第70話 幕間15 ジャスティーン・オルコット
「やっとお帰りになられる……ふ、ふふ」
私が宿舎の前に行くと、イーサンが玄関の前で手を組み、夜空を見上げて微笑んでいた。とうとう幻覚が見えるようになったのだろうかと思ったが、私は無言で彼の肩を叩くだけにとどめておく。
……その美声だけを聴けばとても男らしいと思うのだが、間違いなくこの団員の中で一番繊細なのがイーサンだ。多少は労わってやりたい。
辺りを見回すと、王都の連中は帰る準備を完了させたらしい。馬車に荷物を積み終えた人間から、宿舎の中に入っていく。明日の早朝に出立すると聞いているから、早めに寝ようとしているのだろう。騎士、魔術師連中の表情も、随分と安堵しているように見えた。
ああ、本当に『やっと』だ。
これで平穏な辺境の毎日が戻ってくる。
私が苦笑しつつ宿舎の中に入ろうとすると、イーサンがぐりん、と首を回してこう言った。
「もう二度とこんなことにならないよう、釘を刺していただけると! とても! 助かるのですが!」
「……ああ、何とかしよう」
私は目を細めて彼を見つめ、ひらひらと手を振ってから宿舎の中に入った。
ここ数日は、エーメは随分と大人しかった。それは彼女が婚約者との関係を修復できて、心の向いている先が変わったからだ。私からサディアス・ゴールディングへ。恋心を自覚した少女なら、それが当然。
以前はエーメは精神的に不安定だったから私に依存していたが、今はもう違う。だから純粋に――良かれと思って行動したのだろう。侍女という名目で、アレクシア・ローガンをユージーンに近づけさせた。
だがそれは、よりにもよって王家からの信頼が厚いローガン家の一員だ。我がオルコット家ですら、敵対すれば危険だと思われる相手。
アレクシア自身も、おそらくローガン家の一員として暗殺術を学んでいるだろうし、一度邪魔だと認識されてしまえば相手が魔女であろうと殺そうとするだろう。
そう、ローガン家の人間は誰かを殺すことを躊躇わない。だから厄介なのだ。
「もう終わりにしていただきたいと思います」
そして今、私はエメライン王女殿下の部屋に入り、勧められた椅子に座ることもないまま背筋を伸ばして立っている。
口調も完全に切り替えて、礼儀正しく家臣としてのものにした。
短い滞在の間に、かなり豪奢に改装されてしまった部屋。家具だけではなく、壁紙すら違う。ただ、それほど広くはないからこの部屋に控えている侍女は一人だけ。アレクシアが完全に気配を消して部屋の隅にいる。
「あら、何を?」
王女殿下は寝る前にハーブティーを飲むのが常だ。今も、アレクシアが淹れた薫り高いお茶を飲みながら優雅に微笑んでいた。
「……王女殿下、ユージーンに関わるのは今後一切やめていただけないでしょうか。それに、私にも」
「厭よ」
彼女は静かにカップをソーサーに戻し、椅子から立ち上がる。「前も言った通り、わたしはあなたに幸せになって欲しいから」
「そう……ですね、王女殿下はとてもお幸せそうで何よりです。我が団員も申しておりますが、サディアス・ゴールディング殿は優秀です。警備団の人間にはもったいないほどの腕を持っていますから、それほど時間を必要とせず、多くの魔物を倒して名を上げるでしょう」
それは嘘ではない。
彼は魔剣持ちということを差し引いても、優秀な男だ。
だが団員の人間の中には、サディアスを異物と感じている男も多い。サディアスの剣の扱い方は騎士のそれだし、力で押し切ることに慣れている団員たちとは全く違う。
それに、立ち振る舞いも考え方も完全に高位貴族のそれだ。一緒に生活するのが息苦しいから、魔物討伐のほとんどを彼に押し付けて数を稼いでもらい、早々に王都に戻ってもらおうと企んでいる部下が多い現状。
サディアスもそれを理解しているが、苦情を言ってくることもなく生活している。魔物の討伐数が上がれば上がるほど、王都に帰れる日が早くなると考えているからだ。
だから。
「私が責任を持って、サディアス殿を王女殿下の元にお返しするとお約束いたします。その見返りと言っては何ですが――」
「待って、そんな口調は厭」
彼女はそこで私の手を取り、きらきらとした瞳で見上げてくる。「わたしとジャスの仲でしょう? 何で急にそんな口調なの?」
「何事も潮時というものがございます」
「え?」
「アレクシア・ローガン嬢」
そこで私は視線を部屋の隅に投げ、微動だにしない彼女に微笑みかけた。「あなたの王女殿下に対する忠誠心は素晴らしいと考えています。ですが、これ以上、王女殿下が私に関わるのは問題です」
私の笑顔は本物に見えているだろうか。
今の私は純粋に王女殿下を気遣う気配を纏っているだろう。そう演じているからだ。
だが、これ以上王女殿下が私とユージーンの仲を邪魔するのであれば覚悟しなくてはならない。私にだって、幸せを求める権利があると思うからだ。手に入れたいと本気で思える相手が初めてできたのだから、努力するのが当然のこと。
だから、もしも王女殿下がそれを受け入れないのであれば。
「オルコット家の名前を捨てる覚悟もできています」
そう私が告げた後、しばらく王女殿下は慌てたように色々と言い重ねた。そのどれもが、単なる言い訳だ。ジャスに幸せになって欲しいから、とか。ちゃんとした貴族の人と付き合うべきだ、とか。ユージーンと別れて、早く王都に戻ってきて欲しい、とか。
馬鹿馬鹿しいものだ。
王都に戻ったとしても、もうすでに私の居場所などどこにもない。
エーメ、君ですら私の心のよりどころにはなり得ない。
私はそれから、時間をかけて彼女を説得した。今の自分には、幸せと呼べるものがこの土地にしかないこと。今の環境が幸せであること。
私は彼女にとって耳障りのいい言葉を吐くのが得意だ。だから、全力でそうした。王女殿下の幸せな婚姻を望んでいること、それこそが私が一番安心できることなのだ、と――嘘をついた。
そして最終的に、彼女はその嘘を信じたのだろう。少しだけ涙ぐみながら頷き、私に抱き着いて肩を震わせていた。
でも、私の心は震えなかった。昔はそれでも少しだけは彼女に心を奪われていたと思うのだが……それが今の私の真実なのだ。
彼女の部屋を出る前に、私はアレクシアにも一言投げかけておくことにする。
「王女殿下の言葉に従うだけでは、彼女の幸せにつながらない。君は悪いけれど、もしもこれ以上ユージーンに関わってくるようなら、対処しなくてはいけない。私はオルコット家から名前を抜き、ただの平民としてここで働くことを選ぶ。それを王女殿下が喜ぶかと言えば……難しいだろうね? 王女殿下を悲しませたくないのなら」
――君も行動を改めるべきだ。
命令に従うだけが臣下の役割じゃない。そんな思いを込めて彼女に微笑みかけると、何とも微妙な表情が返ってきた。
彼女の幸せはおそらく、王女殿下に盲目的に従うこと。でも、いつか理解してもらえたらいいと思った。
王女殿下の部屋を出たら、次に片づける問題は当然……兄だ。
これ以上、あの馬鹿にユージーンを監視されたくはない。真面目だし、優秀な魔術師であるのは確かなのだが――。
『お前から連絡してくるのは珍しいな』
魔道具のブレスレットから驚いたような兄の声がこぼれている。
それを私は、久しぶりに入った自分の寝室で聞いていた。
そうだね、私から連絡はしたくなかったよ。王都で言い合ってからは、必要最低限の接触にしようと本気で思っていた。
この魔道具は随分昔から持っていたが、使うのは避けていた。盗み聞きなどもされたくないから、自分で造った魔力封じの箱――魔道具の中に保管したまま放置していたものである。魔力回路を繋げてしまえば、兄はこれ幸いと余計なことまで聞き出そうとするのが目に見えていた。それが本当に厭で、文書を魔導鳥で王都に届けるくらいしかしてこなかった。
「背に腹は代えられないので」
私はそう前置きしてから、簡単に現在の王女殿下の様子を報告した後、話を切り出した。「ユージーンにブレスレットを渡したよね? それ、正直に言うと迷惑なんだ」
私は自分のベッドに腰を下ろし、ブレスレットを手のひらの上に置いている格好だ。そしていつの間にか、私の足元にはイヴが姿を見せている。基本的にはユージーンを見張るように命令しているが、どうやら彼に危険なことはないと判断したのか、今は私のベッドの脇で身体を丸めて眠ろうとしているようだ。
『お前のためだ』
僅かな沈黙の後、兄――ルーファス・オルコットがため息交じりに言った。
「何が?」
『彼女は危険だ』
「何故」
『そんなこと、お前が一番よく理解しているだろう!』
急に兄は声を荒げ、予想外の言葉を続けた。『彼女は人殺しだ!』
おやおや。
私は少しだけ言葉を失った後、失笑した。
「何を言うかと思えば」
『相手がいくら犯罪者だったとはいえ、彼女はアボット男爵とその息子を手にかけたと思われる。どうやったのかは解らんが、危険人物には間違いない』
うーむ、優秀な魔術師……のはずなんだがなあ。
私はブレスレットをベッドの上に放り投げ、足元にいたイヴを抱き上げて腹の上に乗せた。
「それは違うね。さすが兄さん、目の……」
付け所というか、いや、完全に節穴だ。残念過ぎる兄。
『違う?』
「ああ、ユージーンは珍しいくらいに『まとも』だよ。魔女とは思えないくらい普通なんだ。それこそ、普通過ぎて困惑するくらいに。だから、あの害虫……アボット男爵たちも手にかけていない」
『……本当か?』
「本当だよ」
そこから、不可解な沈黙が続いた。
困惑とも違う何か。表情が見えず、彼の声しか聞こえてこない状況だが……いつもと違う何かを感じた。
「兄さん?」
『実は……ここ最近、魔女殿に連絡を取ろうと思っていたのだが少し忙しくてな』
「何、いきなり」
『アボット男爵の息子が女性を殺していたのは確定だと思う』
「……?」
何を言い出したのかと私が首を傾げていると、ルーファスが疲れたように言葉を続けた。
『最近、若い女性が行方不明になる事件がいくつも報告されている。王都では少ないが……地方に行けば行くほど増えている、らしい』
「らしい」
随分と曖昧な言い方をするものだ。
私がただ相槌を打っていると、また兄はとんでもないことを言った。
『アボット男爵の件も、魔女が関わっていただろう? だから……危険だと思った。もしかしたら魔女が無差別に人間を襲っているのではと思ったから、部下たちに調べさせていたんだ』
「まさか兄さん、ユージーンのことも疑っていた?」
私は思わずそう訊いたが、返事はなかった。
返事がないことが返事そのものだった。
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