花柄のおばけ

サブロー

第1話

 そのおばけは、花柄のシャツを着ていた。


 彼と出会ったのは、ぼくが小学一年生のときだ。ぼくの家は、いわゆる父子家庭だった。築二十年のアパートの一室が父とぼくの寝床で、風が強い日は、トイレのドアがキイキイ軋むのがいやだった。


 物心ついたとき、すでに母はいなかった。ぼくが二歳のときに離婚したらしいが、それ以上は聞いていない。聞いてもあまり楽しい気分にはなれそうになかったし、なにより父を困らせたくなかった。どんな形であっても、別れが明るく愉快なわけがない。


 父は静かな人だった。というより、毎日疲れ切り、家に帰ってきてもぼくと話す気力はないようだった。ましてや一緒に遊ぶなんて体力も残っていない。そんなわけで、ぼくはそこそこ空気が読めて、そこそこ大人びた子どもだった。


 父は普段から優しかったが、時々深酒をして帰りが遅くなることがあった。ふとした瞬間に、父親でいることがいやになるのだろう。


 そこそこ大人びて察しの良かったぼくは、午後八時を過ぎても父が帰ってこない日は「そういう日」なのだと受けとめた。そんな日は、一人で納豆ごはんを食べて、いつもより三十分長くテレビを見てから、風呂に入って寝る。ぼくがうとうとし始めたころ、父は物音ひとつ立てずに帰ってくる。


 ひどく酔っ払っていても、父は静かな人だった。無言でシャワーを浴び、ぼくの隣に横たわる。そして酒くさい吐息とともに、「ごめんな」と呟いてから眠るのだ。ぼくは、そんな不器用な父が嫌いではなかった。でも、時々「悪い父親だなあ」とひとりごとが聞こえるときがあって、そんな父は苦手だった。 

 父子ふたりの生活は、良くも悪くもなかったけれど、ぼくはそれでいいと思っていた。


 ある夜のことだ。その日も「そういう日」だったから、ぼくは大人しくやるべきことを済ませて、布団に入った。眠ると明日がやってくる。ぼくは目をつむりながら、昼休みにサッカーで活躍する自分の姿を想像していた。

 夢に落ちかけたそのとき、玄関の鍵がガチャガチャと騒がしく鳴った。父はいつも静かに帰ってくる。だから、うるさくするのは父ではない。


 ぼくの心臓は痛いくらいに跳ねた。けれど、ドアが開く音と同時に聞こえてきたのは、間違いなく父の声だった。それに重なる、聞き慣れない男の声。


 誰だろう。ぼくは布団から這い出て、おそるおそる玄関へ向かった。そこには、酔い潰れて玄関で仰向けに倒れる父がいた。

 そして、その傍らには。


 ——おばけだ。


 ひと目見た瞬間、ぼくはそう思った。

 痩せぎすの男のおばけだった。その肌はぞっとするほど青白く、シャツの袖から覗く手首は細い。顔にはなんの表情もなかった。夜の暗さも相まって、その男は、とても生きている人間には見えなかった。


 突然部屋にすべり込んできた異質な存在に、ぼくの足はぶるぶると震えた。倒れた父に「今すぐ起きて」と強く念じたが、念は通じず、父はいびきをかきはじめた。ちょっとだけ、父を嫌いだと思った。


 おばけは、花柄のシャツを着ていた。真っ赤な花びらがあちこちに散った、派手なシャツ。サイズもぶかぶかで、貧相なおばけの身体には、全然似合っていなかった。そのちぐはぐさが余計に怖かった。   


 おばけは顔を上げると、ぼくを認めてびくりと身体を揺らした。


「……子ども、いるのかよ」


 おばけはそう呟き、大げさにため息をついた。痛んだ前髪越しに見える瞳が、やけに強く光っている。それ以外はぼんやりとしていた。太陽が出てきたら消えそうなくらい、男の輪郭は頼りなかった。


 ——おばけのくせに。


 強がったぼくは、心のなかでそう呟いて対抗した。呪われてしまうのかもしれない。一人でいるときにうっかり見てしまった心霊番組を思い出した。けれどおばけは小さく舌打ちすると、父のそばにしゃがみ込み、肩を掴んで「起きろ」と乱暴に揺さぶった。


