第十九話 家族
「古谷さん!」
その声に全身の痛みを感じながら顔を向けた。
「逃げてなかったのか?」
「そんなわけありません!早く行きましょう」
雪野の手を借りてなんとか体を起こすが、動くたびに神経に響く。右腕や背中は特に酷い。
あたりを見回す。視界には雪野の両親の他に、まばらに魔物の姿が映っている。目先の体育館はひどい状態で、いつのまにか増えた二体が人々を捕食している。
その惨状は一ヶ月前の光景を思い出させた。
「……今のうちですよ」
雪野はその言葉を囁く。後方の山の方には敵の姿はない。……今の俺にできる最善の行動をするんだ。
「ああ……肩を貸してくれないか」
「それなら、僕に任せてくれ」
雪野の父が駆け寄り、支えてくれる。
「向こうに真っ直ぐです」
「わかった」
その返答を合図に、俺たちは進み始めた。後ろを気にしている余裕はなかった。
日が落ちてきた夕方、相変わらずの荒んだ眺めの中を歩く俺たちは、敵の場所からはだいぶ離れることができていた。
しかし、俺の足のこともあり、今日中にはエリーとの合流場所に辿り着けそうにはない。
ひとまずの休憩地点を探す。
「本当に、誰もいないんだな……」
右隣で俺を支える雪野の父が呟く。
「僕たちはあの謎の光の後すぐに、奴らに襲われたんだ。その後の街の状態は一切分からなかったんだが、まさかここまでとは……」
「お父さんたちは、神社に行ってたんだよね」
「そうよ……命があるだけ、不幸中の幸いかしらね」
これだけのことがあって、希望を見出せないのは当たり前だった。寄り添って伸びる俺たちの影は、怯える小動物のように小さく見える。
ここから、どうすればいいのだろうか。エリーが、俺たちを本当の意味で救ってくれるのだろうか。
たった一人の人間にそんな力はあるのだろうか。思考がどんよりと染まっていくのを感じながら、前方に未だ形を保っている建物を見つける。
「あそこで、一旦休憩しましょう」
「ごめん……」
優しく語りかけてくる雪野の目は、まだ輝きをなくしていなかった。
建物に足を踏み入れる。中は多少荒れているが、全く問題にはならないほど。
窓から覗く風景とのギャップは、この状態の方が間違っているのではないかと、そう思わせるほどだった。
雪野の父は部屋のソファーに俺をおろすと、そのまま隣に崩れるように座る。疲れているのは俺だけではない。
二人とは対照に、女性陣は中の探索を始めた。主な目的は食料関係だろう。
「食べ物は十分にあるよ」
「こっちも、水を見つけたわ」
すぐに成果が上がった。俺はダンボール作戦のために物資を持っていなかったので幸いだ。
すぐに食事に移った。内容はやはり缶詰などの保存食品。食べ飽きたものばかりだが、食べられるだけありがたいと思いたい。
それに今回は、雪野の両親がいるのだから。彼女らにとっては久しぶりの家族での食事だろう。
「雫、これまではどうやって生活していたの?」
母の質問に、雪野は微笑みながら答え始めた。食事中に語られたのは、これまでのお互いの苦労や、エリーのこと。そしてエリーから教えられたこの世界のことについて。
雪野は嬉しそうに、久しぶりに実家に帰ってきた若者のように喋った。そしてそれを神妙な面持ちながらも、微笑みを絶やさない両親。
雪野にとっては気の許せる相手との、甘えられる存在との再会。両親にとっては、愛しい我が子との再会。たかだか一ヶ月の時間だが、それはたくさんのことが詰まった一ヶ月。
それでも、お互いが感動を覚えるには十分だった。
そんな光景を俺はあまり口を出さずに見ていた。彼女の努力が、ひとまずは報われたことに安心しながら。
その夜、雪野は両親に挟まれながら、確かな安全を感じながら眠りについた。それほど心の安全が保たれる場所は彼女にとってそこ以外にないのだ。
「ふぅ……」
ある程度回復した体を起こし、窓際に向かう。
この世界の赤い空は、完全な暗闇をもたらさない。夜でもある程度の明るさはあり、景色は普通に見渡せる。
先程エリーが魔物を放ったが、こちらの方には来ていないみたいだ。おそらくもう一度捕らえられたのだろう。
そういえば、エリーはちゃんと逃げ出せたのだろうか。逃げ出せたとして、俺たちを探しに行ってはないだろうか。
まあ、考えても仕方がない。ここは期待するしかないのだ。
そうして代わり映えのない外の様子を眺める。聞こえるのは一つの家族の寝息だけ。
ソファーに用意してくれた毛布を掴むと、それで体を包んだ。
昼と違って、夜は結構冷える。気温差が大きいのだ。
そうして心地よい暖かさを感じながら、変に感傷に浸る夜を過ごした。
街ごとすれ違い転移 ─異なる世界に住む二人は、互いの世界に転移する─ Shimoma @Shimoma
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