第8話 アップルパイってあまずっぱい
「急にどうしたのー? 珍しいね!」
守田は、おそらく俺が死ぬ前に何十回も見たんだろうワンピースを着ていた。それなのに恐ろしいことに毎回新鮮な衝撃が、岩に弾ける波のように押し寄せる。
俺は死ぬまでにしたいことリストの一つ「守田と駅前で待ち合わせ」が達成できたことで胸がいっぱいになる。ちなみに心の中のリストには守田に関わることだけでもあと千項目以上ある。
守田は大学にいるときよりも発色の好いアイメイクで、湖面を思わせる銀のラメがキラキラ光り期待を誘う。
ああ、もう。
圧倒的に断然圧勝で好き。
言いかけて、葛藤を根気で堪えた。下唇は食いしばりすぎて血の味がする。
もしかしたら死んで生き返っただけかもしれないけれど。
「めっちゃかわいい」
これは堪えられなかった。
死ぬかもしれない!と咄嗟に周りに気を配るが
「ホント?ありがと!」
セーフだった。
死神の線引きとしては告白からがアウトなのか。
サークルで使うスティックを新調したいんだけど、俺ではよく分からないから競技経験の長い守田に教えて欲しい。というのが今回のデートの言い訳。
「今までサークル備え付けの使ってたもんね。やっぱり自分のって欲しくなっちゃうよね!」
巨大なスポーツ用品店の一角に、目的であるマイナー競技の道具はこじんまりと居心地悪そうに並んでいた。守田曰く、この品揃えでも県内では一番いいらしい。
「黒岡くんがマイスティック欲しくなるくらい競技にハマってくれて、私まで嬉しいよ!」
守田の数多ある魅力の一つなのだけど、彼女は本当に競技に真摯に向き合い、それを愛しているのだ。だから、競技の話をすると、ぱっちりとした目の奥がさらにキラリと光る。
好きなものの話をしてる人って、なんて素敵なんだろうと何度も気付かされる。特に守田の話なら、たとえ全く同じ話だって何回でも聞きたい。
「今のでもまぁいいんだけど、もうちょっと重くてもいいかなって思っててさ」
「黒岡くんだいぶパワーついてきたからね。リーチももうちょっとあっても良さそうっていつも思ってた!」
守田がサークル中に俺のことを見てくれていて、そんなことを考えていたって事実だけで泣きそうだった。次々と守田からオススメされるスティックを素振りしながら、この時間がもう楽しくて。イキイキとアドバイスをくれる守田がほんとうに愛しくて。
俺は何度も何度も穴が開いてしまうくらい下唇を噛む。
今日、俺は守田に告白しないって決めてるんだ。
面にカーボンが入っているから、小手先のテクニックには向かないが、きちんと当てさえすればよく飛ぶ、そう守田が解説してくれたスティックを無事購入した。会計を終え、手で重さを確かめしみじみと余韻に浸る。安くはない買い物ってなんでこんなに達成感があるんだろう。
「守田のおかげでいいのが買えた!ホントにありがとう!」
「よかった!これでもっと練習頑張ってね」
「お礼といってはあれなんだけどせ、なんか甘いものでも奢らせてよ」
さらっと言う振りをしているが、家を出る前に五十回以上練習したセリフだ。本番は練習のように、その意識で心臓をひっくり返しながら顔だけは平静を保った。若干噛みましたがなんとか堪えました、と心の実況者が拍手する。
「えー?買い物付き合っただけなのに悪いよ」
「いやいや大事な休日割いてくれただけで本当に感謝だし! 本当に気にしないで!……嫌なら、もちろんこのまま帰るから!」
「んー?じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
心の観客がスタンディングオベーションで大喝采だ。
こんなに望む方向に事が進むなんて異常事態で、脳みそが軽石みたいに透かすかになって足元が不安定にもたつくのをなんとか堪えた。
なんて最高。俺、今日死ぬかもしれない。
違う死んじゃダメなんだって。
守田の甘味への好みは下調べ済みだった。いつこんな日が来てもいいようにと準備しているのだ。日本全国どこの場所にいようとそこから近くて、守田がきっと食べたいと思えるメニューがあるお店を案内できる。
そこまでする?と守田は引くだろうから内緒だ。
木の素材感を大事にした内装の喫茶店。節をわざと残した梁が一本、お店を貫通するように渡されており印象的だった。
入った瞬間にかわいいね、と守田が言ってくれた安堵で肺の空気が全部口から漏れ出る。
店員さんにメニューを渡され、手書きの文字ととびきりおいしそうに撮影された写真を二人でのぞき込む。この店の林檎とバターをベストマッチさせたアップルパイがきっと守田に気に入ってもらえると思ったんだ。
丸い形のツヤツヤしたパイ生地、若干シナモンが効いているところもポイントだ。
「アップルパイ美味しそうだなー」
俺の想定通り、守田はメニューを指さしながら言う。
でもメニューを見ている守田を見て、店内を見渡して、夕日でオレンジに染まった空を見て、あれ、と思った。
何故かアップルパイより、
「まって、こっちも美味しそう。迷っちゃうね」
「好きなだけ迷っていいよ」
「そうだねぇ……決めた。もう店員さん呼ぶ?」
「うん」
なぜか漠然と、無花果のチーズケーキを食べてほしいと思った。
「無花果のチーズケーキを紅茶セットでお願いします。黒岡くんは?」
守田が注文するのを聞いて眉間が熱くなり、鼻がツンとする。
意味もなく視点が定まらないまるで吐く前みたいな危険な感覚。
「あっ、俺は、コーヒーと洋梨のタルトで」
運ばれてきたチーズケーキ、それを見て喜ぶ守田、一口食べて無花果の味がしっかりして美味しいと言う笑顔。
人生の中でも最高レベルの画角のはずなのに、冷や汗が止まらない。
「変なこと聞くんだけどさ、守田このお店来たことある?」
勘違いであって欲しいと思った。
「ううん、初めて」
でも俺見たことあるんだ。
この店で無花果のチーズケーキを食べる守田を。
もしかしてだけど、俺はこの店に守田と来たのかな。決死の思いでデートに誘って、一緒にケーキを食べたのかな。多分、今日よりずっと寒い日だ。鼻を赤くして、あったまりたいからと紅茶ではなくジンジャーラテを頼んでいたんだから。
そして、その楽しい思い出は俺が死んで、無かったことになったんだろう。
「黒岡くん、どうしたの?どこか痛い?顔色が」
心臓が死ぬほど痛いよ。
「いや、大丈夫」
「ホントに?」
俺はひどい顔をしているんだろう。
最悪だ自分から楽しい時間をぶち壊してしまった。苦し紛れに飲んだコーヒーが、ただただ苦くてちょっと酸っぱい。
「何かあったの?」
「……俺、守田に言いたい事があるんだけど、言えないんだ」
絞り出した声は自分でも驚くほど情けなかった。
「それって……どうして?」
「どうしてだか俺にもわからない。でも解決しないといけない事があって、その答えが分からなくて」
「黒岡くん、よくわからないけど。」
俺はびっくりした。
守田が急に両手で俺の右手を取って握ったから。
真剣な顔でまっすぐまっすぐ俺を見るから。
「わたし、答え出るの待てるよ。ずっと、待ってる」
ずるい、そんなの。
握られてるのは右手だけだけど、この瞬間俺の全ては守田の手の中だった。
頭の先からつま先まで誰も俺の命令を聞かない。勝手に胸の奥で生産された言葉が、横隔膜の援護で口元までスピードを乗せて押し出される。
「守田、俺と結婚して」
この言葉はもはや俺の運命だ。逃げられない。
守田、なんで笑ってるの。
守田が何か言っているが、まるで聞き取れなかった。
黒いモヤが守田の右手の小指から鮮明に沸き立つのが見えた。
そのモヤを手繰り寄せ、引き寄せると怒りに満ちた顔の死神が現れる。子供の顔をした死神が両目で俺を睨んでいる。その手を離せと怒鳴りつける。
「嫌だ、俺は守田を離さない」
爆発するような轟音とともに、衝撃、人々の叫び声、守田が俺の名前を叫ぶ。
背後の壁をぶち抜いた車が、見事に俺だけを轢き殺す。
意識が途切れる最後の最後まで、守田と手を繋いだ死神は俺を見下ろしていた。
◆ ◆ ◆
今日起こること全ての記憶を手にして、俺は昼過ぎの駅前にいた。
雑踏の中で守田が来るのを待っていたあの時間に戻っていた。人と人との間から、守田の姿が現れる。
「急にどうしたのー? 珍しいね!」
あの買い物もチーズケーキも守田の中にはカケラもない。だってまだ起こっていない事だから。
俺を見る目と笑顔に、俺は虚無感を覚える。一生の宝物にもなり得るあの出来事は、俺しか知らない、無かったことになったのだ。
思わず声が漏れて、それに押し出されるように涙まで出て。
驚く守田をみて止めなきゃという思いも虚しく、俺は駅前で泣いた。
最高だった日は、最高にイケてない日に書き変わって、終わった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます