音のある食卓
「ただいま。」
と言ってドアを閉めた。脱いだ靴を並べてネクタイを緩める。少し歩いて、また扉を開ける。
「おかえりなさい。」
と彼女は言った、いつもの光景。いつもの日常。変わらぬこの幸せを護るため、今日も俺は生きている。
夕食が飾る食卓のいつもの席に俺は座る。
彼女も続いて椅子に着く。
向かい合って「いただきます」と口に出し、鶏肉の竜田揚げに甘辛ダレをかけた料理に箸を伸ばす。
「美味しいね。」
と、素直に感想を口にする。揚げたてのそれは、仄かに湯気を上げて、肉を噛むと肉汁が口の中で溢れてきた。
「お粗末さまです。」
と、彼女は口にした。ふー、ふー、と息を吹きかけ彼女は肉を口へと運ぶ。小さなその口に運ばれたその肉が吸い込まれていく。
それから俺達は他愛もない会話をした。仕事の愚痴や小さな幸せの話を。
今日の仕事で小さなミスをして怒られた。と言えば、彼女は慰めてくれた。
今日は綺麗な虹を見た。と彼女が言えば、良かったねと俺は相槌をうった。
食器が空になり
「ご馳走さま。」
と、俺は言った。
「どういたしまして。」
と、彼女は応えた。
それから俺は、2人の食器を流しへ運び、それを水が張った桶にいれ、買ったばかりのスポンジで、1つ1つ洗っていく。
キュッと皿が音をたてた。
「一緒になろう。」
と、声に出さずに口にした。その言葉は喉を通り腹へと納まる。
「良いよ。一緒になろう。」
と、後ろから彼女の声がした。きっと声にもなっていたのだろう。
俺は泣いた。自然と涙が溢れてきた。
彼女の手が背中から回って結ばれた。
彼女は嬉しそうに泣いていた。
良く泣く人だとは思っていた。一緒に映画を見ては、彼女だけが泣いていた。哀しい映画、楽しい映画、ハッピーエンドの大団円。どれも隣の彼女は泣いていた。
どうして泣くの?と聞いた時
「自然と溢れてくるの。」
と、彼女は言った。
今は彼女の言葉がわかる。自然と涙は流れてくるのだ。
さめざめと俺達は泣いていた。音もしない涙の雨は降り続け、桶に張った水に波紋を描く。彼女の手の甲にそっと自分の掌を乗せた。
きっと俺達は別の理由で泣いていた。彼女の腕の締め付けは強くなる。背中に当たる乳房が押し付けられて、彼女の涙で俺のシャツは濡れる。
蛍光灯に照らさせたこの部屋に、茜色に染まった物は1つもない。だから大丈夫だと自分に言い聞かせ、彼女を強く抱きしめた。
「こうしているのも何だから…」
と、彼女を風呂場へうながした。彼女の背中が扉の奥へと消えた時、俺は力が抜けて崩れ落ちた。
これは夢ではない。
彼女は妹ではない。
手は血に濡れていない。
だから、これは現実なんだと言い聞かせた。消えた彼女の行く先を、今は見つめることしかできなかった。
泣き止んだ。彼女も浴槽で顔を洗っているだろう。
彼女はまだ出てこない。待っている合間、俺は後悔にさいなまれる。茜色の光景は、徐々に背後に迫ってくる。
あの日、あの時、あの夕時。妹が何も語らなくなる前までの、あいつと交わした約束と、この手に抱いた感触は、今でも思い出す事はできる。
「愛している。」
とは口にした。
「いつまでも一緒だ。」
とも口にした。
それが当時の本心であった事は、嘘偽りのない真実として、脳細胞に余すことなく刻み込まれているのだが、今この手に残る感触が、身体の細胞1つ1つが、明日も生きろと叫んできては、俺を茜色した思い出から蛍光灯の白い光の現実へ、引っ張り上げては突き放す。
「空いたよ。」
と、彼女は扉を開けて言ってきた。
「俺も入るよ。」
と、口にした。上手く声にできたかわからないけれど、逃げるように浴槽へと足を進めた。
風呂から上がり、そのまま彼女と寝床を共にした。一緒に入った寝室で、一緒に服を脱いで、一緒にベッドに入り、抱き合った。
「愛している。」
と、何度も彼女に語りかけた。茜色の記憶を塗りつぶす為に、何度も何度も口にした。
彼女は悲しそうな顔をする。それは決まって相手が辛い表情をした時だ。俺の顔はさぞかし歪んでいたのだろう。
愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している…
馬鹿みたいに繰り返す。それでも茜色した思い出は、瞼の裏に張り付いて、つぶやく度に色濃くなっていく。
妹と同じ目をした彼女は、耐え切れもせず、逃げることも叶わずに、見捨てることも考えもせず、きっと同じような結末を迎えるのだろう。
それでも俺は、あいつとの約束を反故するために、彼女がどうしても必要なのだ。死なない言い訳が必要なのだ。
死ねば楽になれる、と心は求める。それでも生きろ、と身体は言う。死という甘美な匂いに導かれ、だけど生きたいと喘ぎ泣く。
私利私欲。他人を巻き込み犠牲を出しても、俺は生にしがみつく事がやめられないのだ。
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