006.ただの水


「――――という事があって、これはこういう公式になるんですよ」

「ふむふむ…………」


 本永さんがここに来るようになって、はや数日が経った。


 彼女があの日、深浦さんに勉強の教えを請うてから、2人は毎日放課後ここへ足を運ぶようになった。

 学校を辞めさせられるという危機感は本物のようで、ここに来てからも談笑から始まることはなく、真面目に勉強をしている。

 カウンターからほど近いテーブルで勉強しているため俺からもその様子が伺えるが、確かに深浦さんの学力は本物のようで問われた質問に対し的確に解説を挟んでいた。


「それじゃあ、この問2もおんなじ方法で解くんだね!」

「いえっ、これはですね……aから始まらずに1から始まってるので2分の――――」

「えぇ~……」


 ところで今日は一段と唸っているけど、二人とも一体何を…………うわっ、数列の公式だよ……。

 あの学校の高2ってこんなとこまで進んでるのか……。


「そっかぁ……じゃあこうやって2分の……」

「待ってください! そこは2乗されてるので公式は6分の――――」

「えっと……じゃあこうやって…………」

「あっ!そこもまた別の公式が――――」

「あ~! もうっ! わかんないよ~!!」


 次々と出てくる公式の山に、彼女の脳はオーバーヒートを起こしたようだった。

 手にしていたシャーペンが空を舞い、背もたれに思い切り寄りかかった反動で椅子が後ろへ倒れかかる。

 2本足で立っていた椅子が4本足に戻った衝撃で、ガタンッ!と大きな音とともにその身体はノートの上へと覆いかぶさる。


「数列がテストの山場なんですから。 ここ取らないと点数伸びませんよっ!」

「分かってるけどさ~……公式が多すぎるんだよ~……」


 わかる。

 当時習ってたけど数列とか最悪だった。シグマ記号を見るだけで脳が考えるのをやめてしまう。


「マスター! 注文い~い~!?」

「本永さんっ! まだ問題の続きが……」

「残ってるけどぉ…………2時間もノンストップだと疲れるよ~」

「ぁ…………」


 どうやら深浦さんも教えるのに熱が入っていたようだ。

 差す指につられて視線を時計に向けると、その時間の進みに気づいたようで小さく息を吐いて言葉を失ってしまう。


「はいはい注文ね。今日もいつものパフェか?」

「ん~んっ! 今日はシュコウを変えてコーヒーにしようかなって!」

「……これはまた」


 まさかの注文に俺も目を丸くする。


 彼女はこの数日、ここに来るたび休憩ではパフェを頼んでいた。

 チョコやいちごなど、その中身は気分によって変わっていたがまさかコーヒーに手を出すとは。


「なんだろう……よくわかんないけどこのブレンドってやつで!」

「いいのか? だいぶ苦いが……」

「その時は砂糖ドバドバ入れるから大丈夫!」

「そうかそうか……。 じゃあお試しってことも兼ねてコーヒー代はサービスだな」

「いいの!? わーいっ!やった~!」


 まだ高校生でコーヒーを嗜むには早いが、こうやって飲もうとしてくれるのを目の当たりにすると嬉しいものだ。

 内心嬉しく思いながらカウンターに戻ると、そこには学校の制服ままの深浦さんが、コーヒーに必要なものを取り出していた。


「まだ業務時間じゃないんだし、俺に任せてもらってもいいんだよ?」

「いえっ、ちょっと今熱入っちゃってなにかしていたい気分なので…………。 よければコーヒー作り、私に任せてもらえませんか?」

「いいけど…………わかるの?」

「はい! マスターが作られてるのをいつも見てたので!」


 きっと勉強していてるうちにアクセルが掛かって、居ても立っても居られない気分なのだろう。

 手元を見ても準備されてるのは過不足無いし、問題なさそうだ。


「じゃあ、おまかせしようかな」

「はい。 マスターもお飲みになりますか?」

「うん。 お願い――――」

「マスター! ちょっとい~い~!?」

「―――っと、ごめんね。 ちょっと行ってくる」


 いくら勉強しに来てるといえど、お客様に呼ばれちゃ行かなきゃならない。

 俺はこの場を深浦さんに任せて向かうと、本永さんはこちらに大きく手を振りながらいつもどおりの笑顔を振りまいていた。


「なんだ? コーヒー作ろうとしてたんだが」

「え~?お話しよ~よ~! コーヒーはレミミンが作ってくれるんでしょ?」

「聞こえていたか……。 そうだが、なにせ初めてなもんで心配でな……」

「大丈夫だよっ! アタシ、よっぽどのものじゃなければ飲めるし!! 最近レミミンも頑張ってるんでしょ?」


 まぁ……たしかに。 彼女の最近の躍進は目まぐるしい。

 毎日の勉強会が終わってからバイトの時間は掃除だけに留まらず、俺の調理やコーヒー淹れなどを見て覚えようとしていた。

 まさに抜くことを知らない努力の鬼のようで、なだめようとも思ったが彼女が楽しそうだったから何も言えないでいる。


「それでさぁ……一個マスターに聞きたいんだけど……」

「ん?」


 向かいに座った俺へ内緒話をするように、彼女は前のめりになりながら話しかけてくる。


「なんでレミミンってここでバイトしてるの? 何ていうか……すっごく辺境なとこだよねここ」

「あぁ……。それが俺にもよくわからなくてな…………」


 たしかに、ここに通ってるなら嫌でも気になるよな。

 俺も、なんでこんな世捨て人の運営している喫茶店で働こうと思ったのか不思議でならない。


「えっ、聞いてないの?」

「頑なに話そうとしなくってな。 当時バイトの募集してないのに来て、信用ならないって言ったらスマホのデータ差し出す始末で……」

「うっわ……マスターってばあんないい子に信用ならないなんて言ったんだ…………」

「…………」


 気にするとこそこ? そりゃ初対面だったし。

 でもこうやって数日経つと、すごく努力家でいい子だというのは嫌でも理解できた。

 それこそなんでここに来たのか疑問が加速するほどに。


「それより、2人の学校での様子はどうなんだ? 話すようになったのか?」

「ん~……まぁまぁかなぁ。 レミミンって学校じゃ大人しいから……」

「? もしかして……深浦さんには友達居ないとか?」

「いや、いるよ。 いるんだけどね……なんだか壁があるというかなんというか…………」


 はぁ、壁。

 っていうとなんだ?学校とではキャラが違うと?


「何ていうかね、レミミンってばガッコではオドオドとしてるか冷たい感じなんだ。少なくとも今みたいじゃないかなぁ」

「というと?」

「今はほら、自分のしたいこと言ってるじゃん。さっきのコーヒーみたいに。 でもガッコで自分から動くことは無いかなぁって感じ」


 ほう……。


 でも確かに、思い返してみればここに面接に来た第一印象はそういう感じが無かったわけでもない。

 緊張してるのかと思ってその記憶も消え去っていたが、あれが彼女の学校での様子なのだろうか。


「ま、アタシとしては今のレミミンのが好きかな~。 だって勉強教えてくれる――――」

「――――はい、コーヒーできましたよ。 …………何の話してたんです?」


 ふと声のする方に二人して目を向ければ、お盆に二つのカップを乗せた深浦さんの姿が。

 彼女は心なしか少し冷たさの感じる視線を、本永さんに向けてくる。


「お~!ありがと~! なんにもないよ~!ただレミミンが可愛くって好きだな~って話ししてただけ~!」

「――――っ! ………そ、そうですか……。」


 しかしさっきの冷たさの含んだ視線がどこへやら。何も気にしていないような本永さんの言葉によって一気に氷解される。

 もうコーヒーできたのか。はやいな。


「はい、マスターもどうぞ」

「ありがと…………って、おい!砂糖入れずに飲むのか!?」


 俺もカップを彼女から受け取ってチラリと正面に目を向けると、そこには本永さんが砂糖をも入れずにカップを傾けていた。

 呼び止めるのも時既に遅し。喉を何度か鳴らし傾けたカップを戻した彼女は、目をパチクリさせながら深浦さんを見る。


「お――――おいしいっ! レミミン、これ美味しいよ!」

「そ、そうですか…………?」

「うんっ! 思ってたよりスッキリして飲みやすくて……なんだかゴクゴク行ける感じ!!」


 そう言って彼女は有言実行のごとくゴクゴクと口に運んでいき、あっという間にカップの中身が空になる。


 …………おかしい。

 確かに美味しいと言ってくれるのは嬉しいが、甘味大好きの女子高生がそんなゴクゴクと飲めるとは思えない。

 ブレンドは俺の好み、苦味に特化したものだから初心者には辛いはずだ。


 そんな彼女の様子に疑問を持ちつつ、俺も手渡されたカップを恐る恐る口に運ぶ。


「――――! これは…………」

「ど、どうですか? マスター?」

「深浦さん、ちょっと……」


 彼女に続くようにカップを傾けると、そのわけが全て理解できた。

 俺は彼女を連れてカウンターへと向かっていく。


「美味しくなかったですか……?」

「美味しいというかなんというか…………水だった」

「水……?」


 そう、水。

 ほとんど味の出ていない、ただ黒いだけの水だった。


 コーヒーというのは挽いて、お湯を注ぐ時に一度蒸すことが大切だ。

 いつもその時間は彼女との雑談タイムになっていたから、きっとあれも工程の一つだとわからなかったのだろう。


「とりあえず豆を蒸すことから…………いや、教えるからちゃんとイチから覚えようか」


 俺は彼女にイチからコーヒーの淹れかたを享受してく。

 その熱意から、何でもかんでも吸収して俺の立つ瀬がなくなると思ったが、そんな彼女でもいたらないところはあるんだなと、内心ホッとしながら彼女と一緒にコーヒーを淹れ始めた――――。




 なお、もちろんのこと二杯目のコーヒーを飲んだ本永さんは、一口目で泣きながらドロップアウトしたのだった。

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