは反対側の遠い、火災で焼けたいわくつきのビル。いまだ放置されている瓦礫にまみれた傍らを、気をつけて進まないと入口がわからない道。その先に来た。

 筋トレはメニューにもよるけど、日をあけたほうがいいらしい。それでも食事が欲しかったから、わざわざここに連れてきてもらったんだ。

 屈伸をしているとなにかが転がる音がした。軽く、からから、と鳴る方向には鉄パイプが散らかっていた。ポッキーとかをひっくり返したみたいに重なるパイプの中から、イガラシが一本引っ張り出すのが見えた。胃がむかむかした。

「コレいちばんキレイだからこいつね」

「卑怯」顔を歪める。

「おまえのためにキレーなやつ探したんだから、そゆこと言わないで」効果はなにもなかった。

「くそっ」

「行儀悪いなあ」

 イガラシが鉄パイプを振る。耳元を蜂が掠めたような嫌な音がした。私の骨より体より、きっとパイプのほうが固い。

 まあいいや。階段から落ちたとか言おう。イガラシが手招きするので、近づいた。

「三分ね」タイマーが開始の音を立てた。


 縦に振られたので、かわす。イガラシが体をひねると鉄パイプは軌道を変えて、足下をすくいに来た。飛んでかわすとイガラシの脚が、地べたに円を描くように滑る。二度も足元をすくわれて、体が傾いだ。また蜂が近づいてきて耳たぶを刺した。ヂッ、とマッチを擦るみたいに右の耳は擦られて死んだ。顔を上げる、イガラシが顔を振る、これはノーカウントらしい。

 横スイングが頭上を通り私は伏せた、伏せたところをまた狙い撃ちされて死んでしまえと思った。脚を思い切り踏みしめて後ろに跳んだ。パイプがTシャツの腹に引っかかり遠心力で体が浮いた。釣り針で釣られている気分になる。引きちぎるように布を掴んで外す、体を立てるとまたパイプ。イガラシの腕に握られたパイプのリーチはズルだった。低い自分の背丈を恨んだ。

 縦、横、斜め、頭、胴、腕、好き勝手に近寄ってくる鉄パイプが憎たらしい。ただひたすらに避けて避けて避けて、斜めに胴を薙ぐように来たパイプの軌道を下がって避けると、背中に衝撃があった。驚きすぎて振り返る、いつの間にか壁際に追い込まれていた。

 あ、死んだ。

 その瞬間、脇腹にパイプがめり込んで本当に死んだ。

 私が地面に倒れると同時に、遠くで三分のタイマーが終わりを告げていた。


「食わないの?」

「いまちょっとそんな場合じゃない」

 内臓がまだ落ち着かないから、コンクリの上で這いつくばる私の隣で廃材に座り、イガラシはフライドポテトを食べている。ファストフードの、あの特有の、油の匂いが犯罪だった。やめろと言おうと顔だけ向けると、なぜかケチャップの匂いもした。イガラシはつまんだポテトをチキンナゲットのソースと同じようなプラスチックの容器になすって、ケチャップつきポテトにして口に運んでいた。

「なに、それ」

 勝手に顔が歪んだ。

「へ?ああこれケチャップ」

「なんで」

「知らない?イモ買ったときにケチャップくださいって店員さんに言うともらえんの。タダで」

「そうじゃない」

「どうしたの」イガラシはコーラに口をつけた。

「ちょお」

「まだなにか」

「当たったの一回だけじゃん」

「耳にかすったでしょ」

「首振ったじゃん」

「だって俺も飲みたいんだもんコーラ。半分こね」

「ずるい」

「早くしないとなくなるよ。氷しか」

 私もコーラが飲みたかったから、体を無理やり起こした。二十四時間で打撃を何度も喰らった、かわいそうな右脇腹をさすってあげた。ずりずりとイガラシに近付いて、手を出した。ほい、Lサイズのデカいコーラの紙ボトルが渡されて、冷たかった。

 ストローに口を付けようとして止まる。まだ飲む?聞くとイガラシはきょとんとした。

「なんで?」

「あの、まだ飲むなら先に飲んで」

「なに、大丈夫だよ全部飲んだりしないから。おまえのコーラじゃん。だいたいは」イガラシは笑いながら続ける。

「……うん」

 目線が勝手に泳いだ。思い出したんだ。

 いつだったか昔、母さんが私のコップを自分のものだと間違えて掴もうとした。持ち手の付いていないガラスのコップで、母さんは上から、口を着けるところを持とうとして直前で気付いた。母さんの顔は歪んで、手は何か、汚いものでも触ったみたいに素早く後ろに下げられた。かすかに、小さく、うえっ。と、聞こえた。その途端に心臓が、嫌な音を立てた。吐きそうなのは、私だった。

