第17話 終わったことだって言ったけど

「何かしら、これ。随分と貧相な内容じゃない?」

 ダイアナが客室にあるテーブルに置かれた料理の皿に不満を言っているが、俺はただ笑って見せるだけだった。豚肉のロースト、野菜たっぷりシチューとサラダ。サラダがついているだけでもマシな方だと言いたい。

「今日はやんごとなき方々がいらっしゃっているので、厨房を自由に使うわけにはいかないんです」

 そう言いながらも、気を抜くと意識は「嫉妬とは何だ」とか「惚れてるって何だ」とか考えてしまっていて、姉の言葉が耳を通り抜けてどこかに消えてしまっていた。

 だって俺は考えたこともなかったのだ。

 女はヤバい生き物だと思いながらこの年齢になった。絶対、俺は女を好きにならない、期待もしないと思いながら生きてきた。

 なのに何だ?

 いくら男装していて女に見えないからといって、ちょっと優しくされて心がもやもやするとかおかしいだろ。

 そう、団長は女だ。よく考えろ。俺の姉たちと同じ生き物なんだ。正気に返るべきだ。


 そんなことをぐるぐる考えこんでいる間も、ダイアナはやんごとなき方々って何だとか、色々言っていたみたいだ。しかも、俺がぼんやりしていてその返事をしなかったから、ムカついて食事に添えられていたナイフを手に取ってそれを弄び始める。

「わたしの言葉を無視するなんて百万年早いのよ」

 なんて言いながら、肉を切り分けるナイフの刃を秘術で鋭く砥ぎ、俺の腕に押し当てる。

 ひやりとした感触に我に返って素早く腕を引いたものの、切れ味の良すぎるナイフとなったそれが細くて赤い線を俺の腕につけられていて――。

「姉さん」

 彼女を睨みながら、その傷口に手を乗せる。このくらいの怪我なら魔女の治療秘術で瞬時に治せるが、怪我の痛みに慣れたいとは思わない。

 まあ、砥いだナイフは鋭すぎて痛みなど感じなかったけれど。

「何よ? 女になって生意気になったんじゃないの?」

「女にならなくても生意気だったと思うけど」

「はあ?」

 ダイアナがナイフを握り直したので、俺は慌てて後ずさった。


 その時、客室のドアが軽くノックされて、何故かジャスティーンが顔を覗かせた。

「え?」

 俺が驚いてドアの方を見ると、彼女は俺を庇うようにダイアナとの間に立って、薄く笑う。

「悪いが、君の弟は回収させてもらうよ。わざと怪我をさせて楽しむような姉は信用できないし、それに、魔石一つで購入済みだしね」

 俺はその時には傷を治してしまっていたが、流れ落ちた血が床に滴り落ちていたから何があったのかバレバレだったろう。ダイアナの手の中にあるナイフも、血で汚れていたし。

「あらやだわ。楽しんでないわよ、しつけよ、しつけ」

 冷えた微笑を返した姉。以前の俺だったら、その裏のある笑顔に震えあがっただろうが――ジャスティーンに恐怖を与えることはなかったらしい。さりげなくジャスティーンが俺を客室の外に連れ出してくれて、扉を閉じると唐突に俺を抱きしめてきた。

「え? ちょ」

「目を離すと危険なようだ。君の様子を見ていてよかった」

 ジャスティーンは俺の肩に顔を埋めながら、そっと息を吐く。そして気が付いたら、俺は廊下の壁に押し付けられている状態だ。何も知らない人間が見たら、美形に抱きしめられている少女の図なんだろうが――俺としては、内心は複雑だ。

「様子を? っていうか、どうして俺がここにいるって解ったんです?」

 俺はそう訊いてみる。

 陽が沈んだ時間となっても、宿舎の中は慌ただしい雰囲気があった。食堂には来客である騎士と魔術師たちが集まっていたし、三階へ続く階段の前には見張りが立っていた。ジャスティーンとイーサンの姿は見当たらなかったが、その方が俺としてはありがたかった。正直、ジャスティーンの顔を見て平静を保てる自信はなかったから。

 だから俺は見張りの人間から自分の姿が見えなくなるように秘術を使い、こっそりダイアナの部屋に入ったわけだ。そう、誰にも気づかれていないはずだったのに。


「これでも私は有能な魔術師だからね。本館と宿舎内のことなら、ほとんど見通せるよ」

 そう彼女が続けたので、ヤバい、悪いことはできない、と心に刻んだ。

 まあ、する気はないけど。

 彼女に抱きしめられたまま視線を宙に彷徨わせ、そして遠くに聞こえてくるざわめきとか人の気配とかを感じると、こんなところを誰かに見られたら変に思われるんじゃないかと思って慌てた。

 俺が何とか彼女の身体を押しやろうとしていると、ジャスティーンが小さく続けた。

「誤解しないで欲しいんだが。その、終わったことなんだ」

「え?」

「……王女殿下のことだよ」

「……ああ」

 俺の視線がまた泳ぐ。ジャスティーンの顔は相変わらず俺の左肩の上にあったけれど、少しずつその位置を変えてきている。制服のままでここに来ているから、喉元まできっちりとしたシャツだ。しかし、明らかに――。

「か、噛まないでくださいね?」

 俺はおろおろとそう囁いた。彼女の唇が、シャツより上、無防備な肌の上に押しあてられたのが解った。というか、軽く食むような動きが感じられて危機感を覚えてしまう。

「ああ、噛んで私のものだと印をつけたいんだよね」

 ――藪蛇だったか!?

