第30話 動機といえば?

時間は巻き戻る前に巻き戻る。

なんて紛らわしい説明だろう。つまりは1回目の結婚後のことだ。これでもまだわかりにくい。


とにかく、結婚式から何ヶ月か経った頃。夢見心地な気分は抜けきり、あの楽園のような空気の面影は日常生活のどこにもなくなった。莉子とは同棲してからの結婚だったので、新婚生活もあまり変化はなく、これぞ日常という日々を送っている。


季節は夏に差し掛かろうという頃だった。太陽が沈んだ後も、空気は重く暑くまとわりつくことが多くなってきていた。その日も9時ごろ会社を出ると、すぐにたまらなくなってジャケットを脱ぎ腕にかけた。お腹が空きすぎて気を抜くとコンビニにスナックを買いに入ってしまいそうで、それでは晩御飯を作ってくれている莉子に申し訳が立たないから帰ることだけにとにかく集中したかった。


今日は世間でいう七夕だなぁ、なんて空を見上げたが雲がかかっているのか星の一つも見えない。そもそも、この夜でも明るい現代的な街では天の川なんて見えたことは一回もなかった。


頭を空っぽにしかけた時、カバンの奥で携帯が振動してるのを感じて、慌てて中を探る。仕事でなにかあったのかもしれない。この時間にかかってくる電話で、良いニュースを聞かされることはないだろう。そう思ったが、鳴っているのは会社用の携帯ではなくプライベート携帯だった。表示されているのは登録されていない電話番号。不動産かワイファイのセールスだろう、げんなりしつつ判断して機械的にそのまま切る。こんな時間にかけてくるなんて非常識だ、若干の苛立ちを覚えていると、再度同じ番号からかかってきた。しつこいセールス、それとも間違い電話か。もしかすると本当に用事がある誰かなのか。最悪身内に何かがあって、警察が連絡を取ろうとしているのかもしれない、といろいろな考えが過りしぶしぶ出ることにした。


「……もしもし」

「……ネタバンク!久しぶりだな。結婚式以来かな」

俺のことをそう呼ぶのは一人しかいない。上野の声はどことなく落ち着きがなく、息が荒れているように感じた。

「おう。久しぶり。ていうかなんだよこの番号」

「……携帯をカバンごと落としてしまって。公衆電話からかけてるんだ。それでだな。カバンの場所はわかったんだが、それが黒岡くんの最寄り駅にあるみたいだから持ってきてほしくて」

「はあ?やだよ。自分で行けないの?」

「ああ、鍵も入っているから家から出れないんだ。今、一人で。鍵を開けっぱなしでそこまでいくわけにもいかないだろう」

「えぇー。しょうがないなあ。どこにあるんだよ」


上野の話はこうだった。

駅におき忘れてしまった鞄は幸いにも親切な人に拾われ、駅のロッカーに入れてくれることになった。ロッカーの開錠パスワードを伝えるから、俺はそこから持ち出し上野の家まで届ければいいらしい。

「一つだけ頼みがあるんだ。仕事の都合で至急連絡を求められている人がいるから、鞄をロッカーから出したら今から言う番号にかけて欲しい。そして僕は携帯を失くしているから、連絡が遅くなることを伝えてくれ」

「なんかやることが多いな。脱出ゲームみたいじゃん」

「はは……。確かにな。じゃあ頼んだよ黒岡くん」

言いたいことを言い切ったからか、料金切れになったのかわからないが電話は一方的に切られた。


仕事帰りのやっと一日を乗り切った、この安堵に満たされた時間から友人のパシリというのは、どうも腑に落ちないが親友の頼みだと切り替えるしかない。


莉子にはもう少し帰りが遅くなることを伝え、駅のロッカーを探す。幸いにも指定されたロッカーはすぐに見つかり、鞄を取り出すことができた。見慣れた鞄は大学時代から上野が愛用しているもので、黒い生地は所々白み、くたびれて自立できなくなっている。中から携帯はすぐに見つかった。言われた番号にかけてみたが、コールは鳴るものの一向に相手は出ない。じりじりとしながらコールを聞いていたが、とうとう留守電にも繋がらず切れてしまった。念のためもう一度番号を打ち直してかけてみたが、同じ結果となった。


何度やっても無駄だろうし義理は果たしたと判断し、俺は言いつけの一つ目を諦めさっさと上野へ鞄を届けることにした。

気は進まないが家へ帰るのとは反対の電車に乗る。乗り換え電車の時間を調べると、意外と会社から上野の家は行きにくいことを知り、何をやっているんだろうとため息が出た。この貸しは何らかの形できっちり返してもらおう。


駅を出て上野の家までいく道は、徐々に建物の明かりが減っていき、街灯の間隔も開いていく。シャツが張り付くほどじっとりと背中に汗をかき、対照的に喉はカラカラに干上がっていく。間違っても駅近なんて言えない、家賃の安さが魅力のアパートは暗がりの中に佇んでいた。玄関ライトの頼りない灯りの下に、上野の人影が輪郭を不鮮明に浮かんでいる。敷かれた砂利を踏む音で彼はこちらに気がつくと、やあ、と手のひらを向けた。こんな夜に珍しくキャップを被っていることが若干引っかかる。