 思い出せてほんとうによかった。そんな光景は二度と見たくない。

 黙りこくったら悟られると思い、お腹すいたあ、と大げさに言ってイガラシの隣に座る。ビッグマック、言うと紙箱が渡された。まだなんとなく温かいそれを開けて、出して、かじった。うまい。たんぱく質と脂とパンが混ざったものはいつもおいしい、はずなのに。

 ぬるいしょっぱさを感じながらゆっくり噛んだ。少しだけ混じったピクルスが噛み潰されて、酸味が、いつ切れたのかわからない頬の内側の傷に染みた。白ごまが付いたバンズが、からからの喉に張り付いたからつい、コーラを飲んだ。炭酸がばちばちに弾ける、甘い液体が喉を濡らした。 コーラを置いて、もう一口ビッグマックをかじって咀嚼していると、イガラシがボトルを掴んで普通に飲んだ。

 赤と黄色に挟まれたストローの白い部分を、コーラの色が通るのが見えた。息が止まる。咽せそうなのをなんとか耐えて口の中身を飲み込む。涙目になった私にイガラシは言う。大丈夫俺ら仲良しだから。

「……意味わかんないよ」

 しばらくして、やっとそれだけ言った。

「ほぼ毎日会ってんだから仲良しでしょ」

「……そうなの」

 仲良しの定義はそこなんだろうか。また、私は黙った。

 何を言えばいいのかわからないとよく、私は何も言えなくなる。黙るのがいちばんましだった。一生懸命、うなづいても、相手が怒ってしまうかもしれない。でも否定をすると殴られる。意見を言っても、おなじ。私の意見や考えや、自分の気持ちを言うことは、母さんにとっては自らへの攻撃と同じだったから。

 頑張った末に殴られるなら、頑張らなくてただ殴られるほうがずっとましだった。 沈黙すると街の音が聞こえた。自転車のベルが二回鳴って、過ぎた。

「思ってること当ててやろーか」

 手持ちぶさたですることがなくて、なんとなくハンバーガーをかじるとイガラシがそう言った。振り向くと頬杖をついたイガラシがこっちを見ていた。黙る。視線を落として返事を迷っていると彼は勝手に喋り始める。

「自分が使ったストローはもう汚れてると思ってるでしょ」肩が微かに跳ねた。

「で、うわっ、みたいな反応見るのが嫌なんでしょ」細く息を吸った。

「大丈夫俺ら仲良しだから。見たでしょ。俺が飲んでるとこ」

 イガラシはもう一度コーラを掴んで口をつけた。横顔の目線だけが、いちど伏せられ、正面に飛び、次はするりと私を向いて笑う。イガラシは、普通だった。

「ね」

 はい。さっきと同じに、コーラのボトルがまた私に返る。考えて、確認するように少しだけイガラシのほうを見た。口元が、持ち上がるのを見たから、ストローを指で支えて唇をつけた。氷が溶けて、若干薄くなったコーラはやわらかく喉を伝っていき、私の体のなかに落ちた。炭酸がだいぶ抜けてきているのに、さっきよりもおいしい気がした。

「タバコ吸っていい?」

 聞かれたので、いいよ、と答えた。

 イガラシが煙草に火を点けると、風がゆるりと吹いて、煙が流れてくる。最初は別に好きではなかった煙の匂いは、いつの間にかあたりまえに私の隣にあるようになり、薫ると、どこか安心するようになった。イガラシの吸う煙草の煙は、いつも甘い匂いがした。そう言うと、いいでしょ、と返ってきた。



「イガラシ」

「なーに」

「なんでいつもシャツなの?」

 六月終わりの蒸し暑い日、路地裏でイガラシにのされた私は、地べたに転がったままで聞いた。仰向けで、手足を日陰のアスファルトに伸ばして冷やしていた。

「半袖とか無いの」

「まあ今仕事中だからね。シャツのほうがさ、なんかかっちりしてるじゃん。襟あったほうが。あちいけど」

「へえ」

「おまえだってずっと運動着じゃん」

「だって他の服ぺらぺらだもん」

「あー」

「学校の服のほうが、綺麗。新しいし」

「……配給、服のほうがいい?」イガラシは心底哀れだという顔をした。

「いいよ。知らない服があったら母さんに捨てられるから。ご飯のほうがいい」

 寝返りをうち、温くなったアスファルトから移動する。うつ伏せになると、頬が冷えた。シホちゃんのお母さんがくれた、背の高いシホちゃんには小さくなってしまったという空色のシャツは、びりびりに引き裂かれて燃えるごみの日に捨てられた。半透明のごみ袋のなかに、カップラーメンの汁にまみれた空色が、細切れになって散らばっていた。 私は起き上がる。

「なにその顔」

 イガラシに言った。 彼はなんとなく笑って、なんでもないよ、と返した。





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