 俺の手が自分でも変な動きをした。混乱が行動に出ている。

「君を傷つけるのは自分だけでありたいと思うのは変かな?」

「変ですね!」

 俺は思わず大きな声で言ってしまって、ちょっとだけ慌てて辺りを見回した。誰か来たら困る。


「私と王女殿下はね、お互い、色々あった時期だったんだ」

 ジャスティーンの唇が俺の左耳の辺りにまで這い上がってくると、俺の混乱はさらに高まっていった。ここが山ならもう登頂している。

「い、い、色々、とは?」

「彼女もね、何かと微妙な立場だった。望まぬ婚姻は王族、貴族なら当然のことだがね、彼女の場合は……こじれすぎたんだろう」

「こじれすぎた」

「婚約者と上手くいかず、かといって誰かに相談しても我慢しろとしか言われず、困り切って、偶然近くにいた私に相談してきたんだ。彼女はその時、ほとんど男性不振に陥っていたから、私が女だということが都合がよかったんだろうね。その時は、私も色々精神的に不安定だったし、傷ついた彼女を慰めるのは……自分の自尊心を立て直すのにちょうどよかったというか。早い話、お互い、利用し合ったんだよ」

 なるほど。

 俺は真剣な彼女の声の響きに困惑しながらも頷いて見せる。

「あの時は、彼女も婚約者とちゃんと向き合うことにするって言って別れたんだけどね。また何かあったみたいで、逃げ出してきたらしい」

「何か?」

「本当、婚約者殿は何をしているんだか。王女殿下と婚姻を結ぶんだから、何を横に押しやってでも彼女を大切にすべきだと思うのにね」

 忌々しそうに言ったその声音は、エメライン王女殿下を思いやる響きが含まれていた。でもすぐに、はっとしたように彼女は俺から少しだけ離れ、俺の顔を覗き込んでくる。

「これは彼女を愛しているからとかじゃなくて、ただ単に――臣下として当然な想いだよ? 君に対する感情とは違う」

「いや、あの」

 俺は目を細めて首を傾げる。「大体、俺に対する感情だって怪しいというか」

「だからそれは」


「ジャス」


 そこに、優しいながらも冷えた声が響いて俺とジャスティーンの身体が強張った。

 俺たちがいるのは廊下なんだから誰が通るか解らない。その上、さっきからこれほど言い合っていれば誰かの耳に届くのは当然のことだった。

 気が付けば廊下の奥に銀色の美しい髪を掻き上げながら立っているエメライン王女殿下が立っていて、その左右には彼女を見守る侍女たちが控えている。侍女たちは無表情であったものの、さりげなく敵意のようなものがこちらに向けられているのが解る。

「ジャス、こんな廊下でどうしたの?」

 王女殿下が続けてそう問いかけてくる。嫣然と微笑むその笑顔は、やっぱり――俺の姉たちと似通ったものを感じてしまう。何だか怖い。

「ああ、ごめん」

 ジャスティーンはそっと俺から離れると、王女殿下の前に歩み寄って軽く頭を下げる。「彼女はこの団では新人でね。私が教えることも多くあるんだ」

 その砕けた口調が、ジャスティーンと王女殿下の関係の近さを教えてくれる。

「あら、そうなの? 教育なら……ほら、あなたと一緒にいる人に頼めばいいのに。彼は副団長なんでしょう?」

「ああ、イーサンか。彼は無理だな。体調不良でそれどころじゃない」

「あら」

 くすくすと笑いながら、王女殿下がジャスティーンの腕に自分の腕を絡める。そして、親しい人間同士がするように身体を寄せ合うその姿は、どう見ても恋人同士だ。


 ――終わったことだって言ったけど。全然終わってないだろ。


 俺はそう考えてしまう。


 廊下の壁際に身を寄せていた俺に、ちらりと視線を投げてきたエメライン王女殿下は、どこか自慢げに俺に笑って見せる。勝者の笑み、そういうことだ。

 俺はそこで彼女たちに一礼し、自分の部屋に戻った。俺は女という立場だから、宿舎から追い出されることはなかった。だから、王女殿下がジャスティーンの部屋の隣の部屋で寝泊まりしている間、ずっとここで生活することになる。

 でもそれが、何だかもの凄く居心地悪く感じた。


 何だこれ。本当に俺、嫉妬しているんだろうか。おかしいだろ。

 ふと我に返ってそう自分に言い聞かせるが、胸の中のもやもやはさらに大きくなっていく。

 とにかく、苛立ちを振り払うように乱暴に着替えを始めたところにとどめである。


 宿舎の壁はそれなりに薄い。さらに、わざと俺に聞かせようとしているのか、大きな声が廊下で響いている。

「ねえジャス。今夜は一緒に寝てもいい?」

 その声にジャスティーンが呆れたように声を上げる。

「いや、待ってくれ、エーメ」

「あ、やっと愛称で呼んでくれたわね!」

 その後は、彼らの声が小さくなったので何を話しているのかは聞こえてこなかった。

 でも、何だか。何だか。


 いや、ちょっと待て。今、俺は何を考えてるんだ? 冷静になろう、それがいい。


 しかし翌日から、妙に王女殿下が俺に見せつけるようにジャスティーンに身体を寄せて、ジャスティーンは立場もあってそれを拒否することができずにいる。それを見せつけられる俺の心境は、自分でも説明できないものになっていった。

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