「悪いな。こんな時間に」

「ほんとだよ。喉カラカラなんだけど、なんか飲ませてくれない?」

俺は投げるように鞄を渡すと、上野は瞬間的に顔をこわばらせた。

「……いま家に何もないんだ。……そうだ、そこの自販機まで行こう。もちろん僕の奢りさ」

そりゃあここまでわざわざ来たんだ、飲み物一杯ではお釣りが出るくらいの恩だ。自販機のラインナップの中で一番高いのを買わせよう。

歩き出した上野を見て、異様な違和感に襲われる。

何か、気が付いてはいけない何かが間違いなくここには存在している。


「……あっ」

「どうした、黒岡くん?」

「鍵。鍵かけないとだろ。俺せっかく持ってきたんだから」

「あ、あぁそうだった」

やはり上野の様子は変だった。こんなに手際が悪い上野を俺は見たことがなかった。ドアに向き直るものの上野は鞄の中身を探ろうともしない。まるで鞄の中に鍵がないことを知っているかのようだった。俺たちに似つかわしくない、焦げ付くような空気。

「なんか、なんか変だよ上野」

「そんなことない。先に自販機に向かっててくれ。財布を託すよ」

「……俺を家から遠ざけてるみたいだ」

「そんなことないよ」


上野は戸惑いを隠せない様子で、鞄の中身を混ぜた。昔からこいつは、肝が座っているようで全くそうではない。

極端な決断ができる一方で、終始何かに戸惑い怖がる節がある。


「何か隠してる?」

「……いや、なにも」

「なんだよ。ここまでパシっといて」

「何もないと言ってるだろう。それにあったとしても黒岡くんには関係のないことだ」


焦れる空気に嫌気がさして俺はドアノブに手をかけた。予想に反して鍵は掛かっていなかったが、ドアは何かに引っかかって半身分ほども開かない。でもその隙間から、棚が倒れコーヒー豆が散らばっているのが見えて、食器もいくつか割れているのに気づき、そのただ事じゃなさは明らかだった。

「なんだよこれ!」

上野の静止を振り切りドアへ体重をかけて、そのときドアに引っかかっているのはボストンバッグだと気づき、こじ開ける。


唖然とした。胃液が湧き上がる感覚を必死に飲み込むことになった。上野が背後で俺に何か言葉をぶつけているが、耳はそれを受け付けなかった。

だって、目の前のことを理解することで精一杯だったから。ああ、靴の下でザリザリと砂がにじれるのが不愉快だ。


何者かが部屋の真ん中で、その四肢をだらんと床に投げ出しているのが、散乱した物越しに見える。

俺は目をぎゅっと細めて、特徴を拾い上げる。


「……すみれちゃん?」

多分そうだ。手のひらに対して長い指、顎のほくろ、染めたこともないこだわりの黒髪は多分そうだ。

でも違うところもある。度を超えた白い足とか、色を失った唇とか、破けて血に濡れた腹部はとてもすみれちゃんには見えない。何よりすみれちゃんは赤黒い染みの上で大人しく寝ているタマじゃない。

「救急車、呼ばなきゃ」

「……無駄だよ。もう死んでる」

「どういうことだよ。上野がやったの」

「違う。いや、違くないか。そうだ。僕がやった」


すみれちゃんを殺した。上野がすみれちゃんを殺した?

そんなことがどうして起こるというのか?


俺がめんどくさがりながらも親切心からここに来るまで、今日の一連のことが頭に過ぎるたびに、何かに気が付きそうになり、一度ずつ自分の体温が上がるのがわかった。親友に裏切られるというのは、内臓をもぎ取られるのに似ていることを初めて知った。こんなの知りたくなかった。

「よくわかんないけど上野は俺を利用したんだろ。アリバイ工作かなにかに」

「……そうじゃない。黒岡くんが無理矢理ドアを開けなければ君は『何も知らず鞄を届けてくれた親切な友人』で済んだんだ」

「んなヘリクツいうなよ!」

「本当にそう考えていたんだ!」

上野は手で顔を覆い、今にも崩れそうなほど前のめりによろけた。俺は支えようとも思えず、上野が立て直すまでただ目で追っていた。


「……いや、そう、僕は鞄が欲しかっただけなんだ。それは今も変わらない。君は、まだどうにだってできるだろう」

上野はやっと俺の目を見て話した。

何も見なかったことにして、ここから立ち去ってくれ、そう言いたいのだろう。

「君は新婚で、きちんとした勤め先とやりがいが持てる仕事がある。子供とかも考えてるって言ってただろう。守田さんのためにも、絶対にそれが正解だ」

心のグニグニと柔らかく脈打つ部分に爪を立てるような言葉にたじろぐ。上野はそんなこと思っていないかもしれないが、俺には脅しにしか聞こえなかった。

「自首は……しないんだな」

「……しない。大丈夫さ。ミステリマニアの友人にアリバイ工作の方法を考えてもらったんだ。僕の部屋には物取りが入り、たまたますみれちゃんと居合わせた。そして攻防の末殺されてしまった、警察はそう判断する」

「あぁ、そうかよ」


どうしてこんなことになったのか。

俺らはいままで上手くやってきたのに。


もちろん、俺が通報することもできる。でも、どうしても、そうしようと思えなかった。だから上野がどんな表情をしているか確かめることさえ恐れたまま、踵を返して現場から逃げた。正しい行動は何かなど明白なはずのに考えることもできず、物事の分別ができないふりをして俺自身を騙すしかできない。

家で何も知らずに帰りを待つ莉子の顔が浮かぶ。俺はその家に帰って良いのかすら分からないのに。


親友を自らの手で売り渡す勇気がこの時あれば、この先何度も、そう何度も悔やむだろうことだけがはっきりと分かっていた。



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