短編その七 食べて生きて、食べて死んで

 母の葬儀そうぎが終わり高齢者施設から引き取った荷物を整理していると、一冊のノートが出てきた。見覚えのないそれは、母が施設に入ってから書いたものだろう。

 元気だった頃の母の綺麗な字とはかけ離れた崩れた字だが、自分の想いを残したい一心で書いたのであろう。


 僕は生前の母のことを思い出しながらノートを読んだ。



―—————


 小さい頃ね、しっかり食べないと大きくなれないよってお母さんが教えてくれた。たくさん食べると「偉いね」って褒めてもらってたの。だから、私は食べる事が好きになった。


 私は小学生の頃から他の子よりも体重が多かったの。それでもお父さんもお母さんも、私のことを可愛いって褒めてくれた。たくさん食べる私の姿を見て、嬉しそうにしていた。

 中学生になって、少しだけダイエットをした。好きな男の子ができたの。でも、その男の子は私じゃない子と付き合ってた。私はショックでまた食べたの。

 食べていると幸せで落ち着いて、でもお腹はいっぱいなのに満足できなくて食べ続けてしまう、変な感じだった。それでも食べる事は私の生きがいだったの。しばらくしたら食欲も体重も落ち着いた。


 私は人生の大半をぽっちゃりで過ごした。高校を出て、就職をした。同じ会社の人と付き合ったの。少しでも綺麗だって言われたくて瘦せようと努力した。でも、彼が「今のままでもいいんだよ」って言ってくれて甘えちゃった。


 彼との結婚を機に寿退社をした。すぐに赤ちゃんができたの。お医者さんからはこれ以上太らないように言われたの。我慢してたらストレスがすごかった。両親が「お腹の子どものためにも食べなきゃね」って。そして私は、妊娠糖尿病にんしんとうにょうびょうになったの。

 それからは入院して、満足に食べられない日々が続いたの。すごく辛かった。生きるために必要な量って、こんなにも少ないのってショックだった。


 入院のおかげで私は無事、出産できた。でも、糖尿病は治らなかったの。でもね、糖尿病になったからって何も変わらなかった。痛いとか、辛いとか何もなかったの。

 お医者さんは「このままにしておくと危険ですよ」とか脅してきたの。でも、好きに食べても何かの数値が悪くなるだけで、体は悪くならなかった。

 数値が悪くなったらお薬出してくれて、数値が少し良くなった。お薬で良くなるなら、別に何も問題ないじゃないって思ってた。


 その頃から夫が「食べすぎは体にも病気にもよくないよ」って言い始めた。前は「幸せそうに食べる君が好きだよ」ってあんなに言ってくれたのに。

 結婚前よりも、出産前よりも、出産後よりも、どんどん太っていった。太りすぎた私を見て幻滅したのね。体とか病気を引き合いに出して、夫は私がみにくく太った事を責めた。

 否定されて、責められた私はまた食べた。夫の言うことなんてもう聞かない。それから、悪くなって薬が増えて、インシュリンを打つようになった。


 ある日、中学生になった息子が授業参観がある事を私に言わなかった。パートをしていた私を気遣ってくれたと思った、優しい子ねって。「忙しくても行くから、次からは教えてね」って伝えたの。「今のお母さんはバカにされるから来ないで」って返ってきた。

 息子まで私を否定した。お腹を痛めて産んで、糖尿病になったのはあなたのせいなのに、どうしてそんな事を言うのって思った。


 何年か経ったある朝、起きたら目の見え方がおかしかった。急いで病院に行ったけど、手遅れで片方の目が全く見えなくなったの。糖尿病のせいで網膜中心動脈閉塞症もうまくちゅうしんどうみゃくへいそくしょうになったって、動脈が詰まったとか言われてもわからなかったし、見えなくなったことがただ辛かった。

 それなのに、残りの目もこのままだと見えなくなるって脅された。目が見えなくなるのは困るし嫌だから、糖尿病を治すために入院したの。入院したら糖尿病は治らない病気だって言われた。みんな嘘つき。

 リハビリも辛くて、一生懸命に頑張っているのに「頑張ってください」なんて言われるの。これ以上どう頑張るって言うのよ、食事も少ないし、お菓子も食べられないし、つらい運動も頑張ってた。


 二週間も続いた地獄の入院生活が終わってしばらくしたら、膝がとても痛くなってきた。入院で辛い思いをしたから、そのせいだと思ったの。病院に行ったら「体重を落とすのが効果的です」って。

 膝が痛いからトイレに行くのが辛くて、ジュースを飲む量を減らした。そうしたらちょっと痩せたの、嬉しかった。喉が渇いてもジュースをなるべく我慢したら、痩せてきていたのに脳梗塞のうこうそくになったの。


 最悪だった。左側半分が麻痺まひして動かないしピリピリとずっと痛いの。おまけに、左足の指の三本が、細胞が死んでるから切らなきゃいけないって言われた。

 糖尿病が落ち着かないと手術すらできないからって、入院が長く続いた。やっと手術して、指が2本になった足も落ち着いた。無事に退院して家に帰る日に、突然この施設に連れてこられたの。

 私には何の説明もなく、夫と息子は高齢者施設に入れることを決めていた。片目の視力と足の指、それと左側の感覚を失った私は家での生活も失ったの。


 施設に入ったら、私だけ塩気しおけの薄い特別メニューだった。私の腎臓はもう殆ど機能してなくて人工透析をしなきゃいけないくらいだから、夫がそのメニューにしてくれって。そう管理栄養士かんりえいようしさんが教えてくれた。

 余計なお世話だって思ったの。こんな体になって、もう少ししたら残りの目も見えなくなって、体がこんなに辛いのに。好きなものを好きに食べられないなんて嫌だ。


 私は私の好きなように食べたい。お好み焼きが食べたい。たこ焼きが食べたい。焼きそばが食べたい。パスタが食べたい。ラーメンが食べたい。好きなものを、好きな時に食べたい。そう訴えたの。

 私の願いは叶うって。毎食は無理だけど、冷凍食品を用意して食べたいときに食べる事は出来るって。その代わり、「死ぬのが早くなるかもしれない」って言われた。

 

 どれだけ生きられるかわからない。食べたいものを我慢する時間が延びても何も嬉しくない。私の残された人生、好きなものをあと何回食べられるのかな。

 そう考えたら私、美味しいって感じられるうちに好きなものを出来るだけ食べたい、って思ったの。


 わかってたの。夫は、ダイエットで食べたい物を我慢する私を気遣ってくれていたんだって。


 本当はわかってたの。息子は私を否定したのではなく、太った私をバカにされるのがいやだったんだって。


 みんな、私の体のことを心配してくれているってわかっていたけど、我慢できなくて辛くて人のせいにし続けたの。


 今までずっとごめんなさい。

 最後まで、好きに食べたい私のわがままを通すことを許してください。


 こんな私を愛してくれてありがとう。


 平成30年5月10日


―—————


 56歳で早逝そうせいした母の遺文いぶんはここで終わっている。

 この日付から三ヵ月余りで腎不全じんふぜんにより亡くなったが、この文章を見る限り母にとって幸せな最期さいごであったことがわかった。

 僕は幸せな気持ちでノートを閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る