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学校に着くと、もうお昼の時間だった。白い割烹着型の給食着を着た生徒が給食室へと移動している。別のクラスの男子生徒に、通りすがりにちらりと見られた。無視をした。
私のことは、みんな放っておく。どこかで、何かで、陰口は叩かれているかもしれないけれど、あからさまな嫌がらせや、暴力みたいなものはなかった。録に登校してこない、愛想もない、携帯電話を持っていない、生徒。そんな生徒には誰も関わらない。
教室の後ろのドアを開けるとデミグラスソースの匂いがした。賑やかだったクラスの中が少しだけしんとする。また無視した。すたすたと自分の机に向かい、鞄を横のフックに掛けて、ロッカーの上に置いてある給食用のトレーを掴み、食事が貰える列に並んだ。きゅる、とお腹が鳴った。列はのろのろしている。さっさと食べて帰りたいなあと思う。イガラシの顔が浮かんだ。
汁物、サラダ、ハンバーグ、ごはんと牛乳をトレーに載せられて、机にもどる。この学校に、わざわざ机をくっつけて食べるきまりが無くて本当に嬉しい。
いただきますの号令がかかると私はひたすら食べ物を噛んだ。あんまり早く、がつがつ食べてしまうと食べた気が全然しなくてもったいないから、素早く、よく噛んだ。あたたかい食べ物はとても美味しい。デミグラスソースが喉を通り、胃のなかに落ちると、すぐに体力に変換されてゆく気がした。
牛乳、甘くて美味しい。コーンスープはとろとろしていて、ご飯にはもち麦が混ざっているからぷちぷちしている。家には、こんなしゃきしゃきのレタスは存在しない。マッシュルームがたくさん入ったソースに埋まるハンバーグは、おそろしくうまい。
しあわせだな、と思った。普段の生活がクソみたいだから、給食の時間はパーティーだった。
お米を全部綺麗にさらうと、給食はなくなった。プラスチックのお皿のなかに薄く残ったソースがもったいない。我慢した。教室はまだがやがやしていたけど、汚れた食器をもとに返すと、ほぼなんにも入ってない鞄を肩に掛けて、教室を出た。
下駄箱で靴を履き替えていると、名字を呼ばれた。振り向くと先生がいた。女性で、長い茶髪をひとつに縛り、少しだけぽっちゃりしている担任の三田先生が強張った顔で後ろに立っていた。
「あの、久保田さん」先生の、やたらに可愛らしい声が今日はざらざらしている。
「なんですか」
「あの、あのね……その……あんまり言いたくないんだけどね」私はこの先生が苦手だった。
「その……あの、お金がね」
「わかりました。親に言います。さようなら先生」
「あの、」
靴が履けたので、玄関を出た。
午後の春風が吹きすさんで、からかうように私を半歩、押し戻した。
「んー、とりあえずやり方としては、ナイフで首だね」
イガラシは自分の首筋を、指で後ろから斜めになぞった。即、質問する。
「なんで?血が出るよ。片付けるの大変じゃん」
「うーんまあそうなんだけど、あ、でもあんまし腹とか狙うのはやめといて欲しいんだよね」
「どうして?」
「腸の中身は?」
「……あー」
「そゆこと」
ぽかぽかの春の陽気のなかで、嫌な画像が頭に浮かぶ。今年は桜が咲くのが早くて、たまに風が吹くと、すっかりと緑になった葉がさわさわと揺れる。さざ波が立つように踊る青々とした桜を眺めて、気分を書き換えた。
咳払いがして振り返ると、イガラシが肩をすくめるので慌ててごめん、と言う。
「よい?」
「よい。ごめん」
「いーよ。でなんだっけ」
「血の話」
「あーそれね。で、血が出ないなら出ないにこしたことはないけど、それだとねーちょっとめんどいんだよね。道具とか準備とかが。状況によっては使えないしね。そう考えるとあとは首絞めなんだけど、子どもの力だと紐とかあってもしんどいよ。リーチの差もあるし」
「ふうん」
「まあやりたいなら鈍器で頭ガーンでもいいんだけど、立たれると届かないでしょ。それにあれってちゃんと叩かないとやったんだか気絶してるだけなんだかちょっとわかりづらいんだよね。だから結局トドメ刺さなきゃいけないけど、そう何度も頭叩きたくないでしょ」
「うーん、うん」想像して、顔をしかめた。
「ね。だから凶器はナイフで。刃物あると相手もビビるし」
「……ビビるってなに?」知らなかった。
イガラシが目を丸くする。
「エッ」
「どうしたの」
「いや……なんか驚愕してんの。いろんな差に」 「いろんなって」
「まあいいや。そーね、驚愕もまあ近いけど、びっくりする……驚くとか……戦くとか?」
「戦くって?」
「んー、あ、戦慄するとか」
「ああ」
「なんでそれはわかんの」
「まえテレビで観た。こわいやつで」
「あー」戦慄の瞬間ね。イガラシが短く頷いた。
足元に鳩が近づいてくる。まるまるとしたキジバトが、ぐーぐー、得体の知れない音で鳴いていた。鳩は暫くベンチの周りをうろつくと、餌をくれない人間なんだと、私たちを見限り離れていった。
短くなった煙草と灰を、イガラシは腕を伸ばして、ベンチの横の灰皿に落とす。彼のスマートフォンが鳴った。短いから、メッセージだろう。画面をスワイプして、2秒、やっぱりなあ。だるそうに呟く。
「なに?」
「おまえの母さんあのビルにいるよ」
