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 その人はただイガラシ、としか言わなかったから名前は知らない。微妙に長い固そうな髪と、黒いジャケットにシャツと革靴、目元はトカゲみたいだった。ただ声だけは優しいトーンをしていたから、おじさん、と呼ぶのをためらってお兄さん、と呼んだ。 たらたら流れる私の鼻血を、イガラシはわざわざ親指でほっぺたの方へ擦り付けると満足そうに頷いて、おまえの母さん殺りにいこう、と言った。




 今日も母さんは機嫌が悪くて、朝からビンタを喰らったので左の頬がじんじんしていた。フローリングにぶちまけられた六枚切りの食パンの埃を払って口に入れると、底値の食パン特有の、イースト菌の味がした。規則的には入ってこない食べ物を、待ってましたというように空の胃袋がぐうと動いた。

 食パンのカサを増やすために、くもりの浮いたガラスのコップに水道水を満タンにして3杯飲んだ。最近はずっと晴れているから、塩素の匂いが鼻につく。逆さにしたコップを洗い桶に戻していると、もったいねーな、と声がした。

 腹いせとして何度も踏まれ、雑巾みたいにぺちゃんこになった最後の食パンを、イガラシがつまんで捨てていた。いいのに、と返すと彼は自分の背後にある掛け時計を肩越しに指差す。遅刻だった。溜め息をつく。

「もういいや。ビンタもばれるし」

「行ったほうがいいんじゃない」

「なんで?」

「昼飯どうすんの?」

「……お昼になったら行く」

 今日は、久しぶりに朝から学校に行こうと思っていたのに。私のやる気がある日にばかり、母さんの機嫌は悪くなる気がする。肩から力が抜けた。着ていたブレザーをまた脱いで、シャツを捲って床を片付けた。薄いコーヒーが血痕みたいにそこらじゅうに飛び散っていて、全部拭き終えて立ち上がると、白いハイソックスに染みが点々と付いている。舌打ちをして靴下も脱いだ。洗面台にハイソックスを投げ込んで、擦る。染みが微かになったあたりで絞って、窓際に広げた。

 母さんはまたパートをサボって彼氏の家にでも行ったんだろう。そう思うとなんだかゲロでも嗅いだ気分になった。三十路のババアが何が彼氏だと呟くと、いつの間にか背後にいたイガラシが噴いた。振り向くと、煙草の煙が痺れた顔にまとわりついた。

「じゃ、メシまで練習しましょ」

 私は煙を払いながら頷く。

 鉄の階段を最後まで降りる。塗装が剥げた手刷りの端に、とかげがいた。上半身だけ日光を浴びて、目を細くしていた。


 私とイガラシはいつものように、アパートから歩いてすぐの朽ちた廃ビルにもぐり込むと、誰もいないのを確かめた。丈の長い紺色の、制服のスカートを脱いで、ついでに指定のワイシャツも脱いで、下に着ていたTシャツとショートパンツになった。5月のくせに、今日は風が冷たい。汚れたスニーカーの紐をきつく締めていると影が差し、見上げると、何かが鼻先を掠めて行った。長くなってきた前髪がひとふさ削られ、地べたにふわりと落ちる。そのすぐそばに刃がギザギザの長いナイフが突き刺さっていた。

「今日からこれね」

 イガラシがにやにやしながら私の顔を見下ろして、煙草を地面に落として踏んだ。砂が焦げて臭い。焦げ茶色した木でできた、ナイフの柄を掴んで引き抜くと、思ったよりも迫力があった。角度を変えて眺める。長い刃渡りに自分の顔が映った。 グリップを握り、離して感触を確かめる。まだだいぶ手に余るそれを右手に掴むと私は構えた。三メートルほど先に立つイガラシが首を回して、どうぞ、と言う。地面を蹴る。

 上体を低くしたまま戦闘機のように突っ込んだ。当たり前のようにかわされたのでカウンターが飛んでくる。先の尖った革靴が私を墜落させようとして、顔に目掛けて近寄ってきたのでギザ刃を向けた。イガラシの踵は計算したみたいに私の右手に当たった。勝手に指から力が抜けて、ナイフは宙に浮いた。割れた窓から差し込んできた、太陽光を反射する綺麗な刃先に目を奪われて、こめかみのあたりが揺れて私は吹っ飛んだ。 変な体勢のまま頭を直し、今いた場所を見渡すとなにもいなかった。代わりに目の前にまた革靴があり、舞い上げられた砂と埃がシャワーみたいに落ちてきて思いきり顔にかかった。うっかり呼吸をしてしまったので鼻と、口と、目にもついでのように粉が入った。噎せた。瞼も閉じてしまった。さっきとは逆のこめかみがまたガクンと揺れて膝をついた。そのまま死んだ人みたいに前のめりのまま地面に落ちた。コンクリートと頬骨がぶつかって嫌な音が鳴る。

