第33話 織姫と彦星
上野から電話がかかって来たのは、二人で飲んでからしばらくも経たない夜だった。
家でのんびり莉子とテレビを見ていた俺は、怪しまれながらも慌てて外へ出て通話ボタンを押す。
「どうした!」
「今、すみれちゃんが家に来てたんだ。とりあえず帰ってもらったが……」
「なんで家に?要件はなんだったの」
「その……」
珍しく上野が口ごもる。非常にいやな予感がした。俺は上野のことを友達として最高だと思っているが、彼の根本はクズだとも思っているからだ。
「お前、関係をやり直したいって言われたんだろ。それで押し切られたんだろ」
そもそも二人の関係は押しに弱い上野と押しが強いすみれちゃんという、最悪の組み合わせから始まっていることを思い出す。押しに弱いクズはクズの中でも抜群にたちが悪いのだ。
「ちがう!関係をやり直したいとは言われたが、誓って押し切られてはいない!」
「なら少しは安心したけど……。変わった様子とかはなかった?」
「変わった様子か。……少しやつれてた」
あのすみれちゃんがやつれてる、衝撃を受けると同時に胸が痛むような思いだった。すみれちゃんだって五年以上も上野を思い続けてきたんだ。そこは俺と変わらない。相手がつくづく悪かったのだ。
「なぁ、黒岡君。君に相談したいことがあるんだ。もし可能だったら明日うちに来てくれないか」
俺がそれを承諾すると、通話は終了した。
今まで正直すみれちゃんは強くて動じない人間だから上野と続いていると勝手に思っていたが、きっとそうじゃなかった。すみれちゃんは一途に、いつか報われる日が来ると信じて、気丈然としていないとやっていけなかったのかもしれない。
俺が何度死んだって、心が折れないように必死に足掻いて踏ん張っていたのと一緒なのかもしれない。そう思うと正直今まで苦手意識を持っていたが、あの頃の俺にはもっとすみれちゃんと話したいことが沢山あった気がする。
玄関のドアがゆるりと開き、サンダルに片足だけ突っ込んだ莉子が顔をのぞかせる。
「仕事の電話?今日は晩酌やめとく?」
「いや、上野から。すみれちゃんと揉めてるみたいでさ」
疑われているわけではないが、俺は常に莉子には誠意を見せたいので通話履歴の画面を見せる。莉子はちらりと画面を見たが、特にそちらには気を向けずに内容の方が気になるようだった。
「すみれちゃんと上野くんってまだ関係続いてたんだ?」
少しむっとした言い方から、莉子はあまり二人の関係をよく思っていないようだ。
「すみれちゃんって私たちの四つ年上くらいだったよね?上野君は女性の一番大事な時期を使わせてるってわかってるのかなぁ」
「いやぁ、考えてもなさそうだね」
携帯の画面には日付と時刻が表示されている。奇しくも明日は七夕だった。
今年の七夕の主役はおそらく最低な彦星と織姫になるんだろう。
◆ ◆ ◆
今日も上野の住むアパートは薄暗い中にぼんやりと佇んでいる。彼はこんな安アパートからもっといい部屋に住む財力はあるだろうに、俺とのシェアルームが解消されてからずっとここに住んでいる。
「悪いな、こんな時間に。よく来てくれたね」
チャイムを鳴らすと上野がゆっくりとドアを開けると、その様子があの事件の時と重なりひやりと背中に汗をかく。こわごわと中を覗いたが、今回は部屋は彼なりに整頓されていた上にすんなりと部屋に上げてくれた。あの時とは確実に違う状況にやっと胸を撫で下ろすことができた。ローテーブルの周りに座布団が放られたので遠慮なく座ると、部屋がよく見渡せた。そこかしこにすみれちゃんの部屋着だの化粧水だのが置いてあり、彼女の上野への主張が残っているように感じた。
「それで、すみれちゃんは昨日きてどうだったの」
「実は黒岡君と話したあと、すみれちゃんが来たのは昨日が初めてではないんだ」
上野は口の端の嚙み合わせを悪そうにしながら、言いずらそうにしていた。
「上野、お前、クズなことしてないだろうな」
「それはしてないよ。すみれちゃんは忘れ物があるからって何回か取りにきたんだ。そして来るたびに何度か話をした。そしてね、僕は僕がすみれちゃんを殺した経緯がわかってしまったんだよ」
「それってどういうこと」
「昨日が決定的だった、すみれちゃんに結婚してほしいと泣かれたんだ。僕からの愛情がなくてもいい、今まで通りの自分の片思いのままでいいからパートナーとして傍に置いてほしいと」
「……すればいいんじゃない、最早さ」
「ダメだよ。そんなのすみれちゃんにとって幸せじゃないだろう。結婚は愛してくれる人とするべきだ。君たちみたいにね」
上野には上野なりに結婚に対しての矜持があるらしい。そしてそれは自身は結婚をしてはいけない人間だ、と自虐を込めて言っているようだった。明確で正しい答えを俺は持ち合わせていないけれど、本来結婚なんて自由意志でするものであり、その結論は彼らしくなく頑固で早まったものなのではと思ってしまう。
でも、ここまでこじれてしまった以上、泣き落としで結婚してすみれちゃんが幸せになれるのか、俺には大丈夫と言える自信はない。
「結婚がいやで殺す……ってこと?」
上野が首を横に振ったその時、ブザーのような乾いた音で家のチャイムが鳴ると瞬間彼は肩が揺れ顔を強張らせる。声を潜めて「すみれちゃんがきた」と俺に伝えるが、なにかを恐れているようだった。
「君はここにいてくれ、僕が出てくるから」
言われたわけでもないのに俺は隠れてろと支持を受けたような気がして、音を出さないように細かく頷く。上野は玄関と部屋を区切るドアを閉めてしまったので、ここからその様子を見ることはできないが、声は聞こえてきそうだった。足音が増えて、すみれちゃんが入って来たんだなということがわかる。
「上野先生は……のこと…………した?」
小さな声で二人は何やら話始めるも、ここからでは所々の単語を拾うのがやっとだった。それでも段々すみれちゃんの声には感情が乗り、勢いが増してくる。涙をこらえるような声、荒げるのをぐっと我慢して冷静に務めた声。
「私、こんなに人を好きになったのも初めてで、こんなに長く好きでい続けられたのも初めてなんです。上野先生が私のこと好きになれないこともわかってます。上野先生のこと、誰よりもわかってますもん。……でも、私だってもう三十になります。いまから誰かを、一から好きになんてなれないんです!」
どきっとした。
彼女の必死な思いがすべて詰まった言葉だった。そして上野が言っていた経緯というのが段々と分かってきてしまった。
上野が何か言い返す声が聞こえる。声は至って冷静でどうにかこの場を諫めようとしているのだろうとわかった。言葉こそ耳を立てても拾いきれないものの、先ほど俺に言ったような彼の結婚への価値観を説いているに違いない。でもそれって、すみれちゃんにとっては聞きたい言葉でもなければ、納得できるようなことではないだろう。
「……ほかに、私よりも都合のいい女ができたんですよね」
もう少し声が聞こえればと思い、忍び足で俺はドアに近づく。
「だから、それはないと言ってるだろう。……やめたんだよ、いい加減な関係を作るのは。それこそ、すみれちゃんを不幸にしてしまったと思って。僕だって、僕なりに反省してるんだ。僕みたいなのは一人で生きていくべきなんだよ」
かっこつけやがって。
言葉はきれいかもしれないが、そんなの今更全然だれにも響かないぞ。すみれちゃんのくぐもった、若干うめくような、言葉になり切れない声が聞こえる。もう少し、もう少しとドアににじり寄る。
「どうして、私がいるのに、一人で生きる必要はないのに。こんなの私も先生も一人になってしまうだけなのに」
ゴトッと何か固くて重さのある物がぶつかる音がする。驚いた俺は足元のコードをひっかけてしまい、ケトルが棚から金属の高い音を響かせて落ちた。その音の余韻まで消え去ると、空気は果てしなく冷たく皮膚が裂けるほど鋭くなる。
「……やっぱり、誰かいるんじゃないですか」
「あっ」
騒々しい物音が続き、はぁっとどちらかが息を大きく吸う音が聞こえる。そうかと思うと急に静かになり、何がドアの向こうで起こっているのかわからない俺はその場で固まるしかなかった。ただ、俺の一番恐れていたことが起こっているのでは、何も起こっていないでくれ、とこの予感と反していることをひたすら祈るしかなかった。
「黒岡くん」
ドアが開く。同時に上野の声が隙間から降ってくる。
随分と冷ややかな声だった。
「……なんだぁ、黒岡さんか」
現実は想像を裏切ってくれることはなかった。
玄関は血まみれで足元にはどこから持ち込まれたのか、ナイフが落ちていた。
膝をついた状態のすみれちゃんが、涙のたまった目で俺を見る。
声が出なかった。
「私、早まっちゃいましたね。……でも先生に殺されるなら、本望です」
それが彼女の最期の言葉になった。
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