第73話 幕間16 ガヴリール・ドミナント

「諸事情あるから出発は明日の朝にする。これは決定事項だから」

 ユージーンお姉さまは『隠れ家』に戻ってくるなり、そう言いました。疲れたような仕草で前髪を掻き上げたお姉さまは、さらさらとした黒髪を持つ美少女であります。


 お姉さま、じゃないのかもしれないと、ついさっき知りましたけど。

 どこからどう見ても美少女なのに。カルヴィン様もユージーンお姉さまに恋心を寄せているようですけど。


 ……うーん?


 わたしはユージーンお姉さま? を見てソファから勢いよく立ち上がったカルヴィン様を見つめ、そっとため息をこぼしました。これからどうしたらいいのかなあ、と不安になっていたからです。

 お母様からの命令でわたしはここにいるけれど――カルヴィン様に拒否されたらどうしたらいいのか解らない。だからせめて、できるだけ足手まといにならないように、邪魔だと認識されないように、少しでも役に立たなくてはいけない。

 そのためには――。

 わたしは台所で淹れてきた全員分のお茶のカップをテーブルの上に置いて、居間の端っこでおとなしくしていました。


「諸事情って何よ」

 ダイアナ様はソファに座ってお茶を飲んでいらっしゃいましたが、不満げに鼻を鳴らしながらユージーンお姉さまを睨みつけます。その隣に座っているコートニー様も首を傾げています。このお二人はユージーンお姉さまのお姉さまたちだそうで、顔立ちはとてもよく似ていらっしゃいます。ただ、性格の違いが如実に見えている……そんな気がします。

「諸事情は諸事情」

 ダイアナ様を軽く睨みつけつつ、ユージーンお姉さまが少しだけ唇を尖らせました。「姉さんたちは気にしないだろうけど、警備団は色々あるんだ。宿舎にいた王女殿下もとうとう明日、王都に戻るらしいし。それを見送ってからの方がいいってことになった」

「どうして? 面倒だしさっさと行った方が」


 なんてことを、言い合っていらっしゃいます。

 警備団の団長が一緒に行動するからとか、王族のお見送りはしてからじゃないと外出はできないとか。それに、今回の問題に関わっている相手が高位貴族だから、貴族に詳しい団長がいた方がいい、なんてことを聞きながら。

 わたしはぼんやりと宙を見つめているだけでした。


「――で、いいかな?」

 そこで唐突に、わたしはハッと身体を震わせました。

 目の前に影が落ちたと思ったから、つい反射的に身を後ろに引こうとしたのです。心臓がばくばく言って、わたしの唇も震えます。そして気が付いたら、眉根を寄せたユージーンお姉さまがわたしの顔を覗き込んでいました。

「どうしたの?」

 少しだけ何かに気づいたように、そして探るような声音で問いかけてくるお姉さまに、わたしは笑顔を向けました。

 笑え、笑え。

 いつものように。

 誰かに不快感を与えないように。

 笑顔は武器だ。

 頭の片隅でそんなことを考えながら、わたしは首を傾げて見せます。

「すみません、聞いてませんでした。あの……何でしょうか?」

 無害そうに見えるよう、弱者に見えるよう、計算された動き。わたしはずっと、こうやって生き延びてきました。


 ――言うことを聞きなさい。

 ――あなたはただでさえ魔力が少ないんだから、せいぜい役に立ってもらわないと困るのよ。

 ――痛い目に遭いたいの?


 ――悪い子ね、地下にいらっしゃい。


 お母様の声が頭の中を駆け巡ります。思い出すと身体が震えてしまう。お母様による気まぐれな折檻は、痛いし苦しい。だからできるだけお母様の気に障らないように、大人しく従順でいることを努力してきました。

 少しでも逆らったら、お仕置きをするための地下室に連れていかれてしまう。暗くて何もない、石畳の床。血で汚れてもいいだけの、部屋。

 そこに行きたくないから、お母様の命令は何でも聞いた。

 カルヴィン様を誘惑することだって、お母様がそう命じたから。男の魔女を連れてくるまで、家に帰ってくるなと言われたから。

 わたしは、カルヴィン様を連れていく以外に生きている意味がないのです。


「……ガヴリールは留守番でいいかな? って訊いた」

 気づかわし気な表情はそのままで、ユージーンお姉さまが言います。その目に浮かんだ色は、気のせいかわたしを心配しているように見えました。気のせいです。きっとわたしの願望がそう見せているだけ。そう思うのに。

「ええと、ガヴリール?」

「はい」

「君はこの馬鹿と恋仲にならないと自分の家に帰れないんだよね?」

「馬鹿って何だー!」

 カルヴィン様の不満げな声が響いていますが、お姉さまはそれを無視して続けました。

「帰れないならここにいてくれてもいいんだけど、問題があって」


 と、そこからはユージーンお姉さま側の事情を説明してくれました。

 どうやら、お姉さまはカルヴィン様のことを誰かに押し付けたいようなのです。最初は、ダイアナ様、コートニー様の相手にどうか――と考えていらっしゃったようなのですが、無理そうだからスモールウッド家にいる他の方々はどうかと提案しています。

 もちろんカルヴィン様は抵抗されています。

 でも、行き場所がないカルヴィン様や、カルヴィン様の『元』お父様、色々謎の多い『元』魔術師を匿うにはいい場所なのだ――と考えていらっしゃるようで。


 わたしとしては別に、住むだけならこの隠れ家でもいいのではとも思いますが、ユージーンお姉さまはダイアナ様たちから距離をおきたいみたいなのです。だから、カルヴィン様を押し付けてお屋敷に帰そう、そのおまけにわたし――ガヴリール・ドミナントも同行させてもらえるみたいで。

 ありがたいのですが、いいのでしょうか。


「気になっているんだけど、ガヴリール、君は……誰かに暴力を受けている?」

 唐突に、ユージーンお姉さまはそうおっしゃいました。彼女は右手をそっと上げてわたしの頬に伸ばしてきましたが、触れる前にぴたりととめました。

「さっき、俺が近づいたら反射的に身体が震えただろ? あれ、無意識だったように見えた。俺も経験があるから解るけど、危険な相手がいるともうそれだけで駄目なんだよ。そういう風に、怯えてしまうように身体も意識も造られてしまっているから」

「ええと、その」

 つい、わたしの視線が泳いでしまいました。

 どう答えたらいいのか解りません。

 でも、わたし。

 さっき、台所でお姉さまのお手伝いをして、ただ野菜を切っただけなのに『有能』なんて言ってもらえて凄く嬉しかったんです。わたしのお母様はいつも『無能のくせに』とか言われているから、たったそれだけの言葉でも嬉しくて仕方ありませんでした。わたしだって誰かの役に立てる。そう思えたから。


「君は自分の家に帰りたい?」

 その言葉につい、わたしの肩が震えてしまいました。帰りたくない。でも、わたしの家はあのお母様がいるところしかなくて。

「実は、俺の家――スモールウッド家は誰もが家事が壊滅的な魔女ばかりでね、もの凄く、もの凄く、もの凄く困ってるんだ。野菜すら切れない、台所に行くどころか椅子に座って待つことしかできない姉もいたりしてね。家事とか手伝ってくれたら、それだけで助かるんだけど」

「家事」

 わたしはそこで、ソファから立ち上がってお姉さまに深く頭を下げました。「掃除ならできます! 料理も覚えます! ですから!」

「うん」

 ユージーンお姉さまの声は凄く優しくて、何だか泣きそうになりました。だから顔を上げることができなくて、床を見つめるしかできません。

「とりあえず、俺たちが出かけている時はこの隠れ家で留守番していてくれる? 帰ってきたら、また相談しよう。それで、頑張ってこの馬鹿を口説き落としてくれたらいいし」

「馬鹿じゃない! おい!」

 カルヴィン様がわたしたちの間に割り込んできましたが、ユージーンお姉さまはあっさりそれを聞き流していました。お姉さまに相手にされず、身の置き所のなさそうなカルヴィン様はただ右往左往するだけで。


 ちょっと、情けないなあ、なんてことも考えてしまったのでした。


 そして。


 ユージーンお姉さまが『お姉さま』でなくて。

 もしも『お兄さま』であったのなら。

 お母様の命令では、男の魔女を口説いて連れてきなさいということだったのだけれど。それはもしかして、カルヴィン様でなくてもいいのでは……? なんてことも考えてしまっていたのでした。


 ……駄目、でしょうか。


 そして翌朝、ユージーンお姉さまたちは隠れ家を出て行きました。わたし以外の人たち全員で、目的地に向かうのだそうです。

 わたしも客室を与えられていたので、ゆっくり寝た後の朝です。

 こんなにのんびりできたのは、一体どのくらいぶりだろうと思えるほどでした。朝食もまたユージーンお姉さまが作ってくれて、それがとても美味しかったし。食事の場はそれなりに和やかでした。

 でも、食事が終わると慌ただしくなりました。


「明日は仕事だから、今日中に帰れたらいいなあ……」

 ユージーンお姉さまはどこか無気力な目でそう呟きながら、上機嫌なダイアナ様の背中を見つめていらっしゃいました。ダイアナ様は「邪魔者は全部消して、早く帰ってきましょ」と足取り軽く外へ出て行きます。

 それはやっぱり、どこの魔女の家系も苦労しているのだろうなあ、と思わせる光景でもありました。

「おい! 団長とやらの仲は邪魔するからな!」

 カルヴィン様はそんなことも言ってましたが、やっぱりお姉さまから無視されてました。うん、どんどんカルヴィン様のイメージが崩れていきます。凄く綺麗な男性なのに。


 ヴァレンタイン様はぎりぎりまでイリヤ様を連れていくかどうか悩んでいたようですが、結局、一緒に行くことになったようです。離れている間にイリヤ様の身体に異変があったら対応ができないからだそうで。

「面倒くせー」

 イリヤ様はぶつぶつ言いながらも、素直にヴァレンタイン様の手を握って歩いていきました。その様子だけ見ていると、恋人同士に見えますが――あまり深く考えるのはいけないような気がするので、放置しておくことにします。


 こんな状況だから、留守番はわたし一人だけ。

 ちょっと不安はありますが、この隠れ家は設備だけは整っています。

 留守番をしている間に、もうちょっとだけ料理の練習をしておこうかな、と思いました。もう少しだけでも、ユージーンお姉さまのお手伝いができるようになったら、もっと褒めてもらえるのかも。

 そんなことを考えると胸がほわほわして、どきどきしてしまうのです。

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