 こみ上げてくるひどいめまいを歯を食い縛り堪えていると地面がじゃり、と音を立てた。イガラシが私の脇にしゃがんで、下の瞼をべろりと下げた。無理をして、生きてる、と呟くとやっぱまだ骨やわらかいよね、と返ってくる。イガラシの手が煙草くさくて思わずえずくと手が引っ込んだ。飲み込んでよ、そんな笑い声が聞こえた。

「そんなんじゃ犬はもらえないよ」

「……わかってるよ」

 口の中身を吐き出して、渾身の力で立ち上がる。よろけながら前を見据える。そうこなくちゃね、イガラシが漫画のようなセリフを吐いた。

 ナイフを探して頭を振ると、足下に滑り込んできた。イガラシが蹴ってよこしたナイフを握り、彼に向かってまた地面を踏んだ。


 立ち上がれるまで地べたに倒れ、回復したら起き上がり、またイガラシに突っ込んでおんなじように倒される。ナイフを持っても持たなくても、結果は大して変わらなかった。それを何度か繰り返していると不意にアラームの音がした。イガラシはポケットからスマホを出して音を止めた。それは十二時を教えるもので、お腹がぺこぺこの私が待ち望んでいた音だった。

 最後に蹴られた腕を押さえてむっくりと起き上がると、埃と砂をできるだけ払った。シャンプーをするみたいに髪の毛にもわしわしと指を入れると、ショートカットの髪の中からびっくりするぐらい粉が落ちた。

「帰ってきたらさ、またあの公園来てくれない?」

 イガラシが、ブレザーを手渡しながら言った。

「なんで?」

「今日もさ、給食食べたらソッコーで帰ってくるんでしょ」

「そうだけど、なにかやるの」

「ミーティング。今後についていろいろね。あと質問とか、要望とかなんかあるでしょ」

 私は首をひねる。確かに質問はいくつか浮かんだ。

「まあ、あるけど、なんで公園」

「今日天気良いからね」

「おじいちゃんかよ」

「おじいちゃんは、暗いとこよりあったかい方が好きなの」

「ふーん」

「ね。じゃあよろしく。いってらっしゃい」

 イガラシにナイフを返して、ブレザーに袖を通した。手の甲の皮膚が擦れていたので、指でささくれを払う。薄く滲んだ血液をぺろりとなめて、傷を綺麗にした。


 イガラシと別れて、学校へ向かった。頂点まで太陽があがり、日差しは強いけれど風は冷たい。スカートと、靴下からはみでた膝だけが、風に当たってぴりぴりした。

 アパートを過ぎ、住宅街も抜けて、コンビニエンスストアを曲がるといきなり風景が変わる。大きな道は二車線になり、田んぼや畑の真ん中、端を囲むように農道が走る。風に土の匂いが混じる。車も、人もやたらと多い雑多な指定の通学路よりも、こちらのほうが好きだった。

 風に揺れている緑を見ながらゆらゆらと歩いていると、不意に脇道から鳴き声がした。たしなめるようにリードを引っ張る年配の男性の隣で、薄茶の柴犬がこちら向かって吠えていた。

 私はあまり動物に好かれない。男性は犬を落ち着かせると、曖昧に笑ってすいませんねえ、と言った。そして若干訝るような表情をした。なにか言われる前にいえ、と返して歩を進める。犬は体を落として低く唸っていた。

 この道にはよく犬がいる。だからわざわざ通るのかもしれない。もっと子どもだったころの、おぼろげになった記憶のなかのシホちゃんの犬を思い出した。雪の積もる林道。シホちゃんの、ピンク色の手袋から延びるリードの先。あいつも茶色の柴犬で、不思議と奴だけは私に近寄ってきた。湿った舌を私の顔に擦りつけて、べたべたにしては笑ってるみたいに上がった口から、冷えた大気へ湯気のような息を吐いていた。ふわふわに積もる新雪に、彼を挟んで三人で飛び込む。 澄んだ真冬の空の下で、固まるように皆で抱きついて、眠るように瞼を閉じた。体温の高い、きちんと締まった体に触ると、思ったよりもごわごわしていた。その毛並みが、彼の強さの証明のように思えて、私は犬が好きになった。

 雪が溶けるころ、突然、シホちゃんと一緒に消えてしまった彼は、まだ生きているのだろうか。

 ふと手のひらを開いて眺めた。ナイフを掴んだ感触と重さ、刃の鋭さが蘇る。立ち止まり、瞳を閉じて呼吸した。太陽の匂いがした。 あと半年の間に、私は母さんを殺す。そうしたら、生活と、犬がもらえるから。

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