イガラシはスマホを私に見せた。GPSの画面。母さんの携帯電話の現在地が、私たちが午前中を過ごしたあの廃ビルのなかにあった。思わず声が漏れる。
「なんで」
「最近さ、Tシャツで練習するでしょ」嫌な予感がした。
「学校のTシャツに、やたら砂ぼこりついてるのを不審に思ったらしいね」
洗濯かごに入れておいた、学校指定のジャージ。そのなかの、私の苗字が刺繍された白いTシャツ。それを引き出して汚れを見ただけで、私がなにか、母親に言えないことをしているんじゃないか。あの人はよく、でたそれだけの些細なことで、そういう疑い方をする。何か隠しているのか、親を差し置いて楽しんでいるのか。母の憎しみの顔が浮かんだ。言葉にはする。心配なの。でもそれは、 私がなにかに巻き込まれたとか、ひどい目にあっているのかとかそういうんじゃない。 私のことが心配なんじゃなくて、私がヘマをすることによって、自分になにか面倒が振り掛かることを「心配」しているんだろうなと、わかってしまう。
腕の青あざを見つけられ、転んだんです、そうごまかした。怪しまれるから笑顔にした。もらっておいて。そう言って、死にかけの動物を見るような目をしていた、このアパートの大家さんがくれた小さなチョコレートを、食べるのがもったいなくて隠した。それが溶けてポケットに貼り付き見つかり、怒鳴られた。この汚れた服誰が洗うの。あんたはいいね。なんもしなくても他人に優しくしてもらえて。大家さんは、娯楽もなんもない人なんだね。私には音がうるさいとか、文句を言ってくるのに、おまえにはお菓子くれるなんて。施しが趣味だなんて、寂しい人なんだね。そんな台詞を楽しそうに話す。それが私の母親だった。
めんどくさいなあ。そう思った。思った途端、万引きでもしたような気分になった。息を吐く。
「じゃあ練習どうすんの?」吐いた息をまた吸いながら、スマホを返すとそう言った。
「しばらく違う場所か、違うやつだね」イガラシは首に手をあてる。不良の人がやるように、頭を傾げて首筋を伸ばした。
「違うやつってなにやるの?」
「筋トレ」
「は?」
「体力作りってこと。大人の力に負けない……とまではいかないだろうから、瞬殺されないようにってこと」
「はい」手をあげる。「どうぞ」
「そんな体力がまずないです」
最近の私は給食だけの、一日一食生活だった。母さんはこのごろ、パートから一度帰ってきて、夕飯代の100円を机に置くと、すぐまた出掛ける。そしてまた、次の日の仕事終わりまで帰ってこない。その100円は土日のためにとっておくから、夕ご飯はない。以前はパート先のスーパーマーケットで、期限切れのお惣菜が出ると持って帰ってきてくれたけど、それもなくなった。もちろん、朝ごはんも。
だから食欲が安定するのは給食から夕方までで、それ以外の時間帯は朝から晩まで、常にお腹がすいていた。とてもじゃないけど、腕立て伏せをする余裕なんかない。
「だよね」
というわけで。イガラシがもったいぶる、うざい、「なに」
「今日から『配給』が始まります」
私は眉間にしわを作って、聞いた。
「……配給ってなに?」
イガラシが、ビビる。呆れたような声で言った。
「小学校で習ったでしょ……」
覚えてない。答えると、いもむしでも見る顔をされた。みんな私をなんだと思っているんだ。
それでも、なんだかそこそこいいことが起こる気がした。
家に戻ると母さんがいた。ふと、三田先生の言葉を思い出す。お金の話をしなくてはいけなかった。身体が硬くなる。ただいま、呟くとすぐさま彼女は訊ねてくる。
「あんた最近、服汚れてるけど、大丈夫?なんかあるの?」
口ではそう言う。でも瞳が、ぎらぎらと光っている。証拠が見つけられなかったんだ。私が悪人だという証拠が、出なかったから、聞いているんだ。
「最近体育でサッカーやってる」これは本当。クラスの人が話すのを聞いた。
「そんな毎日体育無いよね」
「部活の体験入部に行ってるから、それじゃないかな」
これは嘘。部活に入る気なんてない。
母さんは腕を組み、不機嫌に言った。
「入らなくていい。あたし部活動とかあんまり好きじゃないし」
ああそれか、と思った。いろんなことで、お金も面倒も時間もかかる部活に入られたくなかったんだ。前からうっすらと思っていた。母さんは私が何か、始めるのを嫌がる。
「わかった」私が従うと、彼女は喜ぶ。満面の笑みになって言う。
「なんだー、あたしあんたがさ、なんかほら、あんたっておとなしいからあ、なんかみんなにいじめられてるんじゃないかって心配してたんだよねー、なんか起きてもさ、ほらお母さん忙しいから困るしい、そっかそっかなんだー、心配して損しちゃったー」
母さんはそう言いながら、出掛けるための鞄を掴む。メッセージが届く音がして、彼女は携帯電話をいじる。あまり状況はよくないけれど、次はいつ母さんがいるかわからなかった。死にそうな思いをこらえる。母さん、呼び掛けても、目線は画面から外れない。
「なに」
「三田先生がお金のことよろしくって」
なんでもないのを装いたくても、やはり早口になってしまう。 母さんは珍しく、怒鳴らずにそのままの口調で返事をした。
「あーはいはい。はあ、ほんとにお金かかるね」
あんたに。音にならない言葉が、聞こえた気がした。
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