第8話 出発の前に
それは、空から降りてきた。
「ミレーゼ姫、勝手に動かれては困ります」
皮製のロングブーツがすっと、着地する。ミレーゼ姫を追いかけてきた、騎士ラザレイの到着だ。
姫巫女の護衛であり、エメットの憧れの、対魔騎士でもある。剣を手に、魔物を討伐する、場合によっては勇者に選ばれるかもしれない称号である。
そして、姉と書いて鬼と呼ぶエレーナが、猫をかぶる相手でもある。
「お久しぶりです、ラザレイ様」
鬼が、猫の皮をかぶる。それはどんな化け物だと、想像したエメットの心中は、察するべきだ。
ぎゃーごと鳴く水色ロングの化け猫が、エメットを追いかけてくるのだ。
笑ったな――と。
だが、エメットも、姫巫女ミレーゼ様の前では頼もしい男子を演じようとする、血のつながりはないものの、似たもの姉弟であった。
剣に魔力を込めた一撃は、巨大な岩を一刀両断にするという。ラザレイならばきっと負けることはない。そのように、人々の勇気の象徴となる騎士であった。
人はそれを、勇者という。
「ほら、エメット。勇者って、ああいう人を言うのよ」
「姉ちゃんこそ、姫様の半分でも――」
最後まで、言わせてほしかった。
いや、姫様の半分と言うのも高すぎる望みに違いない。おしとやかさ、上品なる振る舞いに、やさしい笑み。そのどれもが、姉には半分でもマネできるものではない。
エメットの頭が、ずきずきと痛んでいた。
「ふふふ、どうしたの、エメット?」
鬼は、天使の微笑を浮かべていた。
一方、いつものことなのか、姫巫女ミレーゼは、ラザレイと向かい合っていた。
改めて、今後の相談だ。
「姫、まずは賢者様の下へ向かいましょう。いかに秘密の旅路とはいえ、必ずです」
「確かに、古き民が関わるとなると――」
「ミレーゼ………気持ちは分かるけど――
姫巫女ミレーゼと、護衛の騎士ラザレイの意見に、姉と言う鬼も賛成した。一人、勢いをそがれたエメットだけが、不思議だった。
ともかく、まっすぐとベライザ領へ向かうわけではないようだ。旅立ちの準備は、色々あるらしい。
そして、数時間後――
「すっげぇ………これを、一人の力で………」
エメットはまるで小さな頃のように、エレーナのすそをつかんで、歩いていた。
賢者の住まう場所。
そこは、エメットごとき村人が近づくなど恐れ多い、とても神聖な場所だった。ここが王都であることを忘れさせるほど広大な敷地は緑にあふれ、まるで森のようだ。
「長い時間をかけたんでしょうけど、ほら、私たちの開墾と一緒よ。まぁ、ここって本物の森みたいになってるけど………」
エレーナはお姉さんぶりながら、弟をからかう余裕はないようだ。エレーナは、決して自らの才能を過信していない。上には上がいると、はるか高みがあると見せられれば、驚きをもって見上げるしかないのだ。
平然と見えるのは、姫巫女ミレーゼだと思ったが、何か思いつめたようだ。
小声で、エレーナに語りかける。
「ミレーゼ、あんたにしか出来ないことなの。残念だけど、力になれないの」
鬼だと、日ごろエメットが思っている姉をして、どういうことだ。
それは、エメットにとっては鬼である姉も、王国の重鎮からすれば、ただの村娘と言うこと。絶対の存在が、とたんにか弱く見えた。
それは、これから訪れる場所に対する不安を、増大させた。ならば、自分もがんばらねばと、エメットは改めて覚悟を決める。
いや、その時間はないに等しい、気付けば賢者のお住まいが、目の前にあった。
姫が、教えてくれた。
「ほら、あそこよ」
木造だった。
王都の中心であるお城の敷地は、要塞の役割を果たせるように、石造りが基本である。
しかし、ここだけは、まるで雰囲気が異なって、森の中に突然現れた、丸太作りの別荘と言う印象を受けた。
一人暮らしにはやや大きい、魔法の武器の保管場所と、作成場所も兼ねているという。
力を持つエメットには分かる、すさまじい力が秘められた場所であると。
「ここに、賢者様が………」
「そうだ。王国が誇る三賢者の、最後のお一人、アルドライ様のお住まいだ」
驚くエメットに、先頭を行く騎士ラザレイが答えた。
並みの魔法使いとは一線を画す魔力と、それがゆえに、人をはるかに超える長寿を誇るという。生きた年月は二百年とも、三百年とも言われる。歴史に残る三悪王の時代を生き、混乱した王国を立て直した歴史上の偉人でもある。
「エメット、失礼のないように、おとなしくしてるのよ」
エレーナの言葉に、エメットは素直にうなずいた。
エレーナが差し出した手を、弟君は素直に握り返し、手を引かれるままに進む。これで男扱いをしろと言うのは無理と言うものだが、気付かないのなら、仕方ない。
さほど長くない、腰までしかない短い階段を上りきると、ひとりでに分厚い木製の扉が開いた。
音もなく、両手を広げるように、外開きに開いた。
そこには老人が、こちらが来ると知っていたかのように、待っていた。
真っ白のお髭は、古びたローブよりも長いかもしれない、引きずって、転げないか、ちょっと心配だ。
「おぉ~………、よ~来た、よ~来た」
まるで、孫を出迎えた祖父のように、うれしそうな声だった。
恐縮するのが馬鹿らしくなるほどの、人懐っこいお出迎えに、エメットは今しがたの緊張がどこかへ消え去るのを感じた。
あらかじめ説明されていなければ、このご老人が王国の誇る最強の魔法使い、賢者アルドライだなどと、とても信じられなかっただろう。
特に、姫巫女様を幼子扱いするお姿からは、というか、年頃の少女に対して、失礼すぎるのではないかと言うほど、ナデナデしていた。
「お………お久しぶりです、賢者アルドライ………」
珍しく、姫様が引きつった笑みを浮かべている。
七歳の幼子の扱いを、十七歳の現在もされては当然である。エレーナもまた、どんな顔をしていいのか分からないという、面白いお顔だった。
エメットも同じだった。
姫様になにをしやがる。エメットは内心で腹立たしく思いながら、理解する。ミレーゼ姫が乗り気でなかった理由が、これだと。
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