第9話 すみれちゃんという女
瞼をパンパンに腫らしながら、まだまだ太陽が絶好調な時間に帰ってきた俺をみて上野は文字通り腹を抱えてケタケタと笑った。
「さっきまでの凛々しい顔はどこへやったんだい」
蜂に刺されたのか、とか彼女が来なくて泣いちゃったのか、とか漆塗りデートでもして目を触ってしまったのか、とか好き勝手言いながらいいだけ笑う。もうそれはそれは愉快そうに。
もう好きなだけ笑ってくれ、同情されるより笑い話にされるほうが何倍も良い。
これは決して強がりじゃない。本心だ。
ところで、部屋に帰った瞬間から随分室内全体的に湿気が高く、石鹸の匂いがすることに俺は気がついていた。
「……誰かシャワー入ってる?」
「ああ、すみれちゃんが来てる」
本山菫は上野の担当編集者だ。若干変な人だが、上野の小説をここまで軌道に乗せたのは他でもない彼女なのだ。入社四年目にしてここまで出来る人は中々いない、と自慢げに本人が言っていた。
でも何故シャワーに入っているかだけは全然検討がつかない。
「……なんでシャワーに?」
「色々あった。本人に聞いてくれよ」
「なんか聞きたくねえんだけど」
キュッとシャワーを止める音がして、間もなくすみれちゃんは髪から水滴を滴らせたままリビングへ来た。着ているのは、
「げっ、俺のジャージじゃん」
「え、先生のじゃないんですか」
「僕は人に貸せる服は持ってないんだよ」
すみれちゃんはしかめ面でいかにも不満気だ。人のお気に入りのジャージを着ているくせにだ。触れたくはなかったが、どうしても気になってしまった俺は勇気を出すことにした。
「なんでシャワー入ったんだよ」
「……牛乳をこぼしたんです」
意味がわからないな、と思っていると上野が声を上げた。
「違う!わざわざ白いブラウスを来てきて、喉が渇いたから牛乳が飲みたいと言うから出してやったら、さっさと自分に向けてこぼしたんだ。ご丁寧に透けやすいよう、色の濃い下着を着てきた上でね!」
「だって、男の人ってそういうの好きでしょう」
ああ、もうほらこういうとこ。
すみれちゃんは整った顔立ちをしていて、人に聞けば八割の人が美人だというだろう。でも人付き合いをどのように学んできたのか、こういう常軌を逸する怖いところがあるのだ。なんでこの恋愛検定落第点の二人がタッグを組んで恋愛小説を作っているのか、俺にはわからない。
「ところで今朝あげていただいた原稿ですが、直してください。このままでは掲載できませんから」
髪を乾かすと急にすみれちゃんは仕事を始めた。この家は上野の仕事場でもあるわけで、このような打ち合わせもここで度々行われる。二人にはダイニングスペースを使ってもらい、俺はいつもソファで大人しく動画を見たりしていた。
「なぜ?」
「SF要素へ急展開する伏線を感じたからです。この連載は現代日本が舞台の恋愛物で、読者もSFは求めてませんので」
「よくその伏線に気づいたね。でも、最近僕が参考資料としている恋愛の事例にSF的要素が加わったんだ。それでそーいう展開も大いにありかと思ったんだ。恋愛に他の要素が加わることはままあるらしいよ」
すみれちゃんは俺の方へジトっと視線を投げた。
「この連載には加わりません。純粋なラブストーリーとして打ち出しているので、誰もヒロインがコスモロマンに巻き込まれる展開は望んでないんです。SFは次回にしましょう」
「そういって次回が来た試しがないけどね。ああ、僕は自分で自分のモットーを削り取っているような気分だよ。本当は書きたくもない恋愛を描かないと、小説を書かせてもらえないなんて」
言い合いはやや暫く続いた。この論争はしばしば起こるので、俺はもう気にも止めなかった。そのほとんどは上野の書きたいものが満たされない事が原因だ。とはいえすみれちゃんだって売れないものを書かせても仕方がないので譲れない。
俺は携帯で見ている動画の音量を大きくして時が過ぎるのを待つしかない。
ところで。
以前、すみれちゃんに上野が好きなのかと聞いたことがある。それは確かすみれちゃんが胸元の開いた服を着てきて、ハンドクリームを(わざと)つけすぎたからと上野の手に塗り込んだ日だ。
俺は結構意を決して聞いたのだが、すみれちゃんはあっけらかんと答えた。
「そうですよ。先生は魅力的で、顔も良いですし。それに何より私は先生に恋愛をして欲しいんです。そうすれば表現の引き出しも増えるでしょう」
担当編集者の鑑だと思うと同時に、手元の鍵が合わないような気持ちの悪い複雑な心持ちになったのを覚えている。上野が絶対に恋愛感情になびかないことを知っていたからだ。
「では、キャンプに行くという事でいいですね?」
「ああ、いいだろう。ネタバンクわかったか」
「は?何がどうした?」
言い合いの結果、経緯はわからないが次の土日にこの三人で取材を兼ねたキャンプに行くことになったらしい。俺まで巻き込まれたのは、上野がすみれちゃんと二人きりになりたくなかったからだろう。
「じゃあもう今日のところはお引き取り願おう。ネタバンク駅まで送ってくれるかい」
その言葉はすみれちゃんをしっかりと追い返せ、という意味が込められていた。
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