十月の犬

フカ

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 腹部に、なつかしいような鈍痛がした。

 ソファから起き上がりつい、髪を掻き上げる動作をしてしまう。分厚い手のひらは坊主頭を素通りした。 真白いソファカバーを振り返っても、血で汚れることはもうない。濃く入った皺が波打っていた。

 昨日拾った少年はまだ寝息を立てている。眼鏡を掴み、ベージュのガウンを羽織ると部屋から出た。


「おはよー」

 久我の部屋に入るなり、久我はそう言った。子どものような無邪気な笑みをふわふわとさせながら、だだ広い部屋の真ん中に置かれた、巨大な水槽に餌を撒いていた。南の国の泥水の底で、じっと獲物を待っている。そんなような、アクリルガラスの中にいる奇妙な魚はうまそうに、また久我が殺したであろう誰かの肉を食べていた。

「あの子まだ寝てんの?」

「ええ。ベッドで」

「優しいじゃん五十鈴いすず

「でしょう」

 笑いながら、汚れきったビニールポーチを、餌やりを終えた久我に渡した。一瞥して久我は中身を開けた。蛇腹になった一昔前の保険証の束が、だらりと下がる。久我の目線が、いくらか動くと眉間に皺が寄る。

「やっぱね」

 渡された束をポーチに戻した。一家族分の保険証の中には少年の、名前も、生年月日も記されていない。

「困ったね」

「ええ」

「名前ってなに?って言ったし」

「はい?」

「なんて呼んだらいいかわかんないじゃん」

「そこですか?」

「そこ。名前で呼ばないと仲良くなれないじゃん」

 久我が、深刻そうに言った。

 途端、血まみれになったシャツを思い出した。母親の血がべったりと染みた重たい赤いシャツを着て、彼は、少年は何を思っていたのだろう。爬虫類のような目をして。

 つい、自分の手のひらを見る。ガラスの灰皿で父の頭部を、ひしゃげた別の何かになるまで、殴打した感触が甦る。

「どうだった?」 聞かれたので答える。

「あの灰皿重たいですよね」

 そう返すと久我はなんとなく笑った。

 久我の背後を仰ぎ見る。魚は、巨体を翻して、真水の中を悠々と泳ぐ。数多の人間が溶けている、滑らかな皮のその下に、私が混ぜた私の父は、まだいるのだろうか。もう排泄物として、或いは老廃物として、代謝されて消えただろうか。私を女として作り、そして壊した。殴られ潰れた卵巣。ピンク色をしたラテックスのなかで、こなこなになった蛍光灯の破片で千切られ無くなった、あるはずのない私の子宮が痛んだ気がした。

「生理の夢を見ましたよ」

「……そう」

 久我の顔が歪む。

「すいませんね。ちょっと。今日はね」

「そうね」

「気に入ってるんですけどね。この体」

 この言葉には偽りはない。 以前の肉体を捨てたのは、まぎれもなく私だった。女性の身体で生きることはもう、恐ろしくて、できない。そのはずだった。

 筋肉が厚く盛り上がり、ずいぶんと太くなった腕を、撫でた。すると私よりいくらか細い、久我の腕が背中に回る。 甘い煙草の匂いがした。

 強まる力に抱き締められながらぼんやりと、私はこれが欲しかったのかなあと、思った。久我の手のひらが背中を二度叩いて、音が鳴った。見たことがある、フィクションの世界で。父親が息子にする、素敵な仕草だった。

「あの子名前何にしよっか」

「……本人に、希望を聞いたらいいのでは」

「へー。なるほど」

 久我は男性で父親ではなく、私は全てがどれでもない。だから厳密には違う。それでも私はただ嬉しかった。私が心の最奥で望む抱擁はきっと、これだった。

「背は俺の方がデカいね」

 久我が自慢気に笑う。私と同い年のくせに、目尻に、鳥の足跡のような皺が浮く。つけはなしになった薄いテレビ画面から、BGMと、作り物の恐竜の鳴き声が聞こえた。

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