短編その六 としよりの冷水

 皆さんは『としよりの冷水ひやみず』という言葉をご存知でしょうか。


 としよりの冷水

 ——老人に不相応な危険なことや、さし出たことをすることのたとえ。その失敗をひやかしたり、戒めたりするときにいう。(角川古語大辞典 第四巻より)


 この【冷水】には諸説あり、冷たい水を浴びる、冷えた水を飲む、冷えた砂糖水を飲むといったものがあります。

 寒い時期の入浴で起きやすいヒートショックという現象で亡くなる老人も少なくない事から、【冷水】を浴びるのは危険だとわかります。

 【冷水】を飲むことが老人にとって危険だと言われてもピンと来ませんよね。最近は常温水や白湯さゆが体にいいと言われていることは皆さんも目にしたことがあると思います。江戸時代にも老人には湯冷ましが良いと言われていたそうです。


 老人はまだまだ自分は大丈夫、と思いがちです。経験や技術などがある分、能力の衰えに気づかないのです。そして、軽微なミスや見落としをしていることに気づく能力も衰えているのです。

 わかりやすい例としては、車の運転です。ウインカーを出さずに曲がる、ウインカーが付きっぱなしで走り続ける高齢者ドライバーを見かけることは少なくありません。

 それらは衰えの警告なのですが、気付かなかったり、考え事をしていたとか話しかけられていたからとかの言い訳をしてしまいがちです。それでも、殆どの方々は幸いなことに、大きな事故を起こさずに生涯を終えます。



 さて今からするお話は、不幸にも大きな事故を起こしてしまった老人の末路です。


 彼の名前はそうですね、松本まつもと時雄ときおさん(仮名)としましょう、事故当時は72歳でした。おや、想像していたより若いな、と思った方もいるかもしれませんね。認知機能は50歳頃から低下し始めるらしいですよ、気を付けてください。

 さて、この松本さんはもともと一時停止を守ることが少ないドライバーでした。停止線の手前で軽く減速して、車や人が見えなければそのまま交差点を通過する運転を繰り返していました。

 一時停止を守らないというのは当然、危険な行為なのですが松本さんは”今まで大丈夫だったから”自然と危険の認識が甘くなっていました。信号のない交差点での事故は概ね25%、4件に1件とかなりの割合になっています。


 ある夏、盆休みに帰省した息子さんが松本さんの運転する車の助手席に乗った時のことです。ヒヤっとする運転だったため「親父の運転は危ないから、帰りは俺が運転する」と言いました。

 松本さんは「お前より安全だ」と怒り、帰りの運転も譲りませんでした。自宅に着き、駐車場へ車を入れる際に松本さんは車を軽くぶつけてしまいました。それを「息子があんなことを言ったから」と息子さんのせいにしました。


 きっと、読者の中には運転のことではないが「分かる」「似たようなことがあった」と思った方もいらっしゃることでしょう。


 あんな運転ではいずれ事故を起こしてしまうと心配して、息子さんは免許返納を勧めました。


 ここまでお話をすれば察しの良い方は当然、免許返納は受け入れずに一時停止無視で事故を起こしてしまったんだな、と考えが至っているでしょう。その通りです。その上、最悪なことに”ブレーキとアクセルを間違える”という事をやってしまったのです。

 相手は自転車に乗っている同じくらいの年齢の方で、重傷となりました。事故の後しばらく昏睡こんすい状態で、その後お亡くなりになりました。松本さんもアクセルを踏んでしまったことで塀に激突し、怪我をして下半身麻痺まひとなってしまいました。


 そこからしばらくご家族含め非常に大変であったことは言うまでもありません。息子さんには「だからあの時言ったのに」と、怒りと呆れが混ざった感情が湧いていました。

 交通事故の結末としては、不起訴で実刑にはなりませんでした。しかし、72歳で下半身麻痺となり介護が必要となってしまった松本さん。家族としては「自業自得だ」と面倒を見たい気持ちになりませんでした。

 そこで老人介護施設に入所の運びとなり、余生を過ごすこととなりました。松本さんは毎晩のようにうなされて、しっかりと寝られない日々が続きました。それが原因で、周りの人たちに八つ当たりやセクハラをするようになってしまいました。


 困り果てた施設は松本さんの家族に相談をし、睡眠導入剤すいみんどうにゅうざい抗精神病薬こうせいしんびょうやくを松本さんに使うようになりました。すると、松本さんは眠れるようになり、八つ当たりやセクハラをしなくなりましたが、今度は無気力むきりょくになってしまいました。

 そのため施設は薬の量を減らすことについて松本さんの家族に相談をしました。しかし、前のようになって人に迷惑をかけてしまうのは申し訳ないからそのままでお願いをします、が家族の返答でした。


 こうして、いわゆる”薬漬くすりづけの無気力老人”が誕生しました。


 松本さんは無気力になっていく途中「あの時俺も死ねていれば」「息子の言うことを聞いておけば」と後悔の様な言葉を口にしていました。薬の影響でうつっぽくなっていたのかも知れませんが、案外それが強がりの裏に隠された本音だったりするのでしょうか。

 80歳を迎えた最近の松本さんは、よだれの量が増えてきているそうですが、飲食でむせることはなく健康診断の結果も良好です。まだまだ元気で長生きするのでしょうね。

 薬の影響で便秘になってしまったため【冷水】を飲むことで、下剤を飲まずに排便を促されているとのことです。便秘の解消法として有名な方法ですが、皮肉にも『としよりの冷水』と矛盾するところがありますね。



 『としよりの冷水』と言われる失敗はまだかわいいもの。

 身近な人から注意や忠告をしてもらえているうちに耳を傾けて話を聞いてみる。それは年齢に関係なく大切なことでしょう、なかなかに難しいことですけどね。



 これで、ある一件から家族に見放されて薬漬け老人になった松本さんのお話は終わりです。最後までご高覧こうらんいただきましてありがとうございました。




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