第9話
◆
例のバイクに衝突された車、その助手席にいた男は、俺がセーフハウスで吸血鬼の相手をする前に、始末されていた。
誰のせいでもない。そういう役回りだったし、遺族には保証があり、彼自身の名誉も損なわれることはない。
民間警備員の殉職。そんなところで落ち着くはずだ。
新しい補助要員が来て、例の娘は棺に元通りに収まり、地上へ運び出された。前と似たような車に協力して棺を運び込み、発進。地下駐車場から地上へ出ると、朝日が街を照らしていた。
さすがに今度は念入りに周囲を確認している運転手と助手をよそに、俺は自分の体の様子を確かめていた。
睡眠時間はほんの数時間だが、精神的にはどこも不均衡はなく、何にでも対応できるだろう。
ただ全身の痛みはなかなか治らない。特に胸の痛みはともすると息を飲んでしまいそうになる。
今回の任務が終われば、一度、徹底的な検査を受け、治療を受けることになるだろう。
あの吸血鬼の一撃は、ほんのわずかに狙いを外したのだと思う。そのほんの少しのズレがなければ、俺の心臓は一撃で破壊され、即死していた。封印されている力を解除する余地はなかっただろう。
吸血鬼を相手にするのは、生死の境を目隠して歩くようなものだとは思っていたが、さすがに死にかけた、それも自分が死にかけたとなると、冷や汗も流れる。
こういう経験を積み重ねて強くなる奴もいれば、どこかで臆病に支配され、そのまま消えていくものもいる。俺は果たして、どちらだろうか。
棺に目をやるが、声は聞こえないし、気配も弱い。吸血鬼は日光の気配に敏感と分析する科学者もいると聞いている。人間が例えばかすかな光の気配でも昼夜を把握できるように、吸血鬼は夜の闇の気配で昼夜を把握するようだ。
俺はシートに背中を預け、細く息を吐いた。
これで終わりになればいい、と思うのは弱気だろうか。これ以上は何も起こって欲しくない、と思うのは臆病だろうか。
闇の中で戦うとはいえ、戦士としては失格なほど、俺は気力を立て直せないでいるらしい。
世界の、社会の大半からは見えない戦場で、見えない存在が戦っているのは、実に奇妙なことだ。
しかもその見えない場所で、命を散らしているものが、確かにいる。
闇に生きるものも、闇に生きるものを討伐するものも、等しく、散っていく。
虚しいか。愚かしいか。
吐いた息が、まるでため息のようになった。
この日は何も起こらず、無事に車は郊外の山の中にある屋敷にたどり着いた。柵でぐるりと囲まれていて、表の柵は自動で開いた。車が敷地に乗り入れる。
古びた洋館が立っており、その玄関前で車が止まると、これは、と思わざるをえない黒い背広の男たちが外へ出てくる。俺はそのうちの一人に身分を明かし、指令書の確認をさせた。その間にも棺は車から出され、屋敷の中に運ばれていった。
「お疲れ様でした」
背広の男の言葉に、無言で頷く。
「体調に乱れがあると本部から通報が来ています。規定に基づいて、検査を受けるように、と通達が」
それもそうだろうな。
V2MMは便利なことに、遠距離からでもその宿主の体調をモニタリングできる。位置情報なども送られている。もしかしたら、個人的な情報さえも引っ張られているかもしれない。
少なくとも、俺自身の見立てよりは科学的に分析できるようだ。
もっとも、命の恩人であるV2MMを悪く言っても仕方ない。
V2MMがなければ俺はここ二日で何度も死んでいる。
「すぐ行かれますか?」
黒服の言葉に、ちらっと視線を車の方に向けると、新しい運転手と助手が待っている。
すぐ行かれますかも何も、すぐ行け、って感じだな。
「行くよ。後を任せる」
俺の言葉に、今度は黒服が無言で頷いた。何を任されたか、判断できなかったのかもしれない。あの娘のことだとしても、こんな黒い背広のリーダーにできることは何もないのだ。
上着の中から取り出した、血で汚れた例のカルテの入った封筒を男に押し付けてから、俺は洋館に背を向けて、車に歩み寄った。
●
私は棺から出て、眩しい光に目を細めた。
日光ではない。電灯だ。
「どこも怪我はない?」
そう言ったのは恰幅のいい女性で、私が体を起こすのを手伝ってくれる。気配からして、あの男とは違う、普通の人間のようだ。
「怪我ありません。でも、お腹が空きました」
正直に答えながら、棺を出て立ち上がる。
体の具合は正常、どこにも不調はない。
部屋は洋風な作りで、時間の流れを感じさせる。書物机や椅子なんかも、いかにも年代ものだった。
しかし、ベッドはない。代わりに棺桶があるから、吸血鬼らしく棺で眠れ、ということか。
女性がすぐそばの机の上にある小瓶を手に取るので、慌てて補足した。
「あの、食べ物、ありませんか? 錠剤ではなく」
あら、と女性が不思議そうな顔になる。
「錠剤は飲まないといけないのよ。でも、食べ物なら、食堂にあると思うわ」
「じゃあ、そこで何かを」
女性がちょっと首を傾げる。
「お腹を空かせて食べ物を欲しがる吸血鬼なんて、珍しいわね」
「ずっと何も食べていなくて」
いいでしょう、と女性が笑って、「こっちへ」と案内してくれる。
廊下へ出た時、そこに例の男がいるのでは、と実はちょっと期待していたけど、誰もいない。
「一つ、聞いていいですか?」
時間は夜で、廊下の窓にはカーテンが引かれている。古風な明かりは光量が弱く、全ての光景がぼんやりとしている。
女性が「何かしら」と背中を向けたまま言うので、思い切って言葉にしてみた。
「私をここへ連れてきてくれた人、名前も聞いていないんです」
あら、と女性が足を止め、こちらを振り返る。
しばらく、視線を交わす形になった。
にっこりと、女性が笑う。
「私はあなたの名前も知らないわ。私の名前は松木よ」
そうか、私は誰にも名乗っていない。
「私は、天城麻莉奈です」
「そう、天城さんね」
松木さんは満面の笑みで言った。
「彼はね、優秀なダンピールで、名前は−−」
(了)
ノワール 夜は密かな戦場 和泉茉樹 @idumimaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
相撲談義/和泉茉樹
★6 エッセイ・ノンフィクション 連載中 27話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます