第32話 差し当って飲み

空気は徐々に湿気をおび、確実にあの夏の夜は近づきつつあった。

物語は俺が決死のダイビングをした時間軸に戻る。


土曜日の夜、長い夜を望む人たちの若々しい活気が繁華街には溢れている。俺と上野のお気に入りの店は、おすすめがチラシの裏に書かれて雑に壁に貼られているような、小洒落た雰囲気とは真逆の居酒屋だった。男ども、とくに中年の男が多数派を占める店内は、それぞれの声が賑やかに混ざり合い誰も隣人へ干渉する気もないようで、個室の居酒屋よりよっぽど気ままだ。昨今ここまでたばこのにおいが混じり合う店もそうない。店員への愛想も全く誰からも求められないからか、注文の取り方もぶっきらぼうに「飲み物は?」と肩肘はらずだ。「生で」「麦の水割りを」と俺たちもそれに習う。


「結婚式ぶりだね黒岡くん。新婚生活はどうだい?」

「最高に楽しいよ。そっちは変わりない?」

「ないね。おかげ様でぼちぼちさ」

はい生と麦、と酒が運ばれ、ひとまず乾杯を交わす。このままお互いの近況報告といきたかったけれど、今日は決定的にしなければならない話があるから後回しだ。

俺は今日あの事件、上野がすみれちゃんを殺してしまうのを止めるために来たのだから。


「単刀直入に言うけど、すみれちゃんと別れて欲しい」

上野がすみれちゃんを殺した動機は俺が覚えている範囲では、というか誰がどうみても男女関係のもつれだった。正直俺はすみれちゃんと上野がまだ関係を持っていることがそもそも驚きだったのだが、それを断ち切るのが一番わかりやすく確実だろうと思っていた。

上野は、は?と短く発するとやや間を開けて、グラスの波紋に視線を向けた。

「ネタバンクまで何言ってるんだ。そもそも付き合ってないから、別れるも何もないだろう」

「は、まじかよ。俺てっきりさすがに付き合ってんのかと。いや、さてはまだ関係は持ってるんだろ」

「それも君の結婚式のすぐあとくらいにやめてるよ。……流石に向こうに申し訳ないだろう。彼女だってさっさと他所で恋愛をするべきだ」

「え、あぁ、そうなんだ……」

どういうことだろうか。もしかすると少し過去の在り方が変わっている影響で、上野とすみれちゃんは関係性を健全に修復することができたのかもしれない。だとしたらこれ以上望むことはないのだが。

「黒岡くん。何かことの本質を伏せたまま話しているだろう。なんでそんなことを急に言いだしたんだい?」

上野には俺が何か言いたそうなのはお見通しのようだった。できるだけ穏便にと思っていたが、そんなこと許さないとばかりに上野は瓶からビールを注いでよこす。俺は改めて周りの卓が大いに賑わい、誰も各々のテーブルの外へ耳を向ける余裕がないことを確認する。

「上野、お前は、いや俺たちはすみれちゃんを殺したんだ。正しくないな、殺すことになるかもしれない」

「ふうん?なるほどな?詳しく聞かせてもらおうか」

「ちょっと説明がめんどくさくなるんだけど……」

俺は一通り思い出せたことの顛末を伝えた。かなりざっくりとした説明だったが、流石の上野はあらかた理解してくれたようだった。前提がわかる人だと説明が楽で本当に助かる。

「時間の逆流は僕たちが想定していたよりも、大規模に起こっていたということか。面白いじゃあないか。そして、僕はすみれちゃんを殺すと。うん、ない話じゃないな」

「さらっとそんなこと言うなよ……。絶対お前が悪いんだから」

「はは。なんにせよ、だ。僕はすみれちゃんを殺したりしないよ。僕たちはもう仕事以外で会ってもいないし。担当も変わったから月に一回会うか会わないかだ。なによりも僕にすみれちゃんを殺す理由がない」

上野はだらだらと適当で曖昧な関係を続けて、すみれちゃんの好意に甘んじて時間を浪費させたんだ。そりゃ上野に非があるだろうと思っていたが、たしかにそれだと逆だ。それだとすみれちゃんが上野を殺したくなる理由であり、上野が殺す理由にはならない。

となると、なにか上野にとって都合の悪いことがあったのだろうか。アリバイの用意をしてまで殺す理由が。

「じゃあなんで上野はすみれちゃんを殺したんだよ」

「さぁな。なにか弱みでも握られたんじゃないか。社会的なスキャンダルで言えば僕にとってすみれちゃんの存在自体が弱みなわけだし」

「だとしたら今も変わってなくない?上野は散々尽くしてくれたすみれちゃんをぞんざいに扱って、ひどい言い方をすれば捨てたわけだろ」

「……あー。まぁ。そうなるか」

となると。これから何かが起こるのかもしれない。上野がすみれちゃんに手をかけなければいけなくなる何かが。


俺が頭を抱えかけていると、上野はお構いなしにグラスを傾け、まだ三分の一ほど残っていた焼酎を飲み干した。

「何かが起こるんだとしたらだ、ここで僕たちで議論していたってしょうがないな。なにか異変を感じたらすぐに黒岡くんに連絡することにするよ」

「うん、そうしてほしい。殺人の片棒担がされるなんてもうごめんだからね」

「はっ。もうしないさ。そんなことより、近況を聞かせてくれよ。君は僕の大事なネタバンクなんだから」


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