「子どもが待ってんなら、こんなになるまで飲んでんじゃねぇよ」


 おばけの声は少し掠れていたけれど、ぼくの耳にはよく響いて聞こえた。心地よい涼しさを感じる声だった。


「なあ?」


 花柄のおばけは真面目な顔でぼくを見つめ、同意を促してきた。

 あまりにもその表情が真剣だったから、ぼくは迫力に負けて、「そうですよね」と答えて何度も頷いた。

 寝ぼけた父が、楽しそうに笑ったのを覚えている。


 結論から言うと、花柄のおばけは、おばけではなかった。肌は青白いけれど、ちゃんと生きた人間だった。


 父は彼のことを「友だち」なのだと説明した。そしてその「友だち」は、なぜかぼくたちの住む部屋を訪ねて来るようになった。

 彼は父が帰ってくるころにやってきて、だらだらと部屋で過ごしたあと、ぼくが寝るころには帰っていく。


 彼の名前は覚えていない。父はぼくの前では、極力彼に話しかけないようにしていたし、ぼくも彼のことは「ねえ」とか「あのさ」で済ませていた。でも、柔らかい響きの名前だったことだけは覚えている。大事なことは忘れるのに、その周りのふわふわした部分だけが僕のなかには残っている。


「究極の目玉焼きを食わせてやる」   


 彼はある日、小さなフライパンを手に部屋へやって来た。いつもどおり、花柄のシャツを着て。

 その日はひまわりの柄だったと思う。空色の生地に、どでかいひまわり。やっぱり似合っていなかった。


 彼と一緒にいるところを、クラスメイトには絶対に見られたくないと思った。父は仕事で帰りが遅かった。彼とふたりきりになるのは初めてで、ぼくはほんの少し緊張した。


 彼は台所をあちこちひっくり返した末に、サラダ油を発見し、持ってきたフライパンをガス台に置いた。ぼくは台を持ってきて彼の隣に置き、それに乗って目線の高さを合わせる。勝手に火を使ったらいけないんだよ、と声をかけると、彼は「おれは大人だからいいんだ」と真面目な顔で言い返してきた。


「目玉焼き、鉄のフライパンで作ったことねぇだろ」


 彼が持ってきたのは、うちにあるものより小さくて、どっしりとしたフライパンだった。本物のフライパン。そんな印象を受けた。

 コックさんなの、とぼくが尋ねると、彼は「んなわけあるか」と笑っただけだった。


 答えを出さずに笑ってごまかすのが、彼の癖だった。

 ぼくはそれまで、目玉焼きという食べ物が苦手だった。父が作る目玉焼きは、裏面が真っ黒焦げで、そのくせ黄身の部分はいつもほとんど固まっていなかった。口に含むと、ぶよぶよのガチガチ。ゆで卵の方がずっといい。

 

 でも父は、朝に目玉焼きを作ることが多かったから、ぼくはじっと耐え忍んでいた。

 ぼくの不満が伝わったのか、彼は「ちゃんと見てろ」といたずらっぽく唇を歪めた。サラダ油をフライパンにたっぷりと注ぐと、ガスに火をつける。


 煙が出るまで待つんだ、と言う彼の隣で、ぼくは火事が起きるんじゃないかとハラハラしていた。


「そっと入れるんだよ。できるだけ低いとこから」


 白い煙が立ちのぼるフライパンを前に、彼は卵を手に取った。そして言葉通りに、ヒビを入れた卵を、優しい手つきで割り開いた。慎重に、そっと。


「卵がびっくりしないようにな」


 ひそやかに彼は呟く。とても大事な秘密を、こっそり教えてやっているんだと言うように。

 そんなに火の近くで割って、熱くないのだろうか。ぼくが心配していると、割れた殻から黄身と白身がするりとこぼれ出てきた。じゅわ、と一気に熱が入る。白身が泡立ち、黄身が色を変えていく。それを見つめていたら、彼は「あんまり顔近づけんなよ」と厳しい声で注意してきた。


 勉強のつもりで見てるのに、子ども扱いされた。ぼくは面白くなくて、当てつけのつもりで彼に尋ねた。


 ——なんで、いつも花柄の服着てるの。


 全然似合ってない、という嫌味を込めたつもりだった。彼は数秒間黙り込んだあと、フライパンに視線を落としたまま答えた。


「明るくなりたいから」


 細い指が塩を摘んで、ひまわり色の黄身にぱらりと振りかける。手首は怖いくらいに細く骨張っていて、ぼくは「やっぱりおばけみたいだ」と思った。


「花って、明るいだろ」


 自分から聞いたくせに、ぼくはなんの返事もしなかった。それどころか、わざと聞こえなかったふりをして、台を降り、戸棚から皿を取り出し彼に渡した。


 彼の声は笑っていたけれど、ぼくはなんとなく後ろめたい気持ちになっていた。ぼくから見たら、彼は十分明るい大人だった。


 明るくなりたい。その言葉の意味は分からなかった。明るさにはきっと、いろんな種類があるんだろう。そう考えて、ぼくは自分をごまかした。


 彼の目玉焼きはおいしかった。白身も黄身もふっくらしていて、味が濃い。父の作るものとは全然違って驚いた。

 卵が違うのかも、と首をひねるぼくの髪をくしゃくしゃに撫でて、彼は「今度また作ってやる」と声を弾ませた。またもや子ども扱いされた。少しだけ不満で、少しだけ嬉しかった。

 

 彼はまつ毛の長い人だった。見るからに不健康そうな青白い肌をしているくせに、まつ毛だけは黒々として、くるんと上を向いていた。ほとんど白に近い前髪のせいで、余計にまつ毛の元気さが目立つ。


 一度その長さを指摘したら、彼は「綿棒ものるんだぞ」と得意げに綿棒を持ってきて、やってみせてくれた。ラクダみたい、と感想を告げると、呼吸ができなくなるほど身体をくすぐられた。笑いすぎて涙が出たのは、初めてだった。


 彼は冗談を言うのが好きだったけれど、あまり面白くなかった。つまんないよ、と冷たく言えば、彼は怒った。でも、本気の怒りではなかった。じゃれて甘噛みをするような、遊びの怒り方だ。


 子どもみたいな人だ。子どものぼくはそう思った。彼が楽しそうに笑うと、つられて笑ってしまうことが多かった。彼は黙っているとおばけみたいだけれど、口を開くと騒がしくて、輪郭がくっきりとして見えた。

 初めて会ったときは、もっとぼんやりして、目をそらした途端に消えてしまいそうだったのに。


 父と彼は、ぼくの前ではあまり話さなかった。父はぼくに話しかけ、彼もぼくに話しかける。なんだか伝言ゲームでもしてるみたいだった。


 彼が部屋を訪ねてくるようになってからというもの、父は少し口うるさい人になった。ぼくと彼に、父はよく「たくさん食べなさい」と言った。彼はそんなときだけ、素直に「はい」と答える。返事をする声はいつも小さくて、どこか嬉しそうだった。


 でも彼は、ぼくよりも食べる量が少なかった。

 この二人は「友だち」じゃない。早々にぼくは気づいていた。友だちというのは、一緒に遊んで楽しい人のことだ。だから、父と彼が「一緒に遊んで楽しい」と感じているわけではないと見抜いてしまった。


 深入りしてはいけないなにかが、二人の間には存在していた。父は、あまり酒を飲まなくなった。

 今思えば、彼らは、お互いが安全な場所だったのだと思う。その関係に明確な名前を付けられるほどの知識がぼくにはなかったけれど、二人は寄り添っていると、とても安心しているように見えた。


 ぼくがテレビを見ている間、二人は並んで食器を洗った。会話はほとんどない。でも、そのふたつの背中を見ていると、自分だけが弾き出されたような気がして、ぼくはあとから二人に駆け寄ってじゃまをした。二人が笑ってくれるたび、ほっとしていた。三人でいるときは、三人で笑いたかったから。


 彼は匂いのない人だった。夏の暑い日に近寄ってみても、なんの匂いも感じられない。

 やっぱりおばけなのかもしれない。青白い肌の、体温のあるおばけ。ぼくは心のなかで、こっそりそう思っていた。


 半年もすると、彼はほぼ毎日部屋へやって来るようになった。というか、夕方ぼくが帰ってくると、彼が部屋で待っているようになった。


「おかえり」


 ドアを開けた瞬間そう言われると、どきどきした。でもそれは、良いどきどきだった。炊き立てのご飯はおいしくて、目玉焼きもおいしくて、彼は相変わらず、似合わない花柄のシャツを着ていた。


 ある日、ランドセルからテストを出したら、横から見ていた彼に掠め取られた。それは国語のテストで、たまたま百点だった。彼は目を見開いて、高い声で言った。


「すげぇな、お前。将来医者とか弁護士になるんじゃねぇの」


 一年生の百点なんてたかがしれてる。だから父にもテストを見せたことはなかった。実際、クラスメイトのなかには何人も百点がいた。


 自慢することじゃない。恥ずかしいやら照れくさいやらで、ぼくは「ふつうだよ」と言ってみせた。そんなぼくに、彼は真剣な表情で告げた。


「おれ、百点なんて取ったことねぇもん」


 お前はすごいぞ、と彼はぼくの頭をわしゃわしゃと撫でた。それまで見たなかで、一番嬉しそうな笑顔だった。ぼくはまた良いどきどきを味わった。


 彼はぼくを褒めるのが上手かった。だから百点を取るたび、ぼくは彼の目につくところにテストを置いてみた。彼はそれに気づくと、大げさにぼくを褒めた。いちいち大げさな人だった。でもお世辞なんかじゃなく、本気で感心しているのだと、ぼくには分かった。


 彼はいつも、夜遅くに部屋を出て帰って行く。でも一度だけ、うちに泊まったことがあった。


 その日は台風が来ていた。学校は朝から休みで、ぼくが寝転んでだらだらと漫画を読んでいると、彼が訪ねてきた。普段よりもさらに、顔が青白かった。


「台風だから」


 どうしたの、と聞くと、彼はそれだけ答えた。そしてぼくの隣に寝転んで、読んでいた漫画を奪った。大人気ない大人だ。


 それからぼくたちは、口げんかをして、テレビを見て、目玉焼きを食べた。外が暗くなり、風が不気味に唸り始める。父から「電車が止まった」と連絡が来た。彼は険しい表情で外を見つめていた。


 がたがたと窓枠が耳障りな音を立てる。渦巻く暴風の音は、人の怒鳴り声に似ていた。

 突然部屋の電気が落ちて、部屋は真っ暗になった。彼はいきなりぼくをタオルケットにくるむと、その上からきつく抱きしめてきた。大人に抱きしめられるのは初めてだった。だから、とてもびっくりした。


「怖いよな。大丈夫だからな」


 布越しの彼の身体は細くて、くっつくと骨がぶつかって痛かった。でもぼくは黙っていた。本当は、一人じゃないからそこまで怖くはなかった。


「こわいよな」


 彼はくり返しそう言った。ぼくを抱きしめているというより、ぼくに抱きついているみたいだった。身体をよじると、余計に腕の力は強くなった。


 こわいよな。


 ぼくに話しかけているようで、彼は違う誰かに語りかけている気がした。誰に対しての言葉なのかは分からない。でも、ぼくは彼の鼓動と体温を、はっきりと感じていた。

 彼はおばけではなかった。生きている人間だった。その事実に戸惑った。どうしていいのか分からなかった。


 腕を伸ばしてみたけれど、ぼくは誰かを抱きしめたことがなかったから、自信がなくてすぐに引っ込めた。


 日付が変わって父が帰ってくるまで、ぼくと彼は息を殺してじっとしていた。父の顔を見た瞬間、彼はほっと力を抜いた。


 やっと息ができる。

 そう呟いたように聞こえた。




「おれも、ここに住んじゃおうかなぁ」


 彼がそんなことを言い出したのは、出会って一年が経ったころだった。

 その日、ぼくと彼は夕方のアニメを並んで見ていた。彼の言葉に、ぼくの心臓の動きは速くなった。それは、いやなどきどきだった。


「なんか、楽しそうじゃん」


 彼もぼくも、テレビを見つめたままだった。ぼくの喉はからからに渇いて、そばに置いていたオレンジジュースをすすってみたけれど、どきどきは止まらなかった。


 そのころのぼくは、年齢にしては賢い子どもだった。だから、分かってしまった。ぼくのいないところで、父と彼が「そういう」話をしたということが。


 二人がいつ話し合ったのかは知らない。でもきっと、二人はタイミングを見計らっていたのだ。一緒に暮らしたい。そう告げたとき、ぼくが「いいよ」と言うタイミングを。

 

 もう少しぼくが幼ければ、迷わず喜んでみせただろう。でもぼくは、二人の意図に気づいてしまった。


 ずるい。ひどい。仲間外れにされた。

 ぼくのいないところで、大事なことを決めてしまった。


 それはぼくにとって、とてつもなく悔しいことだった。二人と対等の位置にいると思っていただけに、裏切られたと感じた。大事なことを決めるなら、三人がよかった。


 ぼくは大人びた子どもだった。けれど、彼の声が普段より堅いことに気づけるほど、大人ではなかった。


 ——二人で勝手に考えたことに、ぼくを巻き込まないでよ。


 ぼくは意地悪な答えを出した。仲間外れにされたことを怒っているんだと、彼に気づいてほしかった。「ごめんな、勝手に決めて」と、謝ってほしかった。

 でも、そうはならなかった。


「あ、そうだよな」


 彼は、それだけを口にした。そのあとに言葉が続かないことが不安で、ぼくは横目で彼を見た。そして、息をのんだ。

 彼の顔には表情がなかった。からっぽの、輪郭がどろりと溶けた顔。初めて会ったときに見た、ぞっとするようなおばけの顔だ。


 ——目玉焼きが食べたい。


 混乱したぼくは、思わずそう口にしていた。なにかを間違えた。でも、なにを間違えたのかは分からなかった。次の瞬間、彼は元の彼に戻って「仕方ねぇな」と笑ってくれた。


 ガス台の前に立つ彼の横に、台を置いた。すっかり油の馴染んだ、鉄のフライパン。彼は煙の上る黒面に、丁寧に卵を落としていく。

 彼の細い指が目についた。その先端の、きれいな楕円形の爪も。出会ったころは白くひび割れていたけれど、徐々に薄い桃色に変わっていた、彼の爪。


 ——そういうの、女爪っていうんだよ。


 その日、学校で友だちから教わった言葉だった。覚えたばかりの知識をひけらかしたい欲が、そのころのぼくにはあった。褒められたかったのだと思う。彼は褒めるのが上手だったから。ぼくは、得意げに続けた。


 四角くて短いのが男爪。

 楕円形で長いのが女爪。


「そっか」


 彼は小さく笑った。いつも通りの声と、いつも通りの笑い方だった。ぼくはそれで満足だった。卵の端がじりじりと焦げていく。


 父の爪は真四角に近くて、無骨な形をしている。ぼくの爪は、楕円形だ。彼の爪の形が、自分とおそろいであることが嬉しかった。でもそれを口にするのは子どもっぽい気がして、ぼくは浮かれた言葉を飲み込んだ。

 

 彼はぼくが目玉焼きを食べるのを、微笑みながら見ていた。ぼくにとって、彼は外からあたたかいものを運んでくれる大事な人だった。


 そしてその日を境に、彼が部屋を訪れることはなくなった。

 ぼくは百点の算数のテストをしばらく取っておいたけれど、そのうちなくしてしまった。父はまた、静かな人になった。


 鉄製のフライパンで、ぼくは一度だけ、ひとりで目玉焼きを作った。フライパンの面に手を近づけるのが怖くて、高いところで卵を割ってしまった。べしゃりと潰れた黄身は、焼けてもあまりおいしくなかった。ぼくは、彼のように優しくはなれなかった。

 そのうち、フライパンは錆びて使えなくなった。




 医者にも弁護士にもなれず、ぼくはごく普通のサラリーマンになった。

 そして父があと数年で退職、というところで、ぼくには恋人ができた。初めての恋人だった。さっぱりした考えを持つ、ふたつ年下の女の子。彼女との付き合いは、思いのほか楽しかった。彼のことは、ほとんど忘れていた。


 ある日、彼女とのデートの途中で、ショーウィンドウに飾られた花柄のワンピースを見かけた。真っ赤な花びらが散った、派手なもの。


 途端にぼくは、彼のことを鮮明に思い出した。忘れようと努力して、忘れたつもりだったけれど、はっきりと浮き上がった赤は、あの青白い肌を連想させた。


 立ち止まった彼女が、不思議そうにぼくの顔を覗きこんできた。ぼくは呆然としながら、花柄のワンピースを指さし、尋ねた。


 ——ああいうの、どう?


 ぼくが示す先のものを一瞥すると、彼女は首を傾げて答えた。


「柄物って、ほとんど着ないんだよね」


 はっきりとした口調だった。ぼくが彼女との結婚を決めたのはこのときだ。花柄を選ばない彼女を、心の底から好きだと思った。


 こうしてぼくは、家庭を持った。恋人だった彼女は、妻になった。

 あの日の言葉のとおり、彼女が花柄を着ることはない。子どもは今、二人いる。ぼくは冴えない平社員のままだけど、妻のやりくりでなんとか暮らしている。

 妻は付き合っているときよりも、少し言葉がきつくなった。それでも毎日、ぼくに温かい食事を用意してくれる。だからぼくは、幸せなのだと思う。


 初孫を抱いたとき、父は涙を流して喜んだ。


「おれは、幸せ者だなぁ」


 本当に?

 そう聞きたかったけれど、怖くてできなかった。父の表情がなくなる瞬間を見たくなかった。


 お前がそれを聞くのか。


 そう責められるのが恐ろしかった。


 彼は、あのときのぼくの言葉を、父に伝えたのだろうか。これはぼくの勘でしかないけれど、彼はなにも言っていないのだと思う。答えを出さずに笑ってごまかすのが、彼の癖だった。


 父は静かなままだ。穏やかで、口数も少ない。最近、猫を飼い始めたと聞いている。痩せぎすの、灰色の猫だという。


 こいつ、すぐ引っ掻いてくるんだ。


 この前電話をしたとき、父は楽しそうにそう言っていた。

 ぼくはあの日、言うべきではない言葉を口にして、言うべきだった言葉を飲み込んだ。

 ほんの少しの意地悪のつもりだった。それが、父と彼が大切に育んでいた糸を、ばっさりと断ち切ってしまった。


 ぼくの言葉がきっかけではなかったかもしれない。なにかほかに、彼の気持ちを変えるものがあったのかもしれない。

 でも、ぼくは後悔している。自分が幼かったことを。自分が大人びていたことを。今も、ひどく後悔している。


 時間を巻き戻せないことは知っている。だからこそ、何度も後悔する。あの日の出来事を、なかったことにはできない。

 ぼくを巻き込まないでよ。

 あの言葉を、彼はどう捉えたのだろう。女爪だとぼくが評した爪を見つめて、なにを思ったのだろう。


 ぼくといるとき、彼は楽しそうにしていた。騒がしい笑い声を聞くと安心した。ぼくも楽しかった。彼に褒められると嬉しかった。ぼくはなぜ、それを伝えなかったのだろうか。


 彼は絶対にぼくをあわれまなかった。父子家庭の子ども。それだけで同情する大人がほとんどだったのに、彼は真っ直ぐにぼく自身を見てくれた。それがどれほど価値のあることか、大人になった今なら分かる。


 ぼくは彼にもう一度会いたいと思っている。会って、あのときの言葉を撤回したい。

 そんなつもりではなかったと、謝りたい。謝って、楽になりたいのかもしれない。ぼくはとてもずるい人間だと思う。


 いつか、偶然どこかで出会えたら。

 いつか、また話せることがあったら。

 いつか。そんな日は決して訪れないと知りながら、ぼくは彼に会いたいと思っている。


 また、春が来る。行き交う人々の色調が、少しずつ柔らかくなっているのが分かる。

 彼はまだ、「明るくなりたい」という願いを纏っているのだろうか。


 鮮やかな花柄を目にするたび、ぼくは後悔をくり返している。

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花柄のおばけ サブロー @saburo